「おまえとずっと一緒にいられたら、幸せだろうな」
あの人は言った。大きな大きな手で私の手を包みながら。竜のようにあたたかな温度が心地よくて、ずっとつないでいたいと私はおもった。
やさしくそそがれる甘く垂れた碧い瞳。海のようにも、空のようにも思えるその複雑な虹彩は、いつだって私の心を灼いた。
「結婚しよう」
くすりゆびに触れる感覚。ずっと、ずっと求めていた。小さなころから、そして、大人になってからも。
あなたに惜しみなく、愛されることを……。
「夢か」
ハッと目が覚めると、私は大空を飛んでいた。斜め前方でタクシーの運転手が、「あれ、お客さん、おつかれですか?」とのんきな声を風に乗せる。
ガラルの天気は晴天。ナックルシティ上空には灰色の渦が巻いている。今日も今日とてすなあらしなんて、いかにもあの街らしい。
「そうですね、このごろ上司に振り回され続けていたので」
こんなことを言えるのは、その本人がいないからである。
トイレとお風呂意外は常にニコイチ状態だった副社長がここにいないのは、朝、顔を合わせるなり、「外せない用事がある」と私にオフを与えたためだ。視察でもなんでもない、正真正銘のオフだった。
――じゃあ、帰るころには連絡するから。夕食は一緒にとろう。
はて、私の父親かなにかだろうか。そんな疑問を抱く私を置いて、さらりとジャケットを羽織って、執務室と化したスボミーインのスウィートルームから彼は消えたわけである。
あの去り際の、女性が見惚れるような完璧な顔を思い出しては胸焼けがする。ほかの人が見れば黄色い声援ものかもしれないけれど、今さらそんな笑みを向けられたとして、かえってなにか魂胆があるのではと思うだけだ。
とにかく、そういうわけで呆気なくオフを勝ち取った私は、ハグはしないけれど、ポケウッド映画でよく見るようなそんな別れのシーンを冷ややかな気持ちで眺めて、すぐさまそらとぶタクシーを呼んだのだった。
「まさか、こんなにカンタンに解放されるとはねえ」
これからバウタウンの自宅に帰る。すでに窓の向こうには青々とした海が広がり、頬を吹き付ける風はどこか懐かしい匂いがした。自宅に懐かしいって、と呆れたくもなるけれど、副社長秘書に就任してからというもの、かれこれずっとホテル住まいだったのだ。副社長はバウタウンに寄りつきはしないし、長らく家に帰れずにいた。
オフだからもっとパァーっと飲みに行ったりなんだりすべきなのかもしれない。でも結局、そこまでの元気もない。掃除や片づけをしなくてはならなかったのもあった。それでも、バウタウンに着くと自然と気持ちが軽くなった。
「またのご利用お待ちしてます」
気持ちのいい挨拶を背にヒールを鳴らして階段を駆け上がる。隣の奥さんが花壇に水やりをしていたので、「こんにちは」とにこやかに声をかけると、亡霊を見るような顔をされた。が、とりあえず曖昧に笑って部屋に逃げ込んだ。
久しぶりに見る我が家は、以前とさして変わるところはない。それもそうだ。きれいになるわけでもなく、荒れるわけでもなく。多少家具にほこりはかかっていたものの払えばすぐに落ちたのはよかった。それから、問題の冷蔵庫のゴミはまるっと捨てて、洗濯機も回して、とにかく片づける。
