「レストランへ入ったのを確認したんです。指示のあったとおり、予約していた窓際の席に二人は座りました」
額をタオルで押さえながら本郷の部下である五十嵐が言う。直哉がS英館大を離れて以降、今川香織と更家真守の監視を任せていた。だが、呪霊の顕現により見事に計画は頓挫した。阿鼻叫喚の地獄と化した南仏風のレストランに五十嵐が踏み込み、今川香織を含む一般人の救出を試みようとしたものの呪霊の一撃を受け気絶。現場に駆けつけた七海によって救助された。今川と更家の姿だけがレストランから消えていた。
五十嵐は七海に連れられ、本郷への報告と家入の治療を受けるためにここへやってきた。
「到着連絡から約一時間。周辺を探すにも手遅れか」本郷は舌を打つ。
「スミマセン……」
「いや、俺の読みが甘かった。こうなることを、心のどこかで予測していたつもりだったが……クソッ……」
深く頭をさげた五十嵐の前で本郷は椅子に座り頭を掻き乱す。病棟五階の空き個室、家入の手配で利用することができた一室だった。五十嵐の治療を終えた彼女は現在、松崎奈津子とともに病室で待機している。
じわじわと焦燥に駆られる空気とはうらはらに、男四人の室内はあまりに静かだった。本郷の舌打ちが響いたあと、時計の病身の音さえ聞こえてきそうな雰囲気であった。
「こちらへ来るまでに、高専を通じて一都四県に緊急要請を出しました。都内各所に検問を設置、高速道路への進入も一時的に制限。周辺の監視カメラ映像の解析も依頼してあります」
心臓を焦がす本郷とはうらはらに、冷静沈着に告げたのは七海だ。簡易椅子に腰かけ、長い脚を組み膝のあたりで手を組んでいる。連続殺人の容疑のかかった呪詛師が人質をとり逃亡、怪しい車両が見つかり次第確保の手立てだった。本郷は七海に向けて礼を言った。
「しかし、件の殺人犯は自殺したと伺いましたが」七海は言う。
「ああ、そうだ。あまりにアッサリすぎる幕引きだったよ、まるでひとつの劇でも見ているようにね」
だが、実際には本郷の読みどおり、アンコールがあったわけだ。むしろ、二十構造、否、何枚にも重ねたカーテンのように、二重三重と綿密に脚本が組まれていた。
当初からこの予定であったのだ。事件を終わりに見せかけ、真の終局へと向かう。なんらかの方法で、今川香織を確実に見つけ出した犯人の有終の美に迫る。
「今川香織の自宅、それから更家の自宅周辺に張り込みを強化して……」
「その必要はないで」
そこで、それまで、事態を静観していた直哉が口を開いた。
「今川香織の家にも更家の家にも、ソイツは向かわん」
「なぜだ」
直哉は得意の様子で唇をひしゃげ、両手をあげた。
「行くとしたら、瀬古絢音の生家、あるいは瀬古メンタルクリニックやろうな」
「まさか……!」
くくっと喉を鳴らす。
「ようやってくれたわ、あのオッさん」
つまり、松崎奈津子の証言によって、すべての点が繋がった。半ば衝動的にあのにやけヅラをぐちゃぐちゃにしてやろうかと思ったが、昼間港区の瀬古メンタルクリニックへ向かったのが功を奏した。
瀬古が落としたあの血塗れのハンカチは、おそらく今川香織の所持品だ。淡い青色の白い花の刺繍が施されたハンカチ、それだけならば類似品はいくらでもあるだろうが、あの血は数時間やそこらで乾いたものではなかった。それに、クリニックにはティッシュペーパーなどの備品があるはずなのに、わざわざハンカチを差し出すのも不自然に感じる。もしかすると、本当にスタッフのものかもしれない。だが、第六感がそう告げている。
警察の捜査でも見つけられなかった証拠品を奴が持っているとなれば、それはもはやチェックメイトだ。加えて、妙な幕切れ。思えば、最初からすべてが瀬古中心に回っていた。瀬古の、瀬古による、瀬古のための喜劇だ。まったく笑えてくる。
「あの学校に潜り込ませたのも、今川香織の行方を追っていたからやろうなあ」
――そうだ、四年前から。
「しかし、そのために実の娘や妻を殺すなどというのは、あまりに動機を欠いていると思いますが」サングラスのブリッジを押し上げ、七海は淡々と言葉を継ぐ。
