「やあ、お待たせ」
突然の邂逅を終え、スボミーインの一階にあるカフェラウンジのソファにどっぷり座っていると、背後から副社長がにゅ、と顔を出した。
「おかえりなさいませ」
「うん、ありがとう。なんだか浮かない顔をしているね」
会って数秒で見抜くこの男はさすがだ。いや、私の顔がわかりやすすぎたのだろうか。スマートな歩き方で私の隣に座って、ウェイターにコーヒーを一つ頼むと、「なにかあった?」と彼は顔を覗き込んできた。
「なにも」
もはや取り繕う余裕もなく、不躾に告げる私に彼はふむとあごに手を当てる。
「ローラちゃん、ちょっとこっち向いてくれるかい」
ちゃんづけは続行なのね。内心はあとため息をつきながら、姿勢を正して副社長のほうを向く。額に彼の冷たい手がふれて、私は肩を揺らした。
「熱は、ないようだね」
至近距離で瞳を覗き込んでくる、その銀色の虹彩がどこか見たこともないような宝石に思えて、身動きがとれなくなってしまう。長い睫毛にスッと通った小ぶりな鼻、それから整った唇。美しい造形にだらしなく口が半開きになる。
「昨日、無理させすぎてしまったかな」
隣の席のマダムが、まあ、と頬を染めながら私たちを見ている。お熱いわね、じゃない、やめてください。あらぬ勘違いを生んでしまっているのよ石マニア!
……なんて内心ご乱心ではあるが、決してそういう仲ではないんです、と否定する余地があるはずもなく。私は副社長に向かって、ちがいます、とかろうじて口にした。
「ただ、ある人に、会ってしまっただけなんです」
あれ、どうしてこんなこと言っているんだろう。そう思ったときにはすでに遅い。
「ある人?」
首を傾げた彼に、こっくりと頷く。
「結婚、したかったひと」
かすかに彼の瞳が細まった。
なんでこんなこと……。再三ため息をついて、「忘れてください」と彼から目を逸らす。
冷めたアールグレイに口をつければ、それは苦くて、それでいて甘かった。やけになって落とした砂糖が、いまさら舌にまとわりついてヤな感じだ。でも、それよりも、額にひんやりとした彼の手の感触が残っている。
体が熱い。それなのに、キバナのことを考えると、なんだか背すじが冷える。
「だから、こんなのしているんだ」
こんなの、と彼は、ティーカップを置いた私の左手首を掴む。薬指には、外したくても外れない銀色の指輪があった。私は咄嗟にその手から逃れようとした。
「これは、たまたま家で懐かしくなってつけたら、外れなくなっちゃって」
「その彼からもらったのかい」
見た目は華奢そうに見えるのに、力を入れてもびくともしない。そうです、と観念して答えると、副社長はウェイターが運んできたコーヒーに目もくれず、「おいで」と私を連れて立ち上がった。
「どこに行くんですか」
あのラウンジの会計だって済んでいない。彼のコーヒーだって頼んだばかりだった。だというのに、腕を引いて迷わず進んでいく彼の背中をただ見つめているしかなかった。
キバナとのことがあって、とてもじゃないけれど気持ちの整理がつかないままだ。いつもならうまくかわせるだろう言葉もかわせないし、副社長の一挙一動に過剰に反応してしまう。それに、なぜだかキバナのことを知られてしまったのが、気まずいことのように思えた。私から言ったくせに、自分勝手な自分にも腹が立った。
「副社長。……副社長!」
訊ねても、ひと言も答えてくれない彼に不安が募る。今、どんな顔をしているのだろう。なにを想っているのだろう。銀色の美しい髪が揺れる。彼に手を引かれる私は、シンデレラでも白雪姫でもなんでもなく、情けない顔をしたどうしようもない女だ。
ロビーを横切って、やがて隅に設えられたパウダールームに副社長は入っていく。
「あの、ここ男性は……」
小さく呟くが、彼はそれすらも無視して私を洗面台の前に立たせた。勢いよく水を流す。そして、スーツの裾が濡れるのもいとわず、彼は手を濡らすとソープをその手にとった。
「指、出して」
