第四話

 空は青く、澄み渡っていた。燦然と照りつける陽射しに懸命に背を向けながら、わたしは自らの背丈よりやや高い竿竹へと白い木綿布を掛けていく。
 今日は一段と天気がいいからと本部横手の土手ではなく、さらにもう一段先の小高い丘の上で洗濯物を干していた。隣には陽気なバリヤード。いつもは表門の門番をしてくださるデンスケさんのもとによくいるその子だが、こうして白い布を手にして土手へ上がると時折わたしのもとへやってきてくれる。
 初めはじっと見つめているものだから、どうしたのかと困ったのだけれど、手伝ってくれるの? と訊ねてみればその子は大きく破顔した。あまりに人間じみているものだから、ポケモンにもいろいろな表情があるのだと微笑ましくなったものだ。
 今日も目ざとくわたしを見つけたらしく、バリヤードは小躍りをするようにして土手を駆け上がってきた。
「そっちをお願いしてもいい?」
 処置に使う手ぬぐいほどの大きさの木綿布を干し終えたあとは、大きな寝台用の敷布を広げる。さすがにひとりでは骨が折れるため――といっても、長らくそうして済ませていたわけだが――バリヤードに声をかければ、かれはこくこくとうなずきながら反対側を持ってぐんと引っ張ってくれた。やや強めだったことからわたしが体勢を崩すと、その子はおもしろがってまた一回、二回とそれをくり返す。
「もう、遊んでいるんじゃないのよ」
 今にもニシシと笑い声が聞こえてきそうだった。その子はいたずらな表情を浮かべたまま敷布の端を手に、竿竹の向こう側へと小走りで回る。数回、ピンとしわを伸ばすように引っ張れば、「完成ね」と言ったわたしにその子は誇らしげに胸を叩いた。
「いつもありがとう」
 飴屋で手に入れた飴をお礼に一粒。ぱあっと屈託なく破顔したあと、すたこらといった擬音が似合う足どりで去っていく。まるで絵本みたいな風景。真上から降りそそぐ陽射しに手庇を作ってわたしはそれを見送った。バリヤードの帰還に気がついたデンスケさんが、こちらに向かって会釈をする。わたしも同じように軽く首を垂れた。
「――のどかねえ」
 顔を上げた拍子に光が瞬き目を灼いた。下から風が立ちのぼり、ふうと頬を撫でては髪を攫っていく。たなびくは、白妙の衣。目映き景色。やがてそこへ影が宿り、風に合わせてゆらりとたゆたう。
「ウォロさん」
 こんなにも大きな影はその男しかいない。竿の上からひょっこりと山吹の色彩がのぞき、「なあんだ、わかってしまいましたか」と彼は敷布の向こうから出てきた。
「今日もコトブキムラまで精が出ますのね」
「ええ、なんといっても、こちらにはジブンを待ち受けるとっておきのお得意様がいらっしゃいますからね」
 今日はなにか頼んでいたかしらと隣へ並んだ彼を見上げる。彼は、「ジョウダンですよ」と唇を薄く引いてからりと笑った。
「それで、ナナセさんはなにをごらんになっていらっしゃったのでしょう」
 彼は微笑のままやわらかに訊ねてくる。
「なにを、というわけではないのですが」
 風に攫われた髪を耳へかけ直し、前を向き直る。
「あえて言うなれば、コトブキムラでしょうか」
 なるほど、とウォロさんはあごを撫でた。
「ここは、どこよりも見晴らしがいいですからね」
 唯一、本部の団長室から繋がる回廊よりかは劣るだろうが、それでもムラ全体を見渡せるこの小高い丘は、いわば特等席でもある。いつもは一段下の土手に干すのに、わざわざ竿を運んでここまで上がりたくなるのだから、ふしぎなもの。
 物々しい暗雲が立ち籠めるテンガン山に背を向けてムラを見下ろす。すぐそばのソノオ通りに、川を挟んでミオ通り。ここへ来たころにはその両脇にしか長屋はなかったというのに、いつのまにか建物は増え、ムラは目に見えて豊かになりつつある。
 往来を人々が行き交い、穏やかに笑い合う。軒先にはビッパやチュリネ、コダックが走り回り、それを子どもたちが追いかけ、にぎやかな声が上がる。なんとも微笑ましい景色と言えばいいだろうか、ムラとしての完成形と言えばいいのか。
「いつのまに、こんなにも栄えていたのでしょうね」
 時の流れとは、早いもの。同じ目線でばかりものを見ていれば、なかなか視界の変化には気づかない。一歩後ずさり、俯瞰してみる。それだけで、見えるものは変わる。
 コトブキムラという、渡来人による文明の発展。たしかにここに、ギンガ団の、コトブキムラの人々の生活が根づいている。
「なにか案じている顔ですね、それは」
 ウォロさんはいつもの笑みを携えたまま、ちらとわたしの顔をのぞきこんでくる。
「案じているだなんて。ただ……」言おうとして、情けなく笑った。そのとおりだと思ったのだ。
「……そうですね。ウォロさんのおっしゃるとおり、不安なのかもしれません」
「不安、ですか」
「ええ」
 新たな時代の兆し、人類の進歩、文明の涵養。ムラの広がりは、まるで白い布地に墨を垂らしたように瞬く間に行き渡る。
「新たな文化や文明の発展というのは、同時に、破壊でもあると思うんです」
 ――すなわち既存の文化であり生活であり、そこに開かれた文明の破壊。コンゴウ集落で感じたことのひとつだ。
「ヒスイにとって、わたしたちはよそ者です。それなのに、わたしたちは傲慢にも、ギンガ団としての土地を拡げていこうとしているように思える」
 親睦、和睦などとは言うが、一歩間違えれば、否、見方をほんのわずか変えるだけで、それは侵略と違わない。たとえ、今は調査のため、ヒスイの平和と安全のためと述べていても、剣を持たず、弓を持たず、血を流さずとて、いつしかその地を乗っ取ることができる。まさしく、布へ落ちた、シミ。
「それって、正しいのかなって」
 弱々と肩をすくめる。誤魔化すように、だったかもしれない。
 正しさなど、見る人間考える人間、語る人間、その主観性によって変動するもの。普遍などとはほど遠く、善と悪を説くのと同じ。終わりのない、果てなき道をたどっていくようなもの。
 そう口にして、ああ言葉を間違えたなと思った。そういう物差しではかるものではない。とはいえ、彼らにとってどの道が正しいのかを案じていたのは正直な気持ちだった。
 ムラが賑やかになるのは、とてもうれしい。人々が集まり、活気ある笑みが飛び交うムラは理想郷にも思える。ただ、胸のしこりはいっこうにほどけてはくれない。このままでいいのか。この先どうなるのか。コンゴウ団、シンジュ団の皆さんは。ギンガ団は、ヒスイは……。
 遥か北、純白の大地には今なお時空の裂け目の影響を受けたキングが待ち受ける。その裏側で営まれる――あるいはこれが表か、平穏な生活。その地を呑みこむ魔物の顔は般若でも修羅でもなく、ありふれた人間の顔をしているのかもしれない。
 さんざめく川面や、和やかな人々のふれあい。それらを眺めていると、隣でウォロさんが口を開いた。
「昔、大きな争いがありました」
 神妙にムラを見下ろす彼を見上げる。
「それは、コンゴウ団とシンジュ団の……?」
「……そうですね、そうです。互いのシンオウさまなる神を崇めるがゆえ、彼らは諍い争った。そして、おのれこそをこの地の人間であると正当化するため、それぞれ〈カミナギの民〉と名乗るようになった。……しかし、その神が偽りであるとしたら?」
 ――偽りの、神。
「それは、どういう」
「カミナギの名を驕り、我こそはシンオウ人と称するニンゲンたちが、その実まったくの他所者であるとしたら」
 その横顔を見つめていた。いつもは愉快に変化する顔つきが、今やすべての感情を削ぎ落としたように、精悍とさえ言える静かでしたたかなものであった。
 左手に立つ彼の、夜明けのような灰色の瞳は、本当にコトブキムラを見ていただろうか。
「……古代の、真のシンオウ人の血を引く方は、もう、どこにも?」
 おそるおそる紡いだわたしに、彼はようやくわずかながらその頬に感情を取り戻した。
「さあ、ジブンにはさっぱり。しかし幼い彼にとって、それは許しがたい冒涜だったことでしょうね」
 自嘲にも似た、ささくれのような尖りを持った笑みだった。それがなにを意味するのかも確かめられぬまま、彼はふっと息を吐きだすと眼前に広がる景色を眺め、目を細めた。
「よりよい世界があるとしたら、それは如何なるものなのでしょう。豊かさとはなにか、富とはなにか、世界とはなにか。あるいは、真なる神がいるとすれば……」
 共存とはなにか、共生とはなにか。果たしてそれは、真に他方の富や財産を搾取せずに成し得ることが可能なのか。未来は、一体。
 今ここに考える人間は、「わたし」なのだろうか。
 どの「わたし」が考えているのだろうか。