次はいつ帰ってこれるかわからないから、備蓄していた食材も泣く泣くゴミ袋にまとめ、枯れかかっていた観葉植物たちに水をやる。ひと通り終えたところでボールの中で疼いていたゲンガーを出してやると、おしりを揺らしながら彼はどこかへ消えた。
「なぁんか、自分の家じゃないみたい」
もっと安心するかと思ったのに、まるで他人の家にやってきたみたいだ。両親が田舎へ越しがらんどうになった我が家で、必死に揃えたカロス風のアンティーク家具も、今の私には少々くどすぎる。あのころはとても可愛らしく思っていたのに、華美な装飾のついた鏡台を手で撫でてため息をつく。そのとき、ンガッと声がしてふりむくと、ゲンガーが戻ってきたようだ。
「ん、どうしたの?」
ニヤニヤ、いつもの調子で笑いながら、相棒は手を差し出してくる。なんだろう、落ちていたバチュルでも捕まえてきたのだろうか。そう思って私も手を伸ばすと、手のひらになにかがことりと落ちた。
「指輪……」
なくしたと思っていた、シルバーのリングだった。
「どこで、これを?」
ンガッ、ンガンガー! と、ゲンガーはなにも答えず、ひたすらしたり顔だ。まさか、この子が探し出してくれるとは思わなかったけれど……。お利口さん、と頭を撫でてあげれば、またしてもニヤリと笑って消えていった。
「……とはいえ、いまさら、ねえ」
誕生日にキバナからもらった指輪だった。別れたときに外したきり、どこにあるのかわからなくなっていた。銀色の華奢なデザインのそれは、女の子たちに人気のブランドのもので、彼からプレゼントされたことがうれしくて、そうだ、とにかくうれしくて、ずっとつけていた気がする。
ふと、そんなことを思い出しながら、指輪を右くすりゆびにつけてみる。
「入らない……」
きっと、連日の採掘のせいだ。絶対にそうだ。あまりにもショックでしばらく立ち直れなくなるところ、思い切って反対の手にはめてみる。
「ぴったり」
いまさら、なんて皮肉なのだろう。左手のくすりゆびに瞬く光。いたたまらなくなり、片付けを中断して私はソファへと背中から飛び込んだ。
「結婚式を夢みてた女が、まさか、先に葬式を挙げられそうになるなんてね」
天に手をかざして、かつての愛を眺める。誓いを示す指にはめられた銀の指輪。碧い宝石が一粒埋め込まれているそれは、「いつもオレさまがついてるみたいだろ?」と彼がキザったらしく選んだものだった。それすらも、今となっては懐かしい。
細いリングと小さなアクアマリン。まるで少女みたいなデザインは今の私には可愛らしすぎる。それでも、あのときはこれ以上に似合うものはないと思い込んでいたのだ。彼が私のために選んだ特別な指輪。唯一無二の私のたからもの。
人生とはままならないものだ。真っ白なウェディングドレスを着て、バージンロードを歩く。待ち受ける彼と目があって、愛を誓う。そんな、なんでもない、大多数が手に入れられるような人生が私は欲しかった。幸せになりたかった。
どこから間違ってしまったんだろう。アクアマリンが瞬く。それすらも眩しい。
もしかすると、最初から間違っていたのかもしれない。でも、まちがいさがしを始めたところでもはやきりがないだけだ。
喪った愛をふり返るのをやめて、私は指から指輪を抜こうとする。
「……抜けない」
そんなことって、ある?