すっかり彼の言うことを聞くようになってしまった体が、自然と左手を差し出す。たっぷりとソープを泡立て、彼はやさしく私の手を包む。
「あの、副社長?」
「ボクの名前は、副社長じゃないよ」
フローラルの香りが掠める。さりげない香りのはずなのに、なぜだか脳がぼんやりしてしまう。彼のしっかりした指が泡の中で私のそれと絡み合って、指の付け根から指先までやわく撫でてはほどよい力で押され、きゅっと指先までしぼられる。硬くなった指のはらが手の甲の敏感な部分にふれるたび、泣き出したくてたまらなくなる。
「ダイゴさん、これは、いったい」
泡まみれになった自分の手。そして、そこに、彼のそれが複雑に絡んでいる。
「あとすこし。あとすこしだけ、がまんしてくれるかい」
そう言う彼の横顔は、ちっとも笑ってはいなかった。今朝、甘ったるく寄越されたあの完璧な微笑も、普段浮かべている御曹司然としたかすかな口角の上がりも、なにひとつそこにはない。
薬指を何度も撫で、入念にマッサージをくり返す。その繊細さと、それから隠しきれていない荒っぽさに、私の中で劣情が膨らんでいく。
できるだけ彼の顔を見ないようにしたいのに、そうすると、鏡の中で自分の姿を目にすることになってしまう。頬が染まり、瞳が溶けた、そんな女の顔を。
必死で瞳を伏せると、「もう、大丈夫だよ」とダイゴさんが言った。ザアア、と勢いよく水が流れる。そこへ直接私の手をつけるのでなく、自分の手のひらにみずをとって、私にかけてくれる。ぬるぬるとした感触がすこしずつ薄れて、彼は私の手を左に載せたまま、片手を軽くふるってジャケットの内側に手を入れた。
「痛くなかったかい」
スーツと同じ色合いのハンカチで濡れた手を拭ってくれる。そこまでしなくても、一人でできるのに。そんな言葉は吐息になって消える。
ただ、こっくり頷いた私に、やっとのこと彼は微笑を浮かべた。
「じゃあ、ごはんでも食べに行こうか」
冷たくなった手をそのまま握られ、今度はパウダールームを優雅に出ていく。
「あの、副社長?」
「ダイゴ」
「ダイゴ、さん?」
必死で声をかけると、彼は足を止めて鷹揚にふり返った。
「なんだい、ローラちゃん」
「その、今さっきのはいったい」
たおやかな笑みを浮かべたまま、彼は再びスーツの内ポケットに手を差し込んだ。
「とれたよ」
きらり、輝くのはシルバーのリングだった。あっと思い左手を見ると、ほんのり赤く痕が残っていた。
茫然とする私をよそに、彼は笑みを深くして、「行こうか」と言う。
「いいお店を予約していたんだ。キミ、カロス料理は好き?」
「すき、ですけど……」
「そう、ならよかった」
なにごともなかったように指輪をジャケットに戻して、彼は繋いだ手を軽く持ち上げると、薬指にひとつキスを落とした。まるでおとぎ話の世界だった。
なにひとつ理解できないうちに、スボミーインのふかふかな絨毯の上をエスコートされていく。
キバナと話す時間が欲しい。そんな言葉はすっかり頭から抜け落ちていた。ただ、かすかに残るフローラルの香りとシトラスウッディの刺激的な彼の匂いに、私は泣きそうになるのを必死に堪えて彼のあとをついていった。
ほわほわとマホミルが浮かんでいるような夜を終えて、また新たな一日がやってきてしまった。せっかくのオフだったのに、いろいろとありすぎたせいで休んだ心地がしないのは、気のせいではないだろう。途中まではトレーナー生活を思い出して最高だったのに、ナックルシティなんかに行くからだ。
カーテンから射し込むガラルの朝日がまぶしい。まだ、眠っていたい。なにも考えたくない。しかし、時間は人を待ってはくれないものである。
あっという間に過ぎ去った夜に、まるでタイムスリップをしてしまったみたいだった。しばらくシーツの中で放心していた私は、ビー、というベルの音で意識を取り戻した。