 穏やかに時が過ぎゆく中で、刻一刻と純白の凍土への調査の日は迫っていた。
 製造隊での懐炉灰づくりも佳境に移り、当初百個だったのを増やし、さらに増やし、というのを続けて、備蓄庫には紙で包まれた筒状の灰が山積みになっている。これをイチョウ商会に倣ってカイリキーの引く荷車に乗せて北へ向かう。キネさんの話によれば、食糧はもちろん、薬や木綿布、凍傷予防となる植物油なども瓶詰めで山ほど持っていくというから、およそ二台、三台と大きな荷車が連なるのだ。ムラじゅうの火灯し用の油をかき集め、さらにはイチョウ商会を通じて方々から集めた瓶詰め油は、およそ一か月に使用するその量をはるかに超えていた。
 用意を怠ればそれは死を意味する。これまで順調に進んできたように、わたしたちギンガ団をヒスイの大地が容易に受け容れてくれるとは限らない。日夜訓練に勤しむ警備隊員たちのあいだにも、次第に緊張感が走るようになってきていた。
 そんなある日のこと、警備隊長のペリーラさんに呼ばれ、わたしはキネさんとともに訓練場へ赴くことになった。用件はもちろん調査についてだ。ただ、常のように事前の健診などではなく、この日は凍土地帯での過ごし方を彼らに伝えるためであった。
 隊員の中には、ヒスイからはるかに離れた土地からやってきた人もいる。たとえばホウエンやアローラ、それらの地方の人々はほとんどが雪とは無縁の生活を送ってきた。彼らにとってはもちろん、そしてそれ以外の人間にとっても、北の大地というのは想像を遥かに絶する環境である。そのため、防寒や凍傷予防と処置の方法に関して話をしなければならなかった。
 外は氷点下に至るため、長時間肌を晒すのは禁物なこと。手足はもちろん、顔もできる限り風や冷気を浴びるのを防ぐこと。冷えにより血液のめぐりが悪くなると、凍瘡を起こし果ては凍傷に至らしめる。そのため、前述した箇所に加え体の末端部は特に気をつけること。ほかにも、血行促進方法や予防のための精油の塗り方、また凍傷に至ってしまった場合の処置の仕方。
「熱傷――やけどと同じく、凍傷の程度を見極めることは困難を極めます。どれほどの日数で治癒するか、それとも悪化し脱疽を起こすか。……一度脱疽を患った皮膚は二度と元には戻りません。最悪の場合、局所の切断を要することになります」
「脱疽ったぁ、あの三代目タノスケの患った病じゃ……」
 静かにうなずいたキネさんに道場じゅうが固唾をのんだ。タノスケに関しては、ラベン博士の取り寄せてくれた医学書に載っていた。十年以上前にカントーで活躍したカブキ役者であり、宙乗りの芝居の際に落下しその負傷により脱疽を患った。
 脱疽――つまり壊疽。細菌による感染や物理的破壊や損傷、あるいは血流の減少をもとに、肉体の一部分の細胞・組織・器官が死滅する、壊死の一種。患部は褐色あるいは黒色に変色し、固くミイラ化することもあれば、感染による化膿を伴うこともある。
 雪は美しいが命とりだ。視線を俯かせていると、「ナナセ」とキネさんに呼ばれて慌てて顔を上げた。
「……脱疽を防ぐためには、まめにぬくめること、そして血の巡りを促すことが大事です」
 用意していた鉄瓶を、警備隊の方の連れていたヒコザルの「ひのこ」を借りて七輪の火にかける。今回の調査で、ほのおタイプのポケモンを必ず一匹は連れていく方針に決まったのだが、それはこのためだった。鉄瓶があたたまってきた頃合いを見て、手桶に湯を張る。まだ人肌ほどの温度だが、これでちょうどいい。ヒコザルの持ち主である警備隊員へ断りを入れてその手をとると、わたしは手桶に彼女の手を沈めた。
「もしも凍傷を負った場合は、全身を毛布や布など暖をとれるものですぐに包んでください。できれば、こうして患部を直接温めてください。温度は必ず人肌。周囲の介助者が触れて、心地よいと思う温度以上にしてはなりません」
 そして、大事なのは患部を擦らないこと。彼女の手を湯の中へ誘い、そのあとは湯の温度が下がらないよう鉄瓶で沸かした湯を、ときおり、そっと端から注ぎ足しながら様子を見る。
「なぜ、人肌なんだい。もっと熱いほうがすぐにあたたまるだろう?」
 ペリーラさんの問いに、皆がそうだとうなずく。熱い風呂に入りゃ済むという声まで届いた。
「霜腫れ程度であれば、問題はないのですが……皮膚や組織が凍ってしまった場合、多くは感覚がありません。感覚がなくなって、指先など患部が変色してきたらそれはもう凍傷だと思ってください。……ですので、熱い湯でかえってやけどを起こしたり、症状を悪化させたりすることがあります」
 ゾゾゾ、とどよめきが走る。この期に及んであまり怖がらせてはいけないと良心が傷むが、しかし、命にかかわることだ。無知は罪ではないが、仲間や自分、そして大事な相棒たちを殺すことになる。
「とにかく、温めてください。できるだけ、早く。完全に体温を取り戻すまで、三十分から一時間はこの状態にしてください。そして患部には、むやみやたらに触れないこと」
 拝借していた警備隊員の手を湯から上げ、真っ新な晒し木綿でやさしくぬぐう。
 凍土地帯では、キネさんたち医療隊がすぐに治療にあたれるよう、シンジュ団の方たちの使用している天幕をひとつ拠点に借りることになっている。凍傷部分を融かしたあとは、できるだけ動かさずそちらへ運んでもらう算段だ。ただ、すぐ拠点へ向かうのが困難だと判断した場合には、その場で処置をせず、凍らせたまま可能な限りの早さで拠点へ戻ってから治療を開始する。一度融けた組織はもろく、かえって損傷がはげしくなるからだ。
「製造隊からひとりひとりに懐炉の支給もあります。予防として、血行を促すのに適した植物油や漢方などもあります。可能な限り備えをして臨みましょう。備えあれば憂いなしですから」
 キネさんがそう締めて、その場は一時解散となった。
「ナナセさん」
 やってきたのは、ラベン博士だった。鉄瓶や手桶などの片付けをしていたわたしは、それらを抱えてゆっくりと立ち上がった。
「ラベン博士。博士もいらしていたんですね」
「ええ、われわれも北へ向かいますからね。ショウくんとともに端のほうで拝見しておりました」
 先生方には直接お話する予定でしたのに、と眉をさげると、彼は滅相もないとからりと笑い飛ばした。
「ただでさえ時間に追われている状況でしょうから。コンゴウ団ではありませんが、タイム・イズ・マネー、ですよ」
 ところで、と彼は続けた。
「ナナセさんに紹介したい方がいるのです」
「紹介、したい方?」
「ええ、シンジュ団のキャプテンの方なのですが」
 ちょっとこちらへ、と手招きされ、わたしは道場から出て客間へと通された。
 そこにはペリーラさんでもキネさんでもなく、ただひとり、破れた外套と揃いの制帽とを身につけた男性が待ち受けていた。
「ノボリさん」
 彼は呼ばれると、縁の向こうで背を向けていた体をゆっくりとひねった。
「これはラベン博士、わたくしになにか御用でございますか」
 くすんだ橙と色の落ちた涅色の外套を揺らして、彼は懇切丁寧な口調で訊ねてくる。
「先日、話しておりましたナナセさんです。彼女も――ここだけの話ではありますが、ヒスイへ来られる前の記憶を一切失くしてしまったのです」
 震える手を必死で隠しながら一礼をする。彼は温度のない、読めない表情のまま、なるほどと相づちを打ち縁へ上がった。
「私は席を外しましょう。ショウくんとペリーラさんのポケモン勝負を眺めてきます」
 ラベン博士は帽子飾りを揺らし、目配せをして客間を後にする。
 突如として残された彼との間には、なんとも言えない空気が漂っていた。晴れているはずなのに、雨でも降り出しそうな心地。否、まるでそぼ降る雨のしじまにわたしたちは立ち尽くしていた。
「突然のことで、申し訳ございません」
 いたたまらなくなり、再度頭をさげると彼はいいえと淡々と口にした。
「わたくしも、自分と似たような境遇の方とお話できるのは貴重だと思っておりましたから。……とはいえ、似たような、などと申すのも失礼ではありますが」
「そんな、とんでもございません。むしろ……」
 言葉にしようとして、その先は声にはならなかった。案じてくれたのか、ノボリと呼ばれたその人は、ヒスイへ来てからの日々をかいつまみながら話してくれた。
 小一時間ほどだろうか、外へ出るとペリーラさんとテルくんが互いのポケモンを戦わせているところだった。それを、ショウちゃんとシンジュ団のカイさん、そして、なぜか群青のあの男までもが眺めていた。
 荒縄で締めつけられるように心の臓が軋み、その場に立ちすくむわたしを彼はその眼にとらえていた。ほんのわずか視線が絡み、その糸を断ち切ったのはわたしだった。そうでありながら、胃の腑をひっくり返したような気分の悪さが込み上げた。
「ナナセさん」
 ラベン博士が声をかけてきた。
「博士、先ほどはありがとうございました」
「いいえ。突然のこと、気を悪くされないかと正直悩んではいたのですが、記憶に関しては彼が一番の理解者であると思いまして」
「……彼に、辛いことをさせてしまったかもしれません」
 そっと眉根を寄せた博士に、わたしははっと顔を上げる。
「すみません、お話をしたのが決して悪いことだったとは思わないのです。ただ……」
 ――記憶がないというのは、遥かに楽なのかもしれません。彼の声が脳裡を過ぎった。
「彼には、大切なものが、あったみたいだから」
 いっそのこと、このままでも構わないとわたしが考えていたように、彼もまた滔々と時を過ごした。しかし、記憶というのは不思議なもの。大木のように、木の枝ひとつ揺らしただけで全体が動き出すことがある。楽だと彼は言った。困ることは特になかった、とも。それでも――。
 ――大事なことを忘れているというのは、やはりいささか辛いものとは思いますよ。
 それが、なにかとはわからなくとも。彼が向ける瞳は空虚のように見えて、その下にさまざまな熱や感情が隠されているようだった。寄り添う言葉に込められた、静かな感情。それは、憐れみや慈しみというよりは、憤りや悔恨、苦痛や煩悶を押し固めたものに感じた。
 発露は苦しい。病が皮膚の下で身を蝕む、いわゆる潜伏の時であれば、いくらでも耐えられる。だが、一度それが表に出てしまえばあとは苦しみの日々だ。
「ナナセさんは」
 その名を呼ばれて、俯いていた顔を弱々とあげた。
「記憶がないことを、皆さんに打ち明けないのは、なぜですか」
 なぜ――。
「……必要がないと、思ったからです。……ううん、必要がないと言われたから。アナタはカントーから来たナナセだと、言われました。それを疑う余地もなく、わたしは万事受け容れました」
 心配をかけたくなかったのもある。余計な気を遣わせるのも、身が引けた。けれど、本当は怖かったのだ。好奇の目で見られるだろうと、アレコレと詮索されるくらいなら、自分は「ナナセ」であることを真から演じたほうがいいと、そう思った。彼の言うとおりに。
 結局、逃げたのだ。最初から、わたしは逃げてばかりだった。辛かったでしょうと言われても、わからぬことだから。必要最低限のことはウォロさんに教えてもらったから、疑われることもなく生きてこられた。コトブキムラにはさまざまな場所から来た人間が多かったから、それが幸いした。
 記憶がないことにも、さほど疑問は抱かなかった。だって、そうする必要もなかったから。過去がなくとも、わたしは生きてこられた。生きることに、ただひたすら必死だった。
 ノボリさんも、そうだったと話してくれた。ただ、それは彼女と出会うまで。
 目の前で繰り広げられていた勝負に決着がつき、うなだれたテルくんがショウちゃんと入れ替わる。ペリーラさんは威風堂々と少年の挑戦をたたえ、次の挑戦者を見据えた。
 ――あの子は、どうだったのだろう。
 朗らかに、花のかんばせをほころばせる、あの子。ここに来たばかりのころ、彼女は困ったように眉を下げて大人たちの会話を追いかけていた。
 十五歳――この世界ではもう、ひとりの大人として扱われる歳だ。そうだから、それが当たり前なのだろう――実際にテルくんだって、自立して調査隊として働いている。ほかにも同年代の子だっている。けれど、まだほんの子どもじゃないかと思う自分もいる。
 そんな少女が、知らない世界に突如ひとり落とされたとすれば。かつて、十五のわたしは耐えられただろうか。あんなふうに笑っていられただろうか。なにもかもを受け容れ、荒波のように押し寄せてくる試練に、立ち向かっていけただろうか。
 はしばみの瞳がこちらをまなざしていることにも気づかず、わたしはショウちゃんを眺めていた。きつく握りしめた手のひらに、爪が食い込むのも厭わずに。

