すでに辺りは薄暮に包まれていた。それが赤い空のせいなのか、それとも過ぎゆく時のせいなのか、はっきりとはしなかったが、たしかに時間に際限はあった。
このままでは夜が来る。その前にどうにか次の手を打たなくてはならないものの、わたしたちはただ木立の陰で寄り添い合いこれからのことを話していた。それはまるで群れからはぐれたコロボーシが、互いに身を寄せるようだったかもしれない。
「キクイさんとヨネさんという方のもとへ向かうのね」
そう告げれば、必死に眉をハの字にしてそうですと少女はうなずく。いまだ彼女の目にはうっすら膜が張り、ほのかに赤らんでいた。どこか年の離れた妹のような気がして、いけないとは思いつつ自然と頬がほころぶ。
「下がり眉、しすぎるとそのままになっちゃう」
とんだおせっかいね。けれど、思わず左手の人差し指で眉尻を撫でれば、彼女はぽんっと顔を赤くしてさらに難しい顔をした。
先を急ぐ旅、そしてそれは始まったばかり。とはいえ、今この瞬間が無駄であるとは思わない。早く進む刻の流れに、わざと逆らいじっと堪えてみるというのは、決して容易なことではないが、生きていく上では必要なことであるとふと考える。
無駄なことなどないと言い募るよりも、これは必要な無駄なのだと言うほうがいい。わたしたちはときおり、立ち止まらなくてはならない。自らの脚で人生という路頭に立つためにも。それだから、これまでのこと、そしてこれからのことを話していた。ムラに入ることは禁じられたため、寄る辺を探して途方に暮れていたこと。コンゴウ団とシンジュ団に頼れたらいいが、拒まれたらどうしようと二の足を踏んでいたこと。その先も、どうしたらよいか道は見えないこと。
まったく彼女に下された命を顧みれば、腑が煮えくりかえる思いだが――でも、おそらくこれが、この世界の「当たり前」なのだろう。
私たちには責任がある。キネさんはそう言った。ムラで暮らす人々のため、ヒスイのため、悪しきは取り除かなければならないのだ、例外なく。大義親を滅すではないが、大義のために個を切り捨てることはよくあることだ。ムラか少女か、少女かムラか。天秤の傾きは側から見たところで歴然なのだ。
畏れは無知から始まる。いつしかそれは拒絶となり排斥となり、そして迫害となる。異分子を取り除くことでしか、自らを守ることができない。
「ごめんなさい。道中、力になれるかはわからないけれど、でも、ショウちゃんになにかあったとき、すぐに助ける用意はあるから」
そばに置いたかばんを掲げる。薬や巻き木綿など応急程度のものではあるものの、ないよりはましだろう。近くでショウちゃんのゾロアとじゃれていたエルレイドが、それに続くように片腕を上げて破顔した。
「彼も、きっとあなたを助けにきたんだよ」
彼ら一族は感情に敏い。ある地方では助けを求める感情を鋭敏に捉え、颯爽と馳せ参じるという。足もとでゾロアまでもが睡たそうな目をうるりと瞬いてエルレイドに続いた。少女はまたもや眉をさげて弱々と笑った。それから、彼らにポーチに入っていたオボンの実をやりながら、「言ってなかったことがあるの」おもむろにわたしは切り出す。
無垢な瞳が、じっとこちらをまなざした。
「言って、なかったことですか」
「……うん」
あのね、と、痞えた言葉を一度飲み下して再度つなぐ。
「わたし、ヒスイに来る前の記憶がないの。……ううん、ヒスイで、目覚める前って言ったほうがいいのかもしれない」
長いまつ毛がゆっくりと揺れた。
「ノボリさんと一緒ですね」という言葉に、わたしはうなずいた。
「そう、ノボリさん。彼と、一緒、なのかな」
何日も前の彼を思い起こして視線を落とす。――記憶がないというのは、遥かに楽なのかもしれません。そうね、遥かに楽だった。――大事なことを忘れているというのは、やはりいささか辛いものとは思いますよ。……うん、そうだと思う。でも――。