「ま、呪いなんざよりよっぽど人間のが恐ろしいっちゅう話やな。不倫か、それとも一方的なストーカーか知らんけど、憎しみも愛も全部執着に繋がるやろ」
直哉が窓辺に寄りかかりちらと外を眺めるあいだ、本郷が瀬古に電話をかける。
「ダメだ、つながらない」次いで別の場所にかけた。「瀬古敏明名義の港区のマンション、ならびにクリニック、そしてかつての瀬古邸に向かえ、今すぐ」
電話を切ると直哉は続けた。
「あの男は目が視えないんやろ。それも、完全にではなく、ほとんど」
光と影の識別ができる程度、そう本郷は言っていた。世界全体に靄がかかっている。よくよく見ると、瀬古の眼自体もそうなのだった。いつも閉じているように見えるほど細められていたが、ときおりのぞく瞳は白く濁っていた。
「そのぶん、鼻が鋭かった。そやから、今川香織のにおいを辿って、辿って、キッショイ話やけど、それで四年かけてナルミユウヤまで行き着いた。見つけたのがあの高校。でも瀬古は目が視えない、やみくもに探すにも、あまりに目立ちすぎる。なにがなんでも協力者を得たかった、確実な形で」
心理分析官としての立場を利用し、さまざまな事件事故に介入し、手がかりと手段を得てきたはずだ。そして、いかに捜査の手をかいくぐるかも。
「だが、なぜ今川香織を?」
引っかかるのは、そこだ。これまでの手口を見る限り、相当な執着心を抱いている。直哉は本郷に、「さあな」とにべもなく返した。
「この四年間、あの人の苦悩は見てきたつもりだった。その前から、いろいろと世話になってきた、まさかそんなこと」
「ありえない、て? それは、ただの願望やろ。瀬古は苦しんでる、瀬古は悲惨な事件の被害者だ、被害者はその娘と妻を一番に想ってる。人間なんか、小石蹴飛ばしたくらいで菩薩から般若に変わってもおかしいことやない。被害者のガワかぶってれば、アンタらの目はかいくぐりやすいしな。ま、実際、心の底じゃ瀬古を信用してへんかったのは、アンタがよう知っとるやろ」
「……オジさんが、アイツを殺すわけがない」
突如聞こえた声に、直哉はため息をついた。戸を開いたのは篠宮だった。そのうしろに、家入に支えられ、松崎も付き添っていた。
「オジさんが、絢音とオバさんを殺すわけない」
篠宮は確固たる声で繰り返した。
「その根拠は?」直哉はせせら笑う。「もしかしたら、妙なシューキョーに肩入れしてたかもしれへんしな、おまえもよう知っとるやろ」
子を喰らうサトゥルヌス――特別棟で見たあの絵は、まさしくこの事件の啓示にふさわしかった。子を喰らう、無様な男。
「オジサンがおかしくなったのは、事件の後だ」
「俺に言わんといて。どうでもええねん、あの男が娘を殺してようが殺してなかろうが」
篠宮はツカツカと歩いてきた。そして、直哉の胸ぐらを掴んだ。
「おまえ、最低だな」
直哉はただ目を細めてふんと息を吐いた。掴ませてやったのだ。
「とにかく、今はそんなこと言ってられない。瀬古敏明に特別指名手配を下す。瀬古メンタルクリニックに急ぐぞ」
本郷の声に連なったのは、「あの」というかぼそい声だった。
「ひとつ、気になることがあって……」
松崎奈津子だ。家入に支えられ、ゆっくりと歩いてきた。
「言ってなかったんですけど、ウチ、金曜日おじさんに会ったんです」
「どこで」
「学校の最寄り駅です。久しぶりだと思って、声をかけました。でも、様子がおかしかったんです」
おかしかった? 直哉は目を細める。
「昔なら、声をかけたらすぐに、なっちゃんか、ってにこにこしてくれたのに、オジさん、ウチが奈津子だよ、って言っても、通じなかった。ただウチをじっと見つめてきて、その瞬間眼がグワッて開いて、全身が震えて……まるで、別人だった」
そういう勘というのは、時として驚くべきほど冴えるものだ。
場が、静まりかえる。
「……アイツは、だれや?」
唸るように口にした直哉に、「行くぞ」と本郷が立ち上がった。
港区、オフィスビルが建ち並ぶ一角のとある雑居ビルに、瀬古メンタルクリニックはある。都会と言うにふさわしいそこは、十五年前に瀬古敏明が開いた彼のクリニックだった。それまでは雇われの医師だった瀬古が、ようやく独立し手に入れた城。