 すべての勝負を見物することなく本部へ戻ったわたしは、キャビネットにしまってある薬品の在庫を検めていた。このごろは訓練もいっそう厳しくなっていることから、調査に出なくとも隊員たちの生傷が絶えないもの。患部へ塗布する傷薬はもちろんのこと、身入りの際に便利な鎮痛膏や腰痛に効くというグレッグルの毒など。備蓄していたはずのそれらの減りも以前よりも目に見えて早くなっていた。
 こうした薬品類は長く置いておけないから、一度に作る量は限られている。けれど、こまめに作る時間もないほど、次から次へとやるべきことが舞い込む。このままではだめだ、とつきそうになったため息を飲み下しては、必要な薬を書き出していた。
 それに、タオファさんのために作っていた頭痛膏も、あとひと息のところで止まっていた。なにもかも、半端でおざなりだ。考えだすたびに悪循環に陥って、そこから抜け出せなくなる。もがくようにして、試薬として瓶詰めにしてあった頭痛膏をキャビネットの隅から手に取り、塵芥箱へ入れようとした。
「ちょいとすまねえ」
 だが、するりと室内へ入り込んできた声に、動きを止めた。
 群青の羽織が視界の端で翻り、ぐらりと目の奥が回転する感覚が襲いかかる。一度ゆっくり瞑目してふり向くと、彼に背負われた少女の姿が目に飛び込んできた。
「いったい、なにが……」
「ノボリの旦那との勝負で、つい熱くなっちまってね。技を出した反動で小石が弾けて、ショウの顔に当たっちまった」
 顔半分が真っ赤に染まっている。「すこし切れただけなんです」と彼女は笑いながら言うが、ぬぐってもぬぐってもその血が止まらないようだった。
 すぐさま椅子に彼女をおろしてもらい、畳んでおいた晒し木綿をかき集める。幸い傷は深くなく、少し切れただけというのは正しかった。しかし、たしかに小さな傷ではあったものの、切ったのは左の眉尻、あとほんの少しでも逸れていれば、失明の畏れがあった。
 幾許かして、止血をしたことで血は出なくなったが、彼女の隊服はところどころに赤黒いシミがこびりつき、眼瞼のふちや睫毛、あるいは唇の端には拭い切れなかった血が塊となって残っている状態だった。
「あまり、そう難しい顔をしねえでやってくれ」
 言われてハッとするが、それでも唇を噛み締めた。
「……あなたは、まだ、十五歳なのに」
 自分を恥じた。愚かな横面を一度思い切り張ってやりたいくらいだった。彼女が眩しい? 羨ましい? 嫉ましい? なんと浅ましいこと。この子は、こんなにも小さな体で、命をかけて立ち向かっているというのに。
「おねがいだから、無理をしないで。必ず、生きて帰ることだけを考えて」
 なぜ、この華奢な肩にすべてを背負わせなければならないのか。
 調査まであとわずか。とはいえ、明日明後日のことではない。それなのに、そんなことを口にしたわたしにだれもがなにも言わずにいた。
 少女の大きな瞳の中で、白熱電球の明かりがぐるりと瞬いていた。