もしや就業の時間か、と時計を見ればまだ朝の六時。こんな時間に訪ねてくるなんて副社長しかいない。そう思い、ベッドから飛び起きると、少々お待ち下さい! と大きな声でドアに叫んでネグリジェから着替えた。急いで顔を洗って、ザッと下地とアイブロウ、それからマスカラで応急処置。なんとか副社長秘書ローラの威厳を取り戻して、扉を開けた。しかし、そこにいたのは、副社長ではなかった。
「よ」
「は?」と、思わず素っ頓狂な、それでいてオクターブ低い声がもれて、慌てて口を押さえた。
だって、まさか、こんなことってある? 驚いて言葉を失った私に、ここにいるはずのない、目に鮮やかなオレンジと碧い瞳を持つ彼は、ふっとまなじりを緩めて肩をすくめてみせた。
「スケジュール見たら、しばらく空きがなくてよ。朝早くに悪い」
「う、うん……。よく、ここがわかったね」
「ちょっとな」
ちょっとなってなに、と思いつつ、このままガラルで有名なこの男をドアの前に立たせておいてはいけないと中へ案内する。
「ごめんね、あまり、きれいじゃないんだけど」
とはいえ、いつ副社長が突撃してくるかもわからないので最低限の整理整頓は癖づけていた。その習慣に感謝する日がくるとは思いもよらなかった。
いつものドラゴンパーカー姿のキバナを窓際のチェアに座らせる。そのあいだにポットで湯を沸かして部屋に用意されていたコーヒーを淹れた。
「ん、ありがとう」
ただのインスタントコーヒーだ。それでも律儀にもお礼を言うキバナにみぞおちのあたりが疼く。こういう男なのだ、彼は。豪快そうな見た目に反して、繊細な気遣いを自然と自分のものにしている、立派なガラル紳士。初めはこのギャップにびっくりしたものの、次第に物腰柔らかな育ちのよい彼に惹かれていったのだっけ。荒々しいバトルスタイルでも、華々しいその見た目でもない。素朴で、純真な彼に。
彼を前にすると、どんどん余計なことを考えてしまう。そうしていつのまにか胸がいっぱいになり、あふれ、こぼれていく。あのころはいつだって、私のグラスは満たされなかったのに。どうして、今さら。
「指輪、とっちまったんだな」
指摘されて、「あ、うん……」と私は左手をさりげなく隠しながら、自分用に紅茶を淹れる。昨日の余韻をさっさと断ち切りたかったのに、これではいつまでもずるずると引きずってしまう。けれど、副社長に暇乞いをする余裕も、キバナと約束をとりつける余裕もなかったから、来てくれたのは正直ありがたかった。
「それで、今日はどうしたの?」
砂糖に伸ばしかけた手を止めて、テーブルを挟んで反対のチェアに座る。キバナと向き合う形になり自然と視線がすこし下がる。
キバナはひと口コーヒーを飲み、長い指でカップの腹をとんと打った。すぐにはなにも言わず、時を待っているようだった。
やがて、小さく息をつくと、彼は口を開いた。
「オレたち、やり直さないか」
そんなことを、言われるんじゃないかと思っていた。カップに添えた手が震え、私はおそるおそる顔をあげた。朝日を背負ったキバナがそこにいた。
すぐ目の前、手の届く距離に。
「オレのせいであんなことになったのに、今さらなんだよって思うかもしれない。けれど、だからこそ、今度はおまえを守りたいんだ」
向かい合って、キバナの碧い瞳を覗き込むのが好きだった。海を詰め込んだ宝石みたいで、いつまでも、いつまでも見ていられたから。どこか遠くの見たこともないような楽園に飛び込み、ゆらりゆらり身を預ける。そんな夢見心地に彼はいつだってさせてくれた。
けれど、いつからだろう、それがどうしようもなく辛くなってしまったのは。
垂れたまなじりをなぞるのも、ラテラルの山々のようにすうっと秀でた鼻梁を辿るのも、ぜんぶ、ぜんぶ、大好きだった。なのに――。
キバナの手が私の手にふれる。大きな、私を包み込むようなたくましい手。日に焼けた肌の色も、全体的に硬くなったその感触も、ドラゴンのように熱い温度もすべて、あの人とはちがう。
「キバナ、わたし……」
「ローラ。おまえを幸せにしたい、今度こそ」