そのあとは家の電話を使って、今は田舎へ隠居してしまった両親へと連絡した。私が死んだと思っていた張本人たちは、その娘からの電話にさぞかし仰天していたようで、私の声を聴くや、「どこにいるんだ!」「生きてたの!」「どうやって!」「なにしてたの!」などなど、すさまじく強いレイドバトルのような怒涛の質問責めを繰り出してきた。それもそうだろう、お別れ会を計画するほど絶望的な展開から一転したのだから。
それを想うといたたまらないが、やはり彼らのその勢いには少々引いてしまった。温度差、というやつだ。
受話器を耳から離しながら、「とある極秘プロジェクトに参加していて」とどうにか答えると、「そんなばかな、ポケウッド映画じゃあるまいし」と父はすかさず返してきた。たしかに、そんなガラルの有名スパイもびっくりな案件、だれも信じるはずがなかった。いっそのこと駆け落ちしたというほうが信憑性はあったかもしれない。だが、そこまで考えて相手の顔が脳裏に思い浮かぶと、私は慌ててかぶりを振った。
親不孝な娘でごめんなさい。心の中で謝りながらも、仕事だからと電話を切ってひと息。一人の世界はやけに静かなようにもおもえた。
ゲンガーがなにかを感じ取って、ヌッとすぐそばに現れる。
「結局、理由、訊けてないんだよねえ」
どう思う? ゲンガーに語りかけるが、彼はそんなことは知らないとばかりにたわわなヒップをふりふり揺すって、ンガッと笑った。
「わかんないよねえ」
かわいいやつめ。ゲンガーを撫でて、ボールへ戻す。
昨晩はお酒ではぐらかされてしまったから、今日こそ問いただそうと思ったのに。まさかその矢先にお暇をいただくとは思わなかった。
やはりあの人、一筋縄ではいかない男だ。
とうとう私は受話器を投げつけるようにソファへと放って、久方ぶりの我が家から勢いよく飛び出していった。
「よっし、久しぶりにキャンプしちゃう?」
イイトモー! と悲しい自問自答をワイルドエリアに響かせて、私は預けていた自転車に乗って駆け出す。久々に相棒たちを大空の下でのんびりさせてあげたかったというのもある。それに、これ以上に効果のある気晴らしの仕方を私は知らない。
ひゃあっと声を上げながら草原地帯を駆け抜けて、エンジンシティを横目に湖畔をひとっ飛び。途中、連れてきたアーマーガアを空へ放ち、並走したり、自転車を足で掴んでもらいながらその背に乗ったり、そうしてエンジンリバーサイドとハシノマ原っぱを抜けて、巨人の鏡池へ。
「やっぱり、晴れている日のキャンプはここに限る!」
さわさわ、静かに水が流れている。みずべのハーブが生い茂り、青々とした豊かな匂いが辺りを包む。この場所はいつだってとっておきの場所だった。
チャレンジャー時代、ジムそっちのけでよくここでキャンプをしたものだ。はじめて博士から託された相棒や新たに出会った仲間とともに、ハーブを使ったカレーを作って大自然を楽しんだ。大人になってからは、生態研究の一環でガラルサニーゴを捕まえにここへ来たっけ。そんなことを思い起こしながらテントを立てる。
カイリキーにジュラルドンという頼れるメンバーが揃っているから、苦労することなどなにもない。ラプラスは池で遊泳、アーマーガアは焚き火ようにそのへんの木の枝を集め、ミミッキュとゲンガーは波打ち際で遊んでいる。バタフリーは、今日はおやすみ。
「最高……」
おもわず、感嘆の声がこぼれるほど。
大好きなポケモンたちと、自然の中で戯れる。これほど、至福のひとときはない。カレーマスターの称号であるダンデボールをゲンガーに投げたり――毎回見るたび爆笑してしまうのは、内緒だ――ミミッキュとすばやさ勝負をしてみたり、はたまた、ラプラスの背に乗って、池の中央で釣りをしてみたり。ジュラルドンとカイリキーはカレーが待ちきれないみたいで、アーマーガアの手伝いを買って出ていた。
「最近、キャンプしてあげられなくてごめんね」
枝を肩に抱えたカイリキーに話しかけると、今がたのしいからいい、とでもいうように彼は子どもみたいに破顔してくれる。ほんとうに、ほんとうに私は彼らが大好きだ。
「カレー作ったら、レイドバトルの呼び出しがないか確認してみようか」