 記憶がないことは、僥倖か。しかし、一度火のついてしまった導火線が止まらないのと同じで、その存在に気がついてしまってからは、後戻りができない。「わたし」ではない、「わたし」。失われた半身よ。おまえはいったいだれなのか。わたしという人間は、果たして真に存在しているのだろうか。
 生きていてもいいという、確かな証が欲しかった。自分の知らない「だれか」ではなく、「だれでもいいほかのだれか」ではなく、「わたし」は、「わたし」を見つけたかった。ほかでもない、「わたし」を認めてあげたかった。
 知りたいという気持ちは、罪を重ねていくように次第に深くなっていく。
 ショウちゃんが博士に呼ばれ、医務室を出ていったあと、残されたのは彼とわたしだけだった。黙り込んだままのわたしに、彼も同じように口を閉ざしていた。だが、先に沈黙を破ったのは、彼だった。
「……どうにも、こういうのは苦手だ」
 結い上げた髪を撫でつけるように額に手を当てて、彼は深々とため息をつく。「申し訳ございません」謝ろうとしたわたしに、彼は、「少しばかし、黙ってくれねえか」と矢継ぎ早に言った。
「先日は、助かった」
 苦々しくその先は紡がれた。
「先日、と言いますと」
「この傷よ」と、彼は袖を捲り左腕を突き出す。
 そこには一寸ほどの傷があった。ガブリアスの爪が引っかかったときのものだ。まだ傷口が塞がったばかりで瘡蓋が皮膚を覆っているが、それでも以前より糜爛は落ち着き、状態は良好と言えた。
「……よかった」
 それだけで張り詰めていた糸が弛む。ただの傷であっても、そこから細菌に感染してしまえば取り返しのつかないことになる。
 思いがけず大きく息をつくと、相手がセキさまであることをすぐに思い出して居住まいを正した。
「……まあ、それだけさ。ショウの怪我といい、アンタの手際のよさは相変わらずだ」
「そんなこと」
「謙遜してくんな。そりゃあモモンの実をかじって、口で渡してやる奴だ。並の人間じゃねえのは承知のことよ」
 恨めしい気持ちと胸懐と、一緒くたに押し寄せて喉が締まる。いつのまにか唇を噛み締めてセキさまを見つめていた。
「……そんな顔、すんじゃねえや」
 だめだ。この人のそばにいてもいいのではないかと、錯覚してしまう。結局、そのくり返しじゃないか。自分で決めたくせに、勝手に突き放し、逃げたくせに。……ああそうだ、逃げてばかりだ。
 わたしが言葉を失くしているうちに、彼は立ち上がった。作業台の上に置いていた小瓶を手にとると、「頭痛膏、か」と小さくつぶやいた。
「これはアンタが?」
 答える気力はほとんど残っていなかった。それでも、懸命に意識を集めて答えた。
「……はい。肩凝りや眼精疲労からくる頭痛に、まだ試薬ではあるのですが」
「そうかい、シヤク、ね。まあいい、こいつをアンタの代わりにもらっていくとしよう」
 大きな手が小瓶をいとも容易く攫っていく。颯爽と視界を群青が過ぎ去り、だれもが消えていなくなった。

 火ともし頃、淡墨の空を縫うようにして、わたしはソノオ通りをそぞろに歩いていた。早く部屋へ戻りたいのに、まるで鉛が肩からのしかかるように思い通りに動けず、宵を待つにぎやかな装いをただ背に受けながら遠回りをして長屋へ向かっていた。
 表門ではデンスケさんとバリヤードがなにやら向き合い、声のない問答を繰り広げている。いつものことだ。川のせせらぎが耳を撫で、向こう岸に小石を積む子どもたちの姿が見えてくる。軒下から母親が声をかけ、彼らもまたわっと散っていく。
 そのうちのひとりが一陣の疾風となりそばを駆け抜けた。「ナナセねえちゃん、またね!」声が投げかけられるが、手を振ろうとしてあっという間にその背は遠ざかり、宙に上げたわたしの腕だけがそこに取り残された。
「だめね、もうどこにも行けない」
 すっかりゴースに乗り移られた気がして、長屋へ向けたはずの脚を止めてその場に立ち尽くしてしまう。滔々と流るる川に掛けられた、橋の上。息つき放牧場を眺めると、ショウちゃんがポケモンたちと戯れているところだった。
 額には巻き木綿が施され、遠目から見てもどこか痛々しい。けれど、自分よりもはるかに大きなポケモンたちとふれあう彼女は、そんなことなどお構いなしにかんばせを柔く緩めて彼らを見つめている。
 ほんとうに、ポケモンが好きな子だ。ポケモンと生きるために生まれてきたような子だ。
 和やかな気持ちの裏で耳の奥が塞いだ。眉間がつんと痛み、頭の中身が握られるような心地だった。思わずこめかみに手を当て痛みを堪えるが、その甲斐もなく次第に締めつけが強くなっていく。
 ついに堪え切れず、よろけて欄干へ手を突いた。たすけてと言いたいはずなのに、なにひとつ声にならなかった。

