「今にも数人、殺しそうな顔だな」
そう言って現れたのはスーツ姿の本郷だ。今日とて黒いスーツを着込み、冴えない柄のネクタイを締めている。連日顔を合わせているからかすっかり見慣れた風貌だが、相変わらず人相のあまりよくない男であった。
「そのまま職質受けても、文句は言えないぞ」と本郷はジャケットの内側に手を差し込みながら直哉の隣に立つ。
「それこそ殺したるわ」直哉は噛みつくように言ったが、普段の牙はなかった。
「公務執行妨害と殺人容疑で現行犯逮捕だ」先方もくすりとも表情を崩さずに言ってのけ、取り出したタバコに火をつける。
「瀬古さんに聞いたか」
世間話などない。行きつくのはこの話題だろうと思っていた。
「そらァな」直哉は冷笑する。「けど、妙に引っかかんねん」
本郷は煙を吐き出した。
「今川香織には部下をつけてる」
「ああ、あの熱苦しい奴か」
「奴って言うが、五十嵐はおまえより歳上だ」
「そら知らんかったわ」
日が落ちている。もう間もなく夜がくる。このあと仕事を終え次第今川香織は更家と食事をとるだろう。指定は人目のあるフレンチレストラン、腹が膨れたところでホテルに誘ってもらう算段であった。
ホテルの部屋番号を告げたあと、「わかりました」と返信があった。それももうしばらく前のことだが、予定通りこのまま遂行してもらうつもりだ。
だが、一連の事件の幕は下りた。犯人は裁きを待たずして命を絶ち、更家の疑惑は解消された。ならば今川香織は? 奴の目的は? 結局、ただの「ストレンジャー殺人」の末路だったのか。呪霊を使い、ここまでこちらを撹乱した意味はなんなのか。あまりにも呆気なさすぎる。
瀬古メンタルクリニックから一区画ほど離れたとある交差点。伊地知の車を蹴り飛ばしドアを閉めた直哉はしばらくそこに佇んでいた。本郷は彼の隣に立ち、夜へ向けて変わらずに動く世界を見据えている。
「松崎奈津子が目を覚ました」
直哉は車止めに腰を預けたまま、目の前の景色を睨んでいた。
「この先俺が手出しするには、それなりのモンが必要になるけど」
「べつに、ついて来いとは言ってない。ただ指咥えて見てる姿を想像して、酒の肴にしようと思っただけだ」
「そら残念やったな、俺、今心底せいせいしてんねん。このしょうもない制服ともおさらばや」
「似合ってたのにな」
「あァ?」
本郷は指先にタバコをとり、おもむろに背を向けた。
「行くぞ。松崎奈津子がなにかを握ってる。地獄までアンタには付き合ってもらうさ」
直哉はハッと嗤う。
「言われんでも、こちとらとっくに地獄に足突っ込んどるわ」
松崎奈津子の入院する病院までは車で三十分とかからなかった。本郷に続き面会バッジを受け取ると、病室のある五階までエレベーターであがった。
《今からレストランに入ります》――今川香織からメッセージが届いていた。既読だけをつけ、直哉は「松崎」とネームプレートのついた個室へ入った。
「後遺症もなさそうだ、あとはいくらか検査を受け終わったら退院していい」
やけにゆったりとした物憂い声に直哉は眉を上げる。
「関係者以外は面会謝絶のはずだけど」ベッドの横で点滴の類を外していたのは高専医師の家入硝子だった。
「関係者や」
言い放った直哉の横で本郷が警察手帳を見せる。
「捜査一課の本郷です。例の事件に関して松崎さんのお話をうかがいにきました」
家入は眠たげな目でそれを一瞥し、「あっそ」と関心の薄い声で答え、手にしていたバインダーになにかを書き込んだ。
「じゃあ、主治医に声をかけてくるから、またあとで」
上体を起こしベッドに座る松崎に、家入は声をかけて病室を後にする。
「それと、まだ目を覚まして数時間だ。安静にさせろよ」男二人にはそう言い残して。
直哉は本郷の横に立ち松崎を見た。少女はびくんと肩を揺らした。写真では見ていたが、キャメル色のブレザーを着ているのと着ていないのとでは印象がまるきり違う。胸もとまでのセミロング。染めてはいないだろう黒髪は、ほつれて軽いウェーブを描いている。なにより、顔半分を覆う包帯だ。なんとも痛々しい。とにかく、あのクソダルい朝会で、体調を悪くしたのは彼女だったか。写真よりも実物のほうが印象は幼い。
彼女は彼らを警戒しているようだった。ぎゅっとシーツを握りしめると、「あの日のことですよね」とおのずと口を開いた。