抱えた膝の先、草履の足は砂や泥で茶色くなっていた。それを手で拭ってみるが、まったく意味を成さない。ただ、汚れた指先を軽く擦り合わせてから、わたしは腰のポーチへ手を伸ばした。
「これ、ありがとう」
取り出したのは、あの一枚のカードだ。洋装を纏い、総髪を後頭部でひとつに結い上げている女性――「ナナセ」が写っている。
紛れもない、わたし。しかしそこに記されるのは、「わたし」の知らない地名や、名前。東京都、■■区……。「ナナセ」は「ナナセ」だが、文字の成り立ちが異なる。
「ナナセさんは……」ショウちゃんはじっとそれを見つめ、次に気遣わしげに視点をわたしへと転じた。「うん」と相づちを打てば、彼女は生唾をごくりと飲み込んでじっくりと言葉を探すようにして続けた。
「時空の裂け目から、落ちてきたんですか」
対してわたしも、答えを捻り出すのにやや時間がかかった。
「……わからない」
小さく口にしたものの、これがある限り、そうなのではないかと告げる声がある。指先に挟んだ「身分証」を見つめて、わたしは隣の少女に笑みを向ける。
「もしかしたら、あなたと同じところから来たのかもね」
ずっとひとりにしてごめんね、そんな気持ちを抱くのは傲慢か。ショウちゃんはなにか言いたげにしていたが、「だったら、うれしいです」と笑って立ち上がった。
日が完全に暮れる前に件のふたりを探し出さなくてはと、アヤシシさまというポケモンの背に乗って原野を駆け回った。まずはキクイというシンジュ団の少年のもとへ。ラベン博士から教わった彼の居場所である巨木の戦場付近には、わたしも一度だけ向かったことがあった。山から湧き出た水が小川となり、おだやかにせせらぐ。コダックやミミロルが生息し、憩いの泉のごとく静謐な空気が漂っている場所。しかし、近くにドクケイルの巣があるため、しびれごなやどくのこなには気をつけなければならない。だが、それは同時に、薬の素となるポケモンたちの落としものを採取するにはうってつけであった。調査隊と警備隊と、あのころはなにも考えずにただ目の前のことに必死だった。
そんな懐古も虚しく、結局キクイさんを頼ることはできなかった。次の希望であるヨネさんも、どうにか見つけ出したものの、コンゴウ団で世話をするのは難しいと言われてしまった。彼らには彼らの立場がある。それは重々承知だが、あまりにも無慈悲ではないか。ショウちゃんは、あんなにも人々に尽くしたのに――そんな気持ちが募っただけだった。
ただ、コンゴウ集落へ行かずに済むことに対し、安堵している気持ちもどこかにあった。どうしようと肩を落とす少女の横で、そんな感情を抱いている自分に気が滅入りながら、必死に思考を切り替え次の手を探す。
ヒスイに暮らすふたつの集落を頼ることができないとなると、もはや居場所を探し出すのはむずかしい。拠点を使わせてもらえるとはいえ、あまりいい顔はされないだろう。ならば野宿を続けるのが最適かとも考えるが、二、三日はよくてもその先はわからない。
衣食住、それらの安定がごっそりとなくなった人間がどうなるか、悲惨な結末しか見いだせないのが悔まれる。けれど、そうするしかなかった。なにもかも我慢して――我慢させて、身寄りのないこの土地で生きていかなくてはならない。その上、ふりかかった異変の解明を行ない、少女は自らの無実を示さなければならなかった。
天冠の山麓へ向かい、時空の裂け目を直接、調べてみるしかないとショウちゃんは言う。そうね、とわたしも答えた。ただ、原野から山麓へ向かうにも、厳しいことには変わりがなかった。やるしかない、けれど、ふたりとポケモンたちでどこまで行けるか。
