「ローラくん!」
ふり向いた先の、その人に私は瞠目する。
「カブさん!」
お久しぶりです! と立ち上がって握手を求めようとして、偉大なほのおの男は着火線についた火のごとく駆け寄り、「よかった、生きていたのかい」私の肩をガッと掴んできた。
「え?」
「キバナくんが、ずっと探していたんだよ」
生きている? 探していた? どういうこと? そんな疑問が次々湧き上がるものの、カブさんの勢いに気圧され、私はただ、「キバナが……?」と呟くしかできなかった。
常の冷静かつ紳士的な面持ちを崩して、カブさんはこっくり頷く。
「キミが、海に落ちて亡くなってしまったんじゃないかって」
それはまさしく晴天に突き抜けるラスターカノンのような言葉だった。
カブさんは仕事でもよくお世話になったひとだった。もとはホウエン地方の出身で、若いころは不慣れなダイマックス戦にとても苦労したんだ、とエンジンシティスタジアムを訪れた私に彼は優しく相好を崩しながら話してくれたことがある。とはいえ、カブさんのマルヤクデは芸術的な美しさで、今となってはガラル有数のキョダイマックスの使い手であることは言うまでもない。
謙虚で、誠実で、一緒にいると安心できるひと。故郷に帰ったから、とフエンせんべいをお茶請けにだしてくれたり、その故郷発祥の企業であるデボン製品をとてもよく愛してくれたり、カブさんはガラルの人間とはひと味ちがう温もりを、たびたび忙しさに身をやつしていた私に感じさせてくれた。
「大丈夫かい」
カブさんが去って、茫然と手の中のフローライトを見つめる私に副社長は言った。
「ええ、すこしおどろきましたけど」かろうじて答える。
「まあ、生きているうちに葬式を上げられそうになるなんて、なかなかないことだよね」
あのあと、カブさんは私の身に起こっていることを話してくれた。
なんでも、ジムリーダーたちの間でどうやら私は行方不明の扱いになっているらしく、大変な騒動になったというのだ。ソニア博士がダイマックス部門の研究チーム中枢である私がいないことに気がついたことから事件は始まり、彼女に伝わればジムリーダーたちにも即座伝わることとなるのは想像にたやすく、加えてバウタウンで海に落ちた女性が私にそっくりだったという証言。そして、それを最後に消息のぷっつり途絶えた私を、血眼になって探していた。デボンに問い合わせても詳細を教えてもらえず、「こちらでも把握しておりません」や「しばらく出勤しているのを見ていない」とラボの研究員からの証言があがるのみ。かえって彼女たちの動揺をあおるだけだった。
いやいや、私、正式に異動命令下されていましたから。部長に栄転おめでとうってトロッゴンのごとくラボから追い出されましたから。……という声はだれにも届かない。
あのときの部長の輝かしい笑顔は今でもはっきりと憶えている。だというのに、私がのんきに洞窟に篭っているあいだ、まさか現実世界でとんでもないことが起きていたとは。
いったい、どうなっているのだろう。携帯にも連絡が繋がらず、もしかすると私が海の藻屑になったんじゃないかと元恋人のキバナが捜索願を出したのが、私と副社長が出会った数日後。そして、それから有力な情報も上がらず、ついに痺れを切らした両親が「娘は帰らない」と決め込んで、近しい友人や世話になった人たちの間で私の「お別れ会」とやらを開こうとしたのが、つい数日前。両親諦めるの早すぎやしないかと、思わず頭を抱えたくなった。
「……だれのせいだと思ってるんですか」
ぼそりと呟いた私に、副社長は肩をすくめて笑う。
「ボクのせい、か。大丈夫、その責任はとるよ」
こんなときでさえ調子を崩さないその顔に、この人がすべての鍵を握っているのだろうと私は察する。携帯を取り出して、チャットアプリを起動する。たしかに近ごろ連絡が届かないとは思っていたが、同僚たちが私を仲間外れにしていたのではなく自分側に原因があったとは考えもしなかった。一度海には落ちたけれど、すぐに修理に出したはずだし……。と、考えたところではっとする。
思えばあのとき、修理を頼んだ先はデボンお抱えのメカ部門だった。
それだ。まちがいない、そのせいだ。ともすれば、細工をするのは、悪さをするロトムを追い出すよりもはるかに簡単だ。
ローラという人間は、現実世界から隠されていた。ヨノワールもびっくりな怪奇譚だ。いえ、私、弊社の放蕩息子と元気に洞窟に篭っていましたけど、と声を大にして言いたいところだが、なにやら裏があるにちがいない。
私に、なにが起きているのだろう。デボンが私の存在を隠す理由は? 副社長とともに行動する意味は? なにか、関係があるというのか。
「……責任、とるっていったって、どうするっていうのよ」
そんなぼやきも知らず、副社長は私のジュラルドンと無邪気にふれあっていた。
その夜、副社長に連れられてスボミーイン上層階のバーに訪れた。
「そういえば、カブさんとお知り合いだったんですね」
訊ねると、彼は、うん、とカクテルグラスを傾けた。