 ――ウ
 ――ナラヌ
 ――――…………。

 ふたつの光が瞬く。刹那、痛みが嘘のように引いていった。浅い呼吸のまま、目を見開き顔を上げると、放牧場にはいまだショウちゃんがポケモンと戯れているさなかだった。
 大きなギャロップを見上げながら、そのほのおのたてがみを恐れることなく手で撫でつけている。灼熱の、美しきほのお。それは信頼を寄せる人間にしか触れさせてはくれぬものだ。寄り添うショウちゃんの手を受け容れ、そしてその小さな頭蓋を鼻先でなぞる。彼女の横顔は安らかだが、同時に寂しげであり、なにかに縋るようでもあった。
「ナナセさん」
 静かに、忍び寄る影。わたしを呑み込んだそれに、ゆっくりとふり返った。
「ウォロさん」
「いよいよですね」
 なにが、と言わずとも、話題はひとつしかない。荷を背負い微笑を湛えたたずむ彼にそうですねと答えると、彼は上体を折り曲げて顔を覗き込んできた。
「心配、ですか?」
 そんなにもわかりやすいだろうか、「わかりますか」などとつい苦く笑うと、彼はええと躊躇なく首肯した。
「アナタは顔に出やすいですからね。それに、凍土地帯ともあれば、ひと筋縄ではいきません」
「……わたしが行くわけでもないのに、失礼ですよね」
 ウォロさんはなにも言わずに笑みを深めて、「顔色が優れないので宿舎まで送りましょう」と言った。
 放牧場のショウちゃんにふたりで手を振り、長屋までの道のりを歩いた。辺りの家々の軒には吊り灯籠が灯り、すっかり幽玄の景色が広がり始めていた。ウォロさんの渡してくれたマッチで自分の部屋の前にも火を灯し、それを持って中へ入る。入ってすぐの行燈と、板の間と奥のそれに順に明かりを点け、ようやく互いの輪郭を確かめられるほどになった。
「どうぞ、上がっていってください」
 おそらく今日はムラかその近くで天幕を張るのだろうからと声を掛けるが、彼はお気遣いなくと土間で踵を返そうとした。なにも売りつけないなんて珍しいと思い畳を摺って近寄れば、彼はややくたびれた顔を繕うこともなくこちらへ向けた。
「アナタは、彼女のことをどう思いますか」
 あの子のことだろうか。名前を唇に載せれば、ええと彼はうなずいた。
「巷では英雄のようだと、もてはやす声も散見されますが」
 その問いの真意を確かめられず、わたしはいつもより高い位置からウォロさんを見上げながら唇を舐める。
「英雄、とは、言い得て妙かもしれません。でも、彼女はまだ十五歳の子どもなのに、そんなにも重いものを背負わされてばかりで、心配になります」
「子ども」彼はゆっくりとその言葉を咀嚼し、「果たしてそうでしょうか」と温度のない声で訊ねた。
「……ショウちゃんが頼りないとか、人として認めていないとかではないんです。でも、未成年が未成年らしく振る舞うことができないのって、それは誇らしいとか恰好いいとか美談として終えていいことではないから」
 込み上げた想いをたどたどしく繋ぐ。もう十五歳、たった十五歳。そのどちらの感覚に頼ればいいのかはわからない。ヒスイの命運が少女の手にかかっているというのは、なんとも残酷のように思えた。――そう、残酷。
「なぜ、彼女なのでしょうね。彼女こそが、運命の少女だったから、そう言ってしまえば終わりなのでしょうけれど」
 ナナセさん――そんなふうに手を振って駆け寄ってくる女の子。キャラメルに目をきらめかせ、カレーが食べたいとうなだれる、ただの十代の女の子。
 彼女の強さは確かだ。ギンガ団やコンゴウ団、シンジュ団、大人たちが何度くり返しても成し遂げられずにいたことを、彼女はわずかな時間でその手中におさめてきた。やりたいか、やりたくないかにかかわらず、彼女は自らの居場所を作るために、そうするしかなかった。彼女の血の滲むような苦労と努力の上に、コトブキムラの、ヒスイの発展が成り立っている。英雄と言って然るべきかもしれない。けれど……。
 考えることが溢れるばかりで、いっこうに収拾がつかない。思考の海に沈みかけて、はたとウォロさんを見上げると、彼は淡墨の中、昏い灰色の瞳でわたしを射貫いていた。
「……ウォロさん?」
 彼は静かに息を吐き出してわたしの目を覗き込んだ。
「なにか、思い出しましたか?」
 いえ、とかぶりを振る。
「わかりません。でも、どことなく、そう感じました。きっと、元のわたしのかんが……っ」
 勢いよく肩を掴まれた。あまりの強さに慄き彼を見たが、その顔になにひとつの感情が残されていないことに気づいて、拒む力を失った。
「ウォロさん……」
「なにもかも、思い出さなくて構いません。そんな必要はないんです。あんなにも辛いことを、アナタに二度も背負わせるなど……」
 ――このひとは、なにを知っているのだろう?
「……やさしいんですね」
 声をしぼりだし、落ちた髪をそっとなぞる。やわらかな髪。どこか子どものような細くなめらかな絹糸。彼は伏せた瞳をさらに細める。それは苦悶にも、うろんにも見えたかもしれない。
「白い世界に、ひとつの背中が見えるんです」
 いつだったか、ぼんやりとまぶたの裏に浮かび上がるようになった景色。背の高い彼の帽子を手にとって、そうして細くすべらかな髪の上から頭蓋を手のひらで撫でる。
「寒くて、冷たくて、今にも凍りついてしまいそうで、その中を、わたしはひたすらその背を追いかけて進むんです。大きくて、広い背中。その背は、ウォロさんだったのかしら、そうだったら、いいとおもいます。この世界でひとりきり、そんなとき、そのひとはきっとわたしを助けてくれたから」
 それほどまで辛い荷を背負っていたのか? 記憶を削ぎ落とさなければならぬほど、苦痛に苛まれるようなことばかりだったのか?
 ――知らなくちゃ。これは、わたしの使命だ。
「……すべてを知ったとして、アナタはそれを受け容れることができますか」
 わからない。かぶりを振れば、ウォロさんは頭を撫でるわたしの手を捕らえた。指先に掴んでいたはずの帽子がすり抜けて、音もなく板の間に落ちる。そちらの腕までをも長い指で絡めとられ、ついには身動きがとれなくなった。
 温度も湿度もない瞳に見下ろされ、襲いかかるのは呼吸をも掬われるような威圧感。その瞳は、たいてい安堵を与えてくれていた。今も、そうだったはずだ。だが、それとは別に、畏怖の念が湧き上がってきた。
「ジブンには、到底そうは思えません。知らないほうが、幸せなコトがある。そうではありませんか? 少なくとも、ジブンはそう思いますよ。アナタはアナタ。それは昔も今も変わらない。ジブンはアナタを知っている。そして、アナタを知るのはジブンだけ。それ以上、必要なことは……」
 そこまで言い募り、ウォロさんは、「いえ、なにを言っているんでしょうね」とわたしの腕を離した。
「少々感情的になりすぎたようです。申し訳ないことをしました」
 大丈夫ですか? 掴んだ腕を今度は手のひらでそっと支えるようにして持ち上げ、痕がないかを確認する。先ほどまで露わになっていた瞳の色を今度は探らせてもくれなかった。
「……大丈夫です、わたしは、なにも問題ありません」
「そうですか、それならよかった。ジブンも、どうやら気持ちが昂ぶっているようですね。ナナセさんのことを、とやかく言える立場ではありませんでした」
 確認を終えてから、彼は帽子を拾い上げる。頭に載せ、ぐっと額まで下げた仕草をただわたしは見つめていた。彼はそれから、「では、ジブンはこれでおいとまするとします」とにこやかに告げて長屋から立ち去った。