考えろ、決して止まるな――額に手を当てたその時、ぐううと虫の鳴く声がした。
「……すみません」
その虫の飼い主はショウちゃんだった。「朝からなにも食べてなくて」という言葉に、わたしはそれまで考えていたことが吹き飛んだ。
「朝から?」
思いがけず、声が大きくなり、彼女はシュンと萎縮してしまう。
「ううん、ごめんね、ちょっとびっくりしちゃって」
そう、あなたは悪くない。それから、すぐさま待っててというひと言だけを残し、わたしは林の中へ飛び込んだ。朝から――ということは、ムラを出る前はおろか、起きてからということかもしれない。空が赤く染まったのは、夜が明けてまもなく。否、夜のうちからそうだったのかもしれない。とにかく、外へ出てからもなにかを口にすることができないほど、追い詰められていたということ。ああ、これならば握り飯でも拵えてくればよかったと後悔したところで、すべてあとの祭りだ。
俊敏な動きで追いかけてきたエルレイドとともに食べるものを探せば、ちょうどラムのなる木があった。
「おねがいね」
彼はわたしの頼みに、満面の笑みで応えて木を揺らす。
ラムは滋養強壮にとてもいいきのみだ。昔から、なにか身体に不調があればラムの実を搾った果汁を飲めと言われていたほどだったと、医務室でトヨさんやタミさんが話していた。朝から胃の腑になにも入れていないとなると、固形物より流動食のほうが負担が少なくていい。なおのことラムはうってつけだ。それに、くすりとちがってポケモンたちにも分け与えてあげられるから、できるだけ多くあったほうがいい。
このままでは夜は拠点で眠ることになるだろうか、いつまでもこのような食事をしているわけにはいかないのに。けれどもいつか終わるという見込みは、現時点で見いだせない――そこまで考えてため息が出そうになったところで、上から緑色のたっぷりとした実が落ちてきた。
「大漁ね」
ルレッと誇らしげに腕を構えるエルレイド。おのずとまなじりが緩み、幾分かこわばった心がほどけた気がした。いくつも転がったそれを着物の袂を使って拾い集め、ショウちゃんの元へ戻ることにした。すると、そこには思ってもみない人物が待ち受けていた。
「――ウォロさん」
おもむろに、その人はふり返った。
「……ナナセさん?」
どうしてアナタがここに。そんな顔をした彼に、わたしは弱く笑って肩をすくめる。
「役立たずとは、わかってはいるのですが……」
自分で言って、その言葉が突き刺さる気がしたが、ひとつひとつそれらを心から取り除いてわたしは彼の姿に目を細めた。ショウちゃんの前に立つ彼は、常と変わらず商人の格好をして大きな荷を背負っている。あの山吹色の鮮やかな帽子も、艶めく金糸も、なにもかもあまりにいつもどおりだから、張り詰めた糸がひと息に弛んでいく。
きのみを落とさないようふたりに歩み寄り、「いま、ラムの実をしぼるから、すこしだけ待っていてね」とショウちゃんに告げれば、彼女はあの困り顔で笑ってすみませんと謝った。全然いいのに。そう返しつつ、ウォロさんを見上げてわたしは微笑む。しかし、彼はあらゆる感情をこそぎ落とした顔をして、わたしを見つめていた。
「どうして」
キネさんが届けてくれたかばんを開こうと、上体を折り曲げたわたしの二の腕を彼は掴んだ。その手の力はかすかに強張り、たしかに動揺を感じさせた。それを宥めるように笑みを頬へ浮かべ続けながら、硝子椀とナイフを手にとって、わたしは体を起こした。
「時が来たんです、きっと」
腕を掴む力がわずか強められた。彼の顔をとっさに探ると、帽子のつばで目許に大きく影が落ちていた。なにか言いたげに開いた唇がすぐに閉ざされ、赤い舌がそれをなぞる。ほんの一、二秒のこと。てっきり、「また飛び出して」と呆れられるかと思っていたのに、これは予想外だった。