と、そこまで言って、携帯が繋がらないことを思い出した。正確には、ネットには繋がるのに連絡用アプリの類いが一切使えないのだ。
ロトムだってそんな悪さをしないのに。まったく不便極まりない。ため息をつくと、カイリキーが心配そうにこちらを覗き込んできた。なんでもないと笑って、さあカレータイムだよ! 大きく手を打つ。
仕事用のタブレットはスボミーインに置いてきてしまったし、上がっている光に向けて自転車を走らせよう。そんな、のんきなことを考えながら。
レイドバトルを二、三回続けたころにはすっかり日が傾いていた。一日が終わるのは早いもので、楽しい時ならばなおさらだった。ワイルドエリアが名残惜しくありながらも、そろそろ頃合いだろうかと一度ナックルシティへ向かう。
しかし、スタジアムを背にそらとぶタクシーを呼んだところで、「おい!」と声をかけられた。
「ローラ!」
忘れもしない、この声は……。
「キバナ……」
ふり返って、私はそこから動けなくなってしまっていた。
別れてから数か月。たった、数か月。テレビや雑誌などで彼を見る日はあったけれど、実際にこの目で彼を見るのは何年ぶりかというほど久しい気がした。
キバナはいつものあのドラゴンパーカーを羽織っておらず、紺と橙のユニフォーム姿だった。額には汗をかいている。もしかすると、トレーニングか、試合をしていたのかもしれない。彼の長い脚はあっという間に私までたどり着いた。
「久しぶ……」り、という言葉は、厚い胸板に飲み込まれた。
「ばかやろう」
その切羽詰まった声に、自分がどんな状態だったのかを思い出した。彼のファンに海へ落とされ、そのまま失踪。彼は、私が死んだのではないかと思っていたのだ。
「……ごめんね、心配、かけたかな」
「当たり前だ。一生、帰ってこないんじゃないかって、すげえ心配した」
もう付き合ってなんていないのに。私たちのあいだに、そうする義理なんてこれっぽっちもないはずなのに。……相変わらず優しい人ね、あなたは。
そんな言葉が喉から飛び出そうになって堪える。
「昨日、カブさんに連絡もらって、すぐに鉱山へ向かったんだ。でも、ローラはいなくて。とにかく、ひと目だけでも見たかった」
「ごめん、ごめんね」
ぎゅう、ぎゅう、抱きしめる力が強い。私が知っているころよりも、はるかに肉体は引き締まり、今年のリーグに向けての準備は万全といったところだろう。見ないうちに、キバナはどんどんかっこよくなって遠くなっていく。そんなの、当たり前なのに。
「ほら、また炎上しちゃうから、離れよう?」
ここは外だ。それも、彼の暮らすナックルシティだ。夕時もあって人影は少ないけれど、いつどこでだれが見ているかもわからない。
「そんなこと……。どうでもよくは、ないな」
ぎゅっ、と背中を一度強く抱き寄せて、キバナは離れていく。ああくそ、とヘアバンドを目もとまでずり下げて、顔を隠していた。
「本当に、すまなかった」
「……キバナのせいじゃないよ」
たしかに彼のファンに海へと突き落とされたが、それはキバナの責任ではない。それに、もう、気にしていないのだ。
「私はこのとおり、なんともなかったし、ファンの子たちは私たちが別れてたって知らなかっただけだから。でも、あれだけ好いてもらえるなんて、さすがキバナだね」
にっこり笑って、左手で彼の腰をポン、と叩く。さすがなんかじゃない、と釈然としないキバナだったが、くそ、ともう一度悪態をついて顔を隠すのをやめると、私のその手を凝視した。
「それ……」
「それ?」
私は自分の左手を見て、唖然とした。
「これは、その……。いろいろ、あって……」
薬指にはまったままのシルバーリングをパッと体のうしろに隠す。
懐かしくなってつけてみたら、抜けなくなった。なんて、言えるはずもなく。曖昧に笑ってごまかすけれど、どうにもうまく決まらない。
「いろいろ、話さないか」
キバナは真面目な顔で私のほうへと向き直った。
「いろいろ、って?」
「とにかく、時間が欲しいんだよ。オレさま、あれからずっと考えてたんだ」
真剣すぎるほどのまっすぐなまなざしに、ごくりと固唾をのむ。
透きとおるような碧は、薬指のそれよりもはるかに深い色合いだった。