「はい。けれど、話したくないことがあれば、無理に話さなくても構いません。時間が必要なら、それでも」
常より柔和な声色で本郷は繋ぐ。だが、直哉はそれを遮った。
「時間なんざあるわけないやろ」
「禪院」
「話してもらうで、松崎奈津子。金曜の夜、果たしてアンタになにがあったんか」
松崎の表情は晴れなかったが、唾を飲み下したのち、こくりとうなずいた。
金曜、学校が終わって家に帰る途中だったこと。いつものように電車に乗り最寄り駅までたどり着き、まっすぐ家路に着く予定だったが、気になっていた雑誌の発売日だと思い立ち駅前の本屋に寄ったこと、それから雑誌一冊と近くにあったカラーインクのボールペン数本を手に、少し立ち読みをしたこと、松崎は言葉をつっかえさせながら事件当時のことを語る。
「友だちと進路のことで話してたから、少し遅くなったんです。でも、よくあることだから、本当にいつもの帰り道だった」
しかし、本屋を出た矢先に、大きな影に襲われた。一瞬のことで松崎奈津子はなにが起きたのかわからなかったのだという。
「でも男の人が助けてくれて、そうだその人」
無事、呪霊の腹の中だ。小さくかぶりを振った本郷に松崎の瞳に戦慄が走ったのがわかった。本郷は彼女が口を閉ざす前に懐から写真を取り出して見せた。
「この男に見覚えは」
またひとつ松崎はうなずいた。
「香織先生、学校のフランス語の先生とよく一緒にいる人、ですよね」
それは更家の写真だった。大学院の学科案内に載っていた写真だ。白衣を身につけ、あの寝癖のような髪のまま軟弱な笑みを浮かべている。
「S英館大の大学院生だ。金曜、この男とすれ違ったり、見かけたりしなかったか」
松崎は迷いなくかぶりを振る。
「……この人が事件に関係してるんですか?」
「それはまだなんとも言えない。ただ、なにか気になることがあったら、どんなささいなことでも教えてほしい」
指先がのびる。かすかに震えていたが、更家の写真を手にそれを眺めると、「前に、友だちと気になって声をかけたことがあったんです」と遠慮がちに切り出した。
「香織先生のカレシ? って。二人ともすごく絵になるから、そうだったら大ニュースだし、なにより、すてきだなって」
それがどうしたというのか、なんとも要領の得難い話し方に、じれったくなって直哉は舌を打つ。本郷はたちまち直哉を視線で制した。舌打ちの代わりに、直哉は窓際に寄り、窓台に背を預け手をスラックスのポケットへ突っ込んだ。
「それで、彼はなんて」本郷が続ける。
「そのときは、ちがうって、言ってました。すごい困った顔しながら、でも……」
――僕が命に変えてでも守りたいと思う人です、って。
「そうか、ありがとう」本郷はさらに写真を取り出した。「では、この女性はどうですか」
「――あ」と彼女は声を上げた。「この人、電車の中で具合悪くなっていたオネーさんだ」
「この人と直接話しましたか」
「はい。あまりに汗がひどかったから、一緒に電車を降りました。ウチもよく、車内でそうなるので。それで、ハンカチ、渡したんです」
「ハンカチ……それから?」
「それから、いつかお礼をするからって名刺を渡されて、わかれました。制服のジャケットに入ってるとおもうんですけど……」
本郷がこちらを見た。直哉はその視線の意図に気づき、舌打ちをまたひとつ拵えた。ベッド横のキャビネットの下に、松崎奈津子の荷物が一式しまわれている。直哉はそれを取り出した。「ないで」ポケットというポケットをひっくり返すが見当たらない。
「……なるほどな」本郷は顎を撫でた。
「それで、この女性と別れたのは何駅ですか」
「降りた駅がちょうどその人の乗り換え駅だったんで、そこで。私は次の電車に乗って帰りました」
そっか、と松崎はなにかを思い出したようにつぶやいた。
「なにか?」
今度は言いづらそうに指先を揉む。
「渡したハンカチ、実は香織先生から借りたやつだったんです。返さなくちゃと思って鞄に入れてたんですけど、すごい顔色が悪いから、勝手に貸しちゃった……」
今川香織のハンカチ――つまり、ヨシオカマナミも今川の私用品を所持していたわけだ。
「そのハンカチの特徴は覚えていますか」本郷が訊ねる。
「特徴……えっと……青色のガーゼのハンカチ、でした」
こめかみに突き抜ける。……青色のハンカチ、だと?