「……――め」
なにかをひとつ声に載せて吐き捨てたが、吐息に似たそれは風にさらわれ確かめることはかなわなかった。「失礼しました」と腕を離して、彼は常の笑みを取り戻した。
「いやはやまさか、ナナセさんもご一緒とは思わず。しかし、聞きましたよ、なにやらお困りのようで」
すぐに元の彼に戻ったことに、わたしは心のどこかで安堵しながら、ラムの実をひとつふたつと半分に割って、果汁を搾る作業へ移った。
ショウちゃんは思いがけない救世主の登場に気力をかき集めたようだが、顔色はやはりすぐれなかった。「そうなんです、とても、困っていて」と答えるわたしの横で、彼女の下がり眉は相変わらずであった。ラムの実を割るのをエルレイドが手伝ってくれたおかげで、あっというまに硝子椀の中は鮮やかな若菜色に染まった。
「ほう、ラムですか。古くから、万能薬として愛されてきたきのみですね」
「ショウちゃんの胃に、なにか優しいものをと思いまして」
「なるほど、これは心にも身体にもうれしい一杯でしょう! ではジブンも心ばかりのお手伝いを」
ウォロさんは先ほどまでの調子などすっかりどこかへ押しやり、飄々とした調子でかばんを下ろして中から丸い白磁の容器をとりだした。金の糸を紡ぐがごとく華奢な紋様が描かれたそれをふたつに割って、ウォロさんは薄紅色の小さな星を指先でつまんだ。
「……金平糖?」
「ご名答! なんでも、ロゼリアの花からとれた蜜をたっぷりと含めたトクベツな逸品らしく、その芳香さたるや地上の楽園と称されるとのこと!」
また売りつけられるのかと、反応したのはショウちゃんだった。目を輝かせて金平糖を見たのも一瞬、「いまはあまりお金が……」と前に手を突き出した。だが、ウォロさんはニコニコと笑うだけで取り合わず、それどころかラムの実を搾った果汁の中へひとつ、ふたつ、と星を落とした。
「そのままでは酸味が強いですからね!」
そうですね、とわたしも彼の手許を柔らかなまなじりで見守る。
「それから、お水ですこし希釈したほうが、飲みやすいかもしれません」
「ええ、ええ、そうでしょう。では、水であればこちらを」
あわあわと慌てるショウちゃんにふっと吹き出して、「お金はわたしが払うから大丈夫」と告げた。
「……あ、でも、足りるかしら。そちらの金平糖の容器――ボンボニエール、ですよね。すごく高貴な方に贈られると、前に新聞で読んだことがあります」
「問題ありませんよ、お代は後ほど――なあんて、そこまでジブンもオニではありません」
瓶詰めになったお水をほんの少しそそぎ入れ、ショウちゃんに差し出す。彼女は困り顔で大人ふたりの顔を見比べていたが、やがて観念するとおもむろに硝子椀へ口をつけた。
それから、原野を離れてとある場所へ向かい、一夜を過ごすことになった。そこは、テンガンの麓から東の森を進んだ先の小さな隠れ里であった。古より伝わる由緒ある一族の末裔だというひとりの女性が暮らしている。彼女の名は、コギト――ウォロさん曰く、此度の異変に関して手がかりになる話をしてくれるのでは、ということだった。そして実際に、コギトさんはわたしたちに知恵を授けてくれた。
隠れ里で迎えた夜、昼間の喧騒がうそのように静けさが身をつつむ。辺りからはポケモンたちの鳴く声が、ひそやかに聴こえてはささやかな唄を奏でる。ムラのそれとも調査先のそれとも異なる、濃密な静寂。
日が昇れば、ヒスイの湖に存在するという三匹のポケモンへ会いに行く。つかの間の休息と言えばいいだろうか。あと数時間もすれば、じっとしている暇などないことはわかるものの、これからの生活がどうなるかまったく予想がつかず、心の置き場がどこにもないように感じてしまった。それだから、眠りについたショウちゃんを起こさぬよう天幕を抜け出して外へ出ると、わたしは小川にかかった板の橋を渡り里のはずれで空を眺めた。