長い指が薬指をそうっと撫でる。全身に血潮が駆けた。どくり心臓が早鐘を鳴らして自分の体ではないように思えてしまう。しかし、なぜか頭の中は至極冷静だった。
向かい合ったまま、見つめ合ったまま、私たちには自分たちしか見えていなかった。これまでも、これからも、きっと……。
「わたし、ね……」
切り出そうとして、けたたましいベルの音が鳴った。先ほどと変わらないはずなのに、深閑とした空気を切り裂いたそれに、私は大きく飛び上がってしまった。
ビーッ、ビーッ、ベルは鳴り続く。「ごめん」ひとつ謝りを入れて立ち上がると、キバナはヘアバンドを外して、構わないと小さく肩をすくめた。急ぎ足で部屋を横断してどうにか重たい扉を開くと、まみえたのはシワひとつない艶やかなジャケットだった。
「副社長、どうかなさいましたか」
やっぱり、という気持ちだった。まだ始業前ですよね、と暗に含めて、不躾な顔ではなく笑みをはりつけた私に副社長は一瞬目を丸くした。だが、すぐに一人でないことを察知したのか、「おじゃま、してしまったかな」とこれまた完璧な笑みを返してきた。
「いえ、なにか御用ならおっしゃってください」
「そう、それなら、言わせてもらおうかな」
副社長は左手を胸のあたりに掲げて手首を反対の手でするりと撫でると、ふっと笑みを小さくして、代わりに艶のあるまなざしで私を見下ろした。
「いつもみたいに、ダイゴって呼んでくれないの?」
……この期に及んでこの男は。ぴきっとこめかみに青筋が立つのを感じながら、私はかたくなに笑みを崩さず彼を見つめかえす。
「副社長」
「失礼、冗談はこれくらいにしておこうか」
降参の構えを示した彼に、はあ、と小さく息をつく。夕方のホームドラマみたいなふざけた顔を引っ込めて、彼は仕事モードの振る舞いに切り替えた。
「来週のパーティーに関して、支社から呼び出しがかかってね。キミ、タブレット確認してない?」
ハッとしてサイドテーブルに転がしてしたタブレットをとりに戻る。昨日の朝、確認したきり放置していたのだ。そんな秘書としてあるまじきことを……。焦って確認すると、たしかに会社からのメールが届いていた。
「すみません、届いていました……。でも、パーティーってなんですか? ひと言もそんな話、聞いていないのですが!」
「うん、今、言った」
タブレットを抱えたまま、悲鳴に似た声がこぼれる。ケンホロウの叫びに似ていたか。だが副社長は意に介さず、涼しげにニコッと笑うばかり。
ほんとうに、なんてことだ。《デボンコーポレーションガラル支社主催、新作発表パーティーにて行われるエキシビションマッチに関して》という仰々しい一文に、めまいを通り越して頭痛がする。
「エキシビションマッチまで……」
「ごめん、それも参加する」
「なんで! そういうの! 早く! おっしゃってくださらないんですか!」
新作発表パーティーはこれが初めてではない。しかし、年に一度はそのようなパーティーが行われるような大企業であったことを、たった今、ようやく思い出したのである。
かつてラボで働き始めたばかりのころ、上司に連れられてパーティーに参加したことがあった。副社長がいたかどうかは憶えていないが、かなりの規模だった記憶はある。たしか、ダンデや各ジムリーダーも参加していた、ような……。
そこまで思い返して、私は我にかえった。
「ちなみに、彼も参加するからね」
ぎい、と壊れたロボットのような動きでふり返ると、チェアに座ったままテーブルの上で神妙に手を組み合わせているキバナの姿があった。
「キバナさん、来週はよろしくお願いします」
副社長のあいさつに、キバナにしては珍しく不躾で冷ややかな目を浮かべていた。
本当に、そろそろ厄払いに行ったほうがいいのかもしれない。それかカブさん、エンジンの彼方から助けに来て……。泣きそうになりながら、私は窓の向こうの鮮やかな光を眺めていた。ひたすら、いやな汗が背を伝っていた。