エントランスはスタイリッシュに統一されており、ゆったりとしたピアノジャズがかかっている。精神を落ち着けるには最良な場所だろう。観葉植物やアロマディフューザーが置かれ、リラックス効果を深める。照明はほのかに暖色がかり、またソファも質がよく、診察待ちのあいだ気を休めることができる。受付には女性スタッフが二人。いかにも、港区のクリニックスタッフという風貌であった。
令状を手に、本郷をはじめとする一行はその安寧の空気を断ち切った。家宅捜査が急遽始まった。同様に瀬古のマンション、旧宅も他の人間たちによって捜査の手が及んでいる。ちなみに現場には篠宮もやってきていた。彼は謂わば保険であった。松崎奈津子も、彼女の申し出により、家入の付き添いのもと、外の車で待機していた。
「そっちは」
「こちらは、とくに証拠となる押収物はありません」
「埒があかないな」
診察室は二つ、幸いにして診察の時間は過ぎたようだった。しかし、そのどちらも瀬古の私物は置かれていなかった。四年前の事件以降、彼は医師と臨床心理士を雇い、高専や警察からの依頼に専念するため、実質彼はクリニックの経営側に回った。
「あの、院長が、なにか……」
院長室を探っていると、スタッフのうち一人が話しかけてきた。おそらく四十代の女だった。「連続殺人の容疑がかかっているんです」と本郷が答えると、彼女は口を手で覆った。
「なにかご存知のことがあれば、ぜひご協力お願いできませんでしょうか」
しばらくもう一人の若いスタッフと目配せをしあっていたが、やがて示し合わせたように二人は頷きあう。
「私たち、開業当時から働いてるんですけど……とにかく、ついてきてください」
そうして連れて行かれたのは院長室の横の「資料室」と書かれた部屋だった。六畳ほどの部屋にびっしりと書架が並べてある。直哉は眉根を寄せ、本郷より先にそこへ踏み込んだ。職員は一番奥の書架に向かうと、並べられたファイルをどかし、その裏に現れたダイヤルロックを回した。
「昔、院長が教えてくださったんです。なにかあったときには、ここに色々としまっておくから、と。たいていは、空でしたけど……でも、四年前のあの夜、急に携帯に電話がかかってきたんです」
「瀬古さんは、なんて」
「それは……」ごくりと唾を飲み下し、彼女は続ける。
「ここにこれをしまってほしいと、と」
中から出てきたのは、いくらかの書類と写真立てだった。
「これは――」
そこに写っていたのは、二人の瀬古敏明だった。否、瀬古敏明と、彼と瓜二つのだれかがそこに写っていた。透きとおるように色素を欠いた銀髪、広い額に細い眼、頬は横に張っており、やや大きな口がどこか爬虫類っぽさを感じさせる。本物の瀬古敏明だろう人間より、やや身長は低く、痩せ細っていた。笑っている瀬古に対し、男の表情は固かった。
――瀬古絢音の兄弟か。しかし、肌と瞳の色が明らかに違った。青年は色を失ったそれの色であり、瞳は焦点が合わずレンズではないどこかを眺めていた。光に瞬くわけもなく、薄く濁っている。背すじに、かすかな電流が走る。
「……四年前に焼死した、カサイジョウだ」本郷が言う。
ドッペルゲンガーにふさわしい、男。
「宗教二世として生まれ、常に幹部に搾取される母親のもとに育ち、そして、悪魔に捧げられようとしていた青年だ」
瀬古敏明が犯罪被害者支援の一環として請け負っていた依頼人の一人だった。中に残る資料を直哉がひったくると、カサイジョウの来歴と診察の経過が事細かに記されていた。
母親は、宗教法人「時の器の会」の信者の一人であり、幼少期より会合に参加。母は信仰のために多額の寄付金をおさめ、宗教が生き甲斐であった。五歳のとき、彼は呪霊事故に遭い片目の視力を失った。……
「本郷警部、これを」
うしろからやってきたのは七海だった。革張りの黒いファイルを本郷へ手渡すと、中から出てきたのは、一枚の土地売買契約書であった。
「……二〇〇六年に幹部数名とその信者が殺された、例の宗教団体の本部だった場所だ」
日付けは四年前の母子惨殺事件から数か月。
契約者――瀬古敏明。