 ついに、キング・クレベースを鎮めるためにギンガ団の一群が純白の凍土へ旅立った。ムラはおそろしいほど静まりかえり、頭上にのしかかる時の進みは常のものより遥かに重々しく感じた。
 大丈夫だろうと楽観視している人々も多い。今や少女はただの迷い人ではなく、ヒスイの救世主だ。彼女ならば成し遂げられると信じる心が、ムラのそこかしこから感じられた。
 だとすれば、この静寂はなんなのか。
「辛気臭い顔しおって」
 おまもり石に祈りを捧げていると、背後から声をかけてきたのはタオファさんだった。ふり返ると、いつもの険しい顔つきで彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「どうにも、落ち着かないもので」
「あやつらがいないムラは、すっかり人が少なくなるからの」
 訓練場から聞こえてくる声も、常の半分にも満たない。本部も人の出入りが少なく、どこか張り詰めた空気が朝から続いていた。
「どうかこれが、嵐の前の静けさにならなければよいのですが」
 平和を願う気持ちは皆同じだ。彼らが無事、生還することをだれもが希っている。わたしがここへ訪れる前にも、一組の母子が祈りを捧げにやってきていた。シンオウさまに捧げる祈りなのか、それとも別の神か、はたまた仏か。たとえ特別な信仰心を持っていると認識していなくとも、困窮の際に神仏へ手を合わせたくなるのは、人間の性なのか。
 祈っても仕方がないとはいえ、じっとしていることもままならない。わたしはこの平穏な場所で彼らの帰りを待ち侘びる。ただ、ひたすら、彼らが危険に晒されているあいだも……。おそらく、タオファさんも同じ気持ちだったのではないだろうか。
「あの娘っこなら大丈夫だろうよ」
 と、タオファさんは言う。
「それに、ワシらの作った懐炉灰が、いまごろ八面六臂の活躍をしているころじゃからの」
 ふんと得意げな顔をしながらも、おまもり石を前に懐から竹筒を取り出し慇懃な仕草で水を捧げた。
こぽこぽとお猪口が満たされ、わたしはまた手を合わせる。ただ、重苦しさをぬぐうことはかなわない。

 窓際のめざめいしが煌めいて、木綿布を裂いては小さく端を縫う作業をしていたわたしは手を止めて立ち上がった。
「この石……」
 いつだったか、ショウちゃんが調査の終わりにくれたものだ。この地で採れる緑青色の鉱物よりも、もっと透きとおっていてどこか天空の燦きを載せたような不可思議な色合い。
 ここ数日、本部へ届く報せはおおよそ悪いものではないようだった。けれど、こんなにも存在を感じさせるこの翡翠色の鉱石が漠然と胸を騒めかせる。
 共に並べた小瓶と、群青の組紐と、そしてめざめいし。それぞれを、その存在や色形をたしかめるように指先でなぞる。指先にちりりと震えが走り、胸の奥がわずかに軋んだ。気が滅入る心地がして目を瞑れば、今度は耳が塞がり世界に閉じ込められる気がした。
 ――いつだってそそっかしいな、おめえは。
 苦しい。……くるしい。むせ返る熱を堪え、窓際に上体をあずけるようにして力なくその場へくずおれる。
「ごめんなさい、セキさま……」
 わたしは、あなたのそばにいてはならないのです。そうよ、ナナセ、おまえはあの男のそばにいてはいけない。彼はコンゴウ団を背負う男であり、ヒスイの未来を見据え皆を先導する者。わたしは――……。
「わたしは、だれ――?」
 めざめいしを障子越しに射し込む光にかざして、額を預ける。
 知りたいと思うのは、罪だろうか。忘れていたほうが、幸せだというのか。
 ――時がくる。
 本当に? その時は、果たして確実に来るのだろうか。

 ――チシキヲトウ――
 ――ココニイテハナラヌ――

 あの声は、いったいだれなのだろう。あの眼は……。純白の大地を、誰かの背を追いかけていく……。あれは……。
 こめかみの奥がちりついたその時、長屋の引き戸が思い切り開かれる音がした。
「ナナセねえちゃん! 調査隊、帰ってきたよ!」
 わたしは急いで立ち上がり、針の残った木綿布をそのままに下駄を引っ掛けて外へ飛び出した。

 被害は最小限だったと言えよう。満身創痍の状態ではあったが、調査隊および警備隊はひとりも欠けることなくムラへと帰還した。本部前は彼らを迎える村人でいっぱいになり、ラベン博士とテルくんに寄り添われ、英雄である少女は頬を赤くしながら疲れの滲んだ顔ではにかんでいた。
 彼らの凱旋を祝してそれからはとにかく引っぱりだこで、長旅を終えたキネさんたちをひとまず宿舎へ帰し、残っていた人員で隊員たちの看護にあたった。凍瘡はもちろん、凍傷を負った人も複数いたようだが、それでも軽度の症状で済んだのは本当に幸いだった。
 人数が多いために訓練場を簡易診療所とし、横たわる警備隊員たちに温めた手ぬぐいを渡しては、次々と熱いお茶や塩むすびを用意していく。現地では主に拠点の警備と周辺の調査にあたっていた彼らだが、それだけでもやはり重労働には変わりがない。加えて慣れない豪雪地帯ともあり寒さと雪とで余計に体力の消耗が激しかったようで、一度座り込んだが最後、動けないという人まで出てくるほどだった。
 一、二日という短期集中型の任務に比べれば体力は温存しやすくとも、何日も滞在し続ければ確実に身はすり減る。ありたけの防寒具とお茶と漢方とで、できるだけ暖をとり、また栄養をつけてもらい、とにかく休んでもらうことが必要だった。
 そうして過ごしているうちに、気がつけばすっかり日が暮れていた。帰還の報せが舞い込んだころには太陽が真上にあったというのに、訓練場から本部へ戻るころにはガス灯が皓々と瞬いていた。
 肝心のショウちゃんには会うことができず、ラベン博士に会いたがっていましたよと言われたものの、宿舎まで向かうのは気が引けてそのまま医務室で寝ずの番となった。
 当然ながら祭りのあとの静寂のように、本部に人影はほとんどなかった。各々が調査の余韻に浸り、そうして引きずられるようにして睡夢に浸かっている刻限だった。それだから、医務室に残らず帰っても構わなかったのに、それでもなにかあっては困るからと医学書を読みながら夜を過ごしていた。
 言うなれば、この日はまさに怒涛の一日。感じていた静けさはあっという間に喧騒にとって代えられ、寝静まった今でも、ムラはどことなくその騒めきを残しているような気さえした。数日間の重苦しさがようやく肩から下りた心地でもあった。
 歴史が動く日というのは、こうなのだろう。夢と現のあいだに過ぎ去っていく。明日から果たしてヒスイはどうなるのか。
とにかく、ショウちゃんが無事でよかった。クレベースのもとへ向かうまでに苦労したようだが、それでも諦めずに荒ぶるキングを鎮めることに成功した。
 これでヒスイには平穏が戻る――そう思われた。
「空が、大変なことに……!」
 翌朝、早番の隊員を待っていたときのことだ。夜明けとともに東の空がシノノメ色に染まり始めたころ、いつもは泰然自若としたスグルさんが相棒のアゲまるを連れて本部へ飛び込んできた。その騒ぎを聞きつけたシマボシさんはすぐに彼に命令を下し、隊長であるペリーラさんたちを呼ぶように伝えた。
 デンボク団長らが急遽会合を始める中、わたしは医務室の窓から空を見上げていた。高く青く続くはずの空は、まるで赤黒く染めたあげた絽紗を広げたように物々しくヒスイを包み込んでいた。新たな時代の黎明となるはずの朝焼けが、こんなにもおどろおどろしい色彩に覆われてしまうなんて。
「どうやら、テンガン山の頂から広がったらしい」
「ということは、例の裂け目から?」
「ああ、おそらくは」
 指示を待つ団員たちから声が上がり、それらは医務室の中まですべり込んで来る。朝の透きとおった空気のあわいを、まるで毒を以て冒していくかのように。目に見えぬ刃となり、肌がひりひりと炙られる心地になった。
「いったい、なにが起こっているのでしょうか」
「さあねえ。シンオウさまがお怒りになったのやもしれん」
「もしかして、クレベースを鎮めたことを? キングやクイーンの荒ぶりはシンオウさまの啓示でもあったのでは」
「われわれには、わからぬことじゃ……。裂け目がおのずと広がりを見せたのか、それとも、広げられたのか」
「やはり、あの迷い人は……」
 重苦しさに堪えかねて窓を開け放った。硝子越しに見上げていた空よりも、はるかに現実はおどろおどろしい色と空気とを醸し出していた。まさにヒスイじゅうを覆い、迫りくる……。じっと空の色を見ていると、目の奥がぐるりと匙で掻き乱される心地になった。
「……あの日も、たしか、こんなふうにそらが、あかく――」
 ――あの日? 刹那、目の奥から頭頂部にかけて貫くような鋭い痛みが走った。
「……ナナセさん!?」
 立っていることもままならず、その場に崩れ落ちた。どうにか支えを探して壁へ身を預けたが、はげしい力に押され顔をあげることすらできなかった。ジンジンとこめかみが脈打ち、眼底の裏側や、前頭部の内側が、ザクザクとなにかで突き刺されるような、烈しい痛み。いったいなにが起きているのか、考えることもままならず、目の前が音もなく滲み、やがて荒く短く呼吸をくり返しながら闇に呑み込まれていった。