さらさらと水の流れる音がする。風がかすかに頬を撫でる。それは、とてもやさしい母なる手のように思えるのに、見上げた夜空はどことなくおどろおどろしさを残している。昏く、はてなく続く満点の星……。いつかは目映いほどに瞬いていたそれも、今は、赤い絽紗の張られた複雑な闇の中に埋もれている。夜になっても拭えぬシミのごとく、思いがけず背すじが冷えて視線を逸らさずにはいられない。
ほんとうは、開けた路の果てまで向かおうとした。しかし、ひとり落ち着かなくなり来た路を戻ることにした。ギンガ団のだれもが知らぬ未開の地。そのただ中にあるこの隠れ里。――こわい。そうだ、いま自分を充たしている感情を言葉にするならば、畏れ、困惑、焦燥……。なにかを手にすることが、おそろしい。また、あの痛みをこの身に受け容れるかとおもうと、居てもたってもいられなくなる。ムラを飛び出してきたあの勢いが、ごっそり削ぎ落とされたように。
一歩進んで、何歩も戻る。そんな心地だ。明けない夜があるならば、それが今であればいいとさえ考えてしまう。日はまた昇る。夜明けをだれもが求めているとは知りながら、そして、自分さえそれを願っていながら。
宛てもなく歩いていると、近くでザプンと水面が跳ねる音がして大きく肩が震えた。天幕まで駆けようときつく腕を抱いたが、それは徒労のままに終わった。「ナナセさん」声をかけてきたのはウォロさんで、彼は川下で水浴びをしていたようだった。
だれもが寝静まる夜半。白皙の肌に紫紺色の淡い影がかかっている。長い金糸があえかに光を宿して、鬱蒼とした夜のしじまにも瞬いていた。あまりに思いがけない出来事だったため、わたしはそれをしばし眺めたあと、慌ててすみませんと両眼を覆った。
幻想的な光景だった。光景というより、景色というほうがいいかもしれない。不気味ささえ醸しだす宵闇に、ひとりの男性が立っている。淡い光をその身に浴びて、その躰のなんと美しいこと。なめらかに落ちた髪の、艶かしさといったら。どうにか記憶から消し去ろうとするが、西洋の女神がその場に来臨したように、絵画的なその一瞬はまざまざとまぶたの裏に灼きついてしまった。
「ごめんなさい、もう行きますから」
辛うじて告げると、ふっと息を吐きだす音がした。ちゃぷん、と水面が跳ね、手の甲にひやりとしたなにかが触れた。次の瞬間、強い引力でいざなわれた。
前へ、前へと倒れ込む。ひゅうっと心の臓が縮まり、慌てて受け身をとろうとして一歩、踏み出す。そこにまだ橋が続いていれば――そうだ、路が続いていればたやすく体勢を整えられたかもしれない。ばしゃん、と音が立つ。水面へ飛び込んだが決して足を止めることもなく、なおも続く引力に奥へ奥へと川をすすむ。
「ウォロさん」――髪が揺れる。逞しい肩、腕、背……。
着物が水を吸って重くなる。それでも突き進む彼に立ち止まるもできず、ひたすら足を動かす。やがて、水は太腿まで上ってきた。「ウォロさん!」いま一度その名を呼べば、彼はようやく立ち止まりふり向いた。しかし、刹那、いっそう腕を引く力が強まり、厚い胸板へ迎え入れられた。
長い腕に抱きすくめられ、頬に熱を感じたのもつかの間、そのまま彼は深みへと進んでいく。いつしか川幅も広がり、腹を超え胸のあたりまで水が迫ったが、身動きをとれず躰は沈んでいく。
「ウォロさ――」
ざぷん――水がわたしを、わたしたちを呑み込んだ。冷たいのか、熱いのか、わからぬまま息を吐きだし、唇からは無数の泡がこぼれた。
酸素の代わりに水の腕がするりと喉へすべりこんで、苦しさに腕を、目の前のわたしを抱く男の背に伸ばした。ごぽり、またひとつ泡が水面に向けて上がる。
開いた眼の先、彼が泣いている気がした。