「色はなんや」
「だから、青で」
「薄いか、濃いか」
「……薄かったと、おもう」
「刺繍は」
「え、し、してあったけど……」
ブレザーを放り出し、直哉は強く舌を打つ。
「おい、禪院!」
直哉の一挙一動にびく然とする松崎と、肩を掴んでくる本郷を振り払い出口へ向かう。
「――本郷さん!」
だが、直哉の前に立ちはだかったのは、額から血を流す本郷の部下、五十嵐であった。
「どうした、五十嵐」
ただならぬ様子に、本郷の顔に警戒の色が走る。直哉は五十嵐を肩で支える人物に目を向けていた。ライトグレーのスーツに青いシャツと独特なネクタイ、七海であった。
「スミマセン、今川香織と、更家真守を見失いました」
サングラスの奥で七海の眼が鋭く細まる。
――
――――
香織は途方もない暗闇の中で目を覚ました。右も左もわからない、かろうじて自分が床かなにか、とにかく闇の底に横たえられていることだけはたしかだった。
ここは、果たしてどこなのだろう。浮かび上がった意識は、そこが精神世界ではないことだけは明らかにしてくれる。手足は縛られていた。底は冷たい硬質な感触だった。
やけに冷静なのはどうしてだか、彼女にも理解できていない。状況を理解できていないことすら、おそらくきちんと理解していないのだ。
私は、一体なにを……。体を投げ出したまま、香織は必死に目を開く。開いていても閉じていても、どちらにせよ変わらないのだが、なにも見ようとしないのはその莫大な闇に呑み込まれるような気がしてならなかった。
体が怠い。縛られているからというのもある。でも、もっと、神経や筋肉がそのものの動きを鈍らせているような重たさだった。
物音ひとつ届かず、光はおろか風すらもない。今は夜だろうか、朝だろうか。月明かりも朝陽も射し込むことのないここは、一切の時の流れが止まっていた。
やはり、夢の中なのだろうか。……いえ、私はここにいる。たしかに感じるのだ。床の冷たさを、その無機質な硬さを、これはコンクリートだろうか。じいんと何重にもエコーがかかったようにぼやけた頭をどうにか動かして、香織は身じろいだ。いもむしが不器用に体を持ち上げるそれで、しかしおそらく動いたのはたった数センチにも満たない。否、それよりもはるかに――……。
私は、なにをしていたのだっけ。香織は冷たい床に頬を押し当てながら、考えを巡らせる。授業を終え、講習の打ち合わせをした。あれは四時ごろだった。各教科の検定が重なる時期でもあるから、講習を組むのにやや時間がかかった。それが終わったのは、いつだったか。増岡先生に頼まれて、しおりをチェックしたのはいつだった?
……でも、そんなのどうでもいい。とにかく、職員室で彼からのメッセージを見たはずだ。それから仕事を終えて、更家さんと待ち合わせて……。そうだ、更家さん。
そのとき、影が浮かび上がった。紛れもない、影だ。
「――更家さん!」
同じく床へ横たわる更家の姿が視界に入り、香織は声を荒らげた。後ろ手に手を縛られ、眼鏡がひしゃげた状態で転がっている。顔は俯いていて見えないが、彼のまわりにいっそう濃いシミが浮かんでいた。それは、あえかな光の中でもよくわかった。
あれは、血だ。
「さらいえ、さん……」
喉がひゅうひゅうする、呼吸が搾られているみたいだった。だが、更家はみじろぎひとつしなかった。唇を噛み、香織は苦痛に耐える。心の痛みだ。四年前の瀬古絢音、斎藤、鈴木、成海……そして、更家。いつだってそうだ。自分の手の届かないところで、いろんなものが消えていってしまう。
香織は気がついていなかった。倒れている更家に気をとられるあまり、なにが起きているかを。それこそ、影が存在するためには、光が必要であることを……。
「あぁ、なんともすばらしい」
恍惚な音色が転がり落ちてきた。それは瞬く間に闇にとけていった。
「これこそ、永らく私が求めてきたもの」
反響する。あらゆる方面から声が響いてくる。残響が耳を痛め香織はさらに強く唇を噛んだ。次の瞬間、ひときわ濃い影がぬうっと現れた。
「Elle est debout sur mes paupières…」
戦慄が、かけ巡る。小さなろうそくの燈火に揺れた、途方もなく強大な影。
「彼女は私の目となり、彼女は私の髪となり、手や瞳、そのすべてが、私のものに重なり、そして、私たちは一つになる」
やがてそれは、香織を呑み込もうとする。