 目が覚めたときに世界が一変していたというのは、物語ではよく聞く話だ。果たしてそれがどの物語であるか、いつの話であるかはわからないが、事実は小説より奇なりという言葉が生まれるにはそれなりの根拠がある。すべてが夢のまま終焉を迎えられたらよかったものの、それほど現実は易しくはない。医務室の寝台の上で目覚めたわたしを迎え受けたのは、息苦しいほどの静けさだった。
 しばらく天井の白熱電球の明かりを眺めていたものの、衝立の向こうからキネさんの声が聞こえてきて、はたと意識を取り戻した。
「ああ、ナナセ、気がついたのね」
 思い通りに動かない体に鞭打ってどうにか顔を出すと、晴れない表情を浮かべたまま彼女は目許に微笑を湛えた。
「キネさん、空は、なにが、起きて」
「落ち着いて、ナナセ。いま調査隊のショウさんが、ムラを出て原因を確かめに行ってくれているわ」
「ショウ、ちゃんが」
 だから心配する必要はないわ、そう言ってわたしを寝台へ押し戻そうとした。
「朝方まであなたには働いてもらったのだから、今度は休む番よ。このところ、長らく働き詰めだったとトヨさんにうかがったもの。急に倒れるだなんて、よっぽど……」
 まるで諭すような彼女の言葉のさなか、聞こえてきたのは、「迷い人は禍いだった」という声だった。
「どうりで異能を操るわけだ。ポケモンたちを従えて今度はおれたちを襲うつもりだ」
「そうしたらムラは……。おれやデンボクさんは故郷を奪われたっていうのに、今度はどこへ行きゃいいんだ」
 キネさんはわたしの肩を掴み、力強くかぶりを振った。
「彼女は、ショウちゃんは……」
「団長の命により、ムラへの出入りが禁止になったわ。いい、ナナセ、これは、絶対よ」
「つまり、追い出したのですか。あの子を?」
 仕方がなかったのよ、彼女は続けてわたしを寝台へ座らせる。
「このままでは、ムラに厄災が訪れる可能性がある。デンボク団長には……、私たちには、責任があるのよ」
 そんなこと、わたしは喘ぐように空気を取り込んで――しかしそれは塊となって胸を傷めつけるばかりだった。それでも息を吐きだして、わたしは拳を握りしめるとキネさんの手を強く振り払っていた。
「ナナセ!」
 行かなくちゃ。
 行かなくてはならない、ショウちゃんのもとに。

 平衡感覚を失ったまま駆け出したわたしは、脚をもつれさせながら宿舎へ戻り荷をまとめた。もとから持つべきものなどないようなものだ。たったひとつの風呂敷に、両掌におさまるほどの量にしかならなかった。隣の家の少年が、「ナナセねえちゃんどうかしたのか」と顔を出したが、「おっかさんたちの言うことをよく聞くのよ」とその頭を撫でて長屋を飛び出した。
 表門のデンスケさんのもとへ駆け込めば、すでに彼女がムラを出てしばらく経っているという。もう間に合わないかもしれない。けれど、そんなこと、どうだっていい。
「シマボシ隊長!」
 黒曜の原野まで出ていたという彼女が戻ってきた。デンスケさんの制止も振り払い駆け寄ると、彼女は小さくうなずき調査隊のポーチを差し出してきた。
「凍土にて、彼女が見つけたそうだ」
 震える手でそれを開くと、中にはキズぐすりと巻き木綿、それから二寸ほどの一枚のパネル――ちがう、これは「カード」だ。
 彼女はそれがなにかを問いただすこともなく、ただ常の威厳ある調子で続けた。
「健闘を祈る。君は調査隊ではないが、上に立つものとしての命令は彼女に託した。知りたくば、彼女を見つけ出すことだな」
 そこに映し出されるひとりの女の顔を見つめ、次いでシマボシさんを見上げるとわたしは深くうなずいた。
 原野までの道のりは決して容易いものではない。薬草摘みに一歩ムラの外へ出ただけの世界とはまるきり違うのだ。そこをひとりでまっすぐ歩いたことなど一度もない。……ああ、一度きり、原野からムラまで駆け抜けたことはあるけれど、なにひとつそのときの感覚を憶えてはいなかった。草履がいくら泥まみれになろうと、ムックルが樹々から飛び立ち、原っぱから出てきたビッパが前を横切ろうと、ひたすら足を前へ前へと進めていく。
「ナナセさん!?」
「どうしてアナタがこんなところに」
 テルくんと、ラベン博士――「ナナセ?」そして、彼が。
「おめえ、なにしてやがる」
 その問いには答えなかった。ただわたしは彼らに向かって、「ショウちゃんは、どちらへ」とうわ言のように口にしていた。
「……先ほど、三十分ほど前に送り出したところです。おそらく巨木の戦場か、あるいはコンゴウ団のヨネさんという方のもとへ向かっているはずですが」
 はっきりとした居場所は……と尻すぼみになった言葉にありがとうございますと頭をさげ、彼らの前を駆け抜けていこうとする。
「どこへ行くんだ、オイ」
 わたしの前に、立ちはだかったのはセキさまだった。群青の羽織が赤く禍々しい光を浴びて、真紫に色を変えつつあった。逸らすこともできず、まっすぐ彼を見上げると、わたしは腰につけた調査隊のポーチを後ろ手にたしかめ、そして、きつく拳を握りしめた。
「ごめんなさい」
「謝られたってわからねえ。今から、おめえはなにをしにいく? こんな時に、こんな場所で、ひとりで」
「……行かなくちゃ、ならないんです」
 その声は常のものより遥かに低く鋭いものだった。咎める音色を含み、表情すら凄みを帯びていた。くり返し謝り、横をすり抜けようとするわたしの腕を彼は掴み、「死にてえのか」と彼は唸った。
「ここはヒスイの大地だ。アンタひとりで、なにができる」
 そうだ、わたしひとりになにができる? なにをする必要がある? おまえはなにも持っていないじゃないか。脳裡に響くのは酷い声だ。不協和音のようにいくつも鳴り響いてはこめかみを傷めつける。
「それでも、行かなくちゃいけないんです」
 知りたいから、この先にきっと求めるものがあるから。きつく掴まれた腕を、彼の指を丁寧に一本一本ほどくようにして引き抜くと、わたしは彼のはしばみ色の瞳を見つめた。
「わたしは行かなくちゃ。ショウちゃんのもとに、行かなくちゃいけないんです」
 ごめんなさい、最後にもう一度謝り、こぼれそうになる涙を堪えた。
 彼のまなざしは鋭かった。
「……あなたに、黙っていたことが山ほどありました。わたしはカントーから来た商人の娘でもないし、ふた親を一度に亡くし、天涯孤独になった身寄りのない女でもない」
 それが確かだと決まったわけではない。けれど、きっとそうなのだ。だって、ショウちゃんが見つけてくれたから。
「わたしにはなにもなかった。思い出す過去が、だれもが大切にしまっているはずの過去が……。ここに生きていたという証が、なにも」
「……なぜ、黙ってた」
 わたしはただかぶりを振った。
 だが、彼は苦虫を噛み潰した顔でわたしの肩を掴んだ。
「オレは頼りねえ存在か、おめえにとってそれっぽっちの存在か!?」
「けっして、そういうわけじゃ」
「それなら、なぜ、オレに背負わせない! 重てぇだろう、苦しいだろう、人ひとりの人生背負えねぇで、なにが男だ!」
 背負ってほしいわけではなかった。隣で、笑いたかった、肩を並べてムラを歩きたかった。堂々とあなたと同じあすを見つめたかった。
 その想いは言葉にならず、ただわたしはいま一度かぶりを振って、彼の手をほどいた。テルくんとラベン博士に深く頭をさげ、そして、彼に向き直る。
「何者でもないわたしをそばに置いてくださり、ありがとうございました。親切にしてくださり、優しさを分けてくださり……。ほんのひとときでもその腕に抱いてくださり、ありがとうございました」
「オイ、話を……」
 最後くらいは、と頬に笑みを浮かべるが、どうにもぎこちなくなってしまった。それでも精一杯の感謝をそこに載せて、わたしはセキさまに告げる。
「――お慕い申しておりました。だれよりも、だれよりも、深く……」
 歩き出したわたしを、止める人はだれもいなかった。