「もともとホウエンの出身だからね。デボンとしてもよく広告塔に起用しているし」
夜景を前にお酒を嗜む副社長は、それはそれはとても絵になる。いつもの紫色のラインが入ったスーツではなく、グレーのジャケットにネイビーのネクタイという比較的地味な組み合わせ。それでも、この人の見た目好さは隠せない。
かくいう私も、仕立ての良いグレージュのドレスを着ていた。恐ろしいほどに身体にフィットするそれは、バスルームにいつのまにか届けられていたもの。まるで映画の中で主演女優がパーティー会場で着ているような美しさで、さながらセレブ気分を演出するには最高のアイテムだった。副社長の隣に立ったら、当然それすら道端に生える雑草並みの存在感になってしまうわけなのだけれど。それに、周りの女性からの視線が痛い。
副社長の答えに、そうですね、と鉱山での二人の様子を思い起こす。カブさんは副社長と私が一緒にいることに驚いていたが、すぐに、「そっか、ダイゴくんと」となにやら意味深な表情を浮かべていた。
もしや、この人と駆け落ちしたと思われてる? 私が思ったのはそんなことだった。あの含みのある言い方は絶対にそれだった。結局、間髪いれずに副社長がカブさんと親しげに話しはじめてしまったので、訂正の余地はなかったのだけれど。
「副社長」
夜を彩るしっとりとしたジャズに身を委ねながら、私は副社長にすべてを問いただそうと決心する。海に落ちて助けられた、ただそれだけの出会いで、なぜここまで私にこだわるのか。そもそも、どういった経緯でしがない研究員が副社長秘書などという大層な職につくことになったのか。だか、彼はそれを許さなかった。
「ダイゴ」
ピアノとサックスのゆるやかな旋律の合間、副社長の粒のそろった低い声がたゆたう。ふと横を向くと、カクテルに口をつけるのをやめて漆黒のコースターにグラスを戻した副社長と目が合った。
伏せられていた睫毛がしどけなく揺れ、エンジンシティのきらめきを載せた銀色のまなざしが、心に隠した空っぽのグラスにそそがれていく。
「ボクの名前、知っているだろう」
「それは、もちろん知っていますけど」
ごくり、唾を飲み下す私に、副社長は微笑を浮かべる。
「キミに、呼んで欲しいんだ」
「私に……」
そう、と副社長は続ける。
「ボクの名前を呼んで」
とんださすらいのストーンゲッターであろうと、腐っても彼は私の上司だ。そして、勤め先の副社長だ。そんなこと……。言葉をつまらせる私の唇を副社長の指先がなぞる。酔っているのだろうか。こんな烈しいスキンシップ、今まで慎重すぎるほど距離感を測ってくるような人だったのに、どうしてこんなときに。
やけどしてしまいそうなほど、熱かった。触れたところから、すべて溶けてしまうのではないかとおもった。
「……ダイゴ」かろうじてこぼれたその声に、副社長は満足そうに笑う。
「うん、なにかな。ローラちゃん」
「ちゃん、って……。私、もうけっこういい歳なんですけど……」
副社長はそれがなにかといった調子で、私の唇を撫で続ける。意外にもごつごつとした親指が下唇をすべり、人差し指のはらが頬をくすぐる。
ほんとうに、ほんとうに……。
「ふくしゃ」
「ダイゴ」
「ダイゴ、さん、どうして」
「うん」
彼の指先が上唇をかたどる。つやめくスーツも、きらびやかな夜景も、しっとりとしたピアノジャズも、私たちの世界には残らない。ただ彼の美しい鼻梁と、長く濃い睫毛と、それからプラチナの瞳と、すべてがツワブキダイゴに侵されていく。
ああ、ふれた指が熱すぎる。頬も、唇も、それから、胸の奥も。
「どうして、わたしだったんですか」
私が生きていると、みんなに告げなくては。両親にも、ルリナにも、ソニア博士にも、メロンさんにも、それからキバナにも。
なのに、ぜんぶぜんぶ熱に浮かされ、絆され、そうする前にすべてがどろどろに蕩けてなくなってしまいそうだった。
涼やかな目もとがいっそうやさしく弛む。なだらかな頬は上がり、薄く、形のよい唇がそっと半月を描く。
「ただ、キミが欲しかった。……って、言ったら?」
そんなの……。そんなの、理由になってないじゃない。
親指が押しつけられ、その先を暴かれる。力を失った私の唇の内側を軽く蹂躙して、彼はその指を離し、自分の口もとに寄せる。あっと思ったときには、すでに副社長は深く妖艶に笑んでいた。さいみんじゅつにかけられた私をよそに、私の手元のギムレットを飲み干して、彼は新たにカクテルを頼んだ。
恭しいギャルソンとともにやってきたのは、細身のワイングラスに注がれたルビー色のカクテルだった。ほのかにカシスと白ぶどうの香りがした。副社長はそれを私の手に握らせると、今度は夜景に負けぬほど屈託のない顔で笑った。
「そのドレス、キミにとてもよく似合っているね」
いつか絶対、セクハラ案件で人事部に苦情を入れてやる。
そう固く誓った心も、ものの三十分後には一杯二千円はくだらない上等なカクテルに消えていっていたことは、想像にたやすい。
あれ、ほんとう、私ってばなんでこんなところで優雅にお酒なんて飲んでいるんだろう。