 これでいいのだ。いつかきっと、彼の隣にすてきな女性が並び、愛情に満ちた時をその手に掴むことができる。どうか彼に幸多からんことを。今はそれを願い、ヒスイの大地を踏み締める。この先になにが待ち受けるのか、だれひとりとして知るよしもない。それでも、わたしは行かなくては。ヒスイのために勇敢にも戦った少女を追って。
 ひとつふたつと小石を数えていたのがいつのまにか駆け足になり、大志坂を越えたころには彼らから逃げるように走り出していた。ただひたすら原野を駆け抜けては、禍々しい空を見上げて何度も生唾を飲み下した。
いつしか脚がもつれ、そのまま前に倒れ込んだわたしを大地は受けとめ、その背を押した。まるで自分が自分ではないみたいに、ほかの何者かが身体に乗り移ったみたいに、ひたすら前を向いて進み続けた。
 橋を渡りコロボーシやイシツブテが徘徊する道の先だ。そこに、小さな影が見えた。濃藍の隊服に真っ赤な襟巻き。木立の陰にその子は膝を抱えて座り込んでいた。
 ああ急がなくては、と思うが急に脚に力が入らなくなりその場に立ち尽くした。
 早く――早く、ショウちゃんのもとに行かなくては。わたしは、わたしを、見つけなくては。キィンと小さな銀の鈴の音が聴こえて、わたしはふり向いた。ふよふよと真紫の光の中に現れたのは、緑と白のポケモンだった。人の子と見まがうかたちをし、顔を覆う緑の皮膚がまるでふたつ結いをしたうら若き乙女に見える。純白の美しい羽衣を揺らし、そっとその子はわたしのそばに降り立つ。
「あなた、もしかして」
 その子は応えるように顔をほころばせてうなずいた。両の手を広げると、空中を漂う手箱状の四角いかばんが現れた。
「これを、持ってきてくれたの?」
 今度はその場で回ってみせる。くるりくるりと舞う姿は異国の踊り子のようで、花の笑みを浮かべるその子にしぜんとまなじりがゆるんだ。
「重かったでしょう、これ。いろいろな薬や、器具が入っているのよ」
 往診に付き添うとき、調査にでるとき、使用する道具類を詰めて運ぶためのもの。なめし革で、いくらか使い込まれたそれは、医療隊で過ごすことになってからすぐに支給されたものだった。側面にはナナセと刻印が施されている。しかしだれがこんなものを。宙に浮かんだそれを捕まえると、持ち手部分に文が結いつけてあるのを見つけた。
 ――必要なものを入れてあります。記名もなく、短い一言だが、その筆跡でだれだかはすぐわかった。それを抱きしめると、行こうかとその子――キルリアに声をかけた。
 知らないのに知っている。わたしは、たしかにこの子を知っている。ラルトスから、美しく成長したポケモン。その子はわたしに応えると、くるりと最後に白い羽衣を揺らしてうしろへ回った。
「なあに」
 キィルッと腕で示されたのは腰のポーチだった。なにかきのみでもほしいのか、片手でかぶせを開くと、その子はなにかを念じ始めた。その瞬間淡い紫色の光がそのからだを覆い、ポーチから風呂敷でまとめた荷をとりだした。
 中には大したものは入っていない、小瓶と、組紐と――そうだ、めざめいし。
 慌てて中から翡翠に似たその石をとりだすと、キルリアは一度微笑んでから手を伸ばした。目映い光が辺りに散って、中からは立派に成長したエルレイドが現れた。
 ポケモンの、進化――。
「こんなふうに、進化、するんだ」
 ほんとうに、これは夢ではなかったのだ。今まさに目の前に起きていることは、現実にほかならない。半ば無意識のうちに考えていた。そうだ、これはフィクションではない。
 わたしの背丈よりも大きくなった彼を見上げると、誇らしげにうなずいて歩き出した。
「……ありがとう、行かなくちゃね」
 ショウちゃんはあそこにいる。木の影に、大きく広がる闇のただ中に、たったひとり。ポケモンも出さず、膝を抱え額を必死に押しつけている。
 一歩、また一歩と大地を踏みしめる。そのたびに心臓が唸りを上げ立ち止まってしまいそうになる。それでもようやく指先に血が通い始めていた。次第に歩みが早まり、駆け足になっていく。
 はやく、早くショウちゃんのもとに。はっはっとあがる吐息も、跳ねた小石や泥も厭わず、わたしは進んでいく。
「エルレイド」
 共に肩を並べながら遙かな大地を。

「――ショウちゃん!」
 大きく喉を掻きならして。その子は顔をあげた。その額は長く押しつけたあまり、はっきりと赤らんでいた。瞳は翳り、爛々と瞬いていた光は隠れてしまっている。それでも、完全に消えてしまったわけではない。
 彼女を覆う闇に躊躇なく踏み込み、わたしはその小さな背を包み込む。
「わたしも、一緒に行く」
 腕の中で彼女は困った顔をした。いつものあの立派なハの字眉だ。それからくしゃくしゃにそれを崩して、ショウちゃんは小さな子どものように泣き出した。