不運っていうのは、そこらじゅうにあるものだ。
例えばそう――
「道端に落ちてるアレのようにな」
春爛漫、満開に花弁を広げたソメイヨシノのにおいが江戸じゅうにあふれ始めたのも記憶に新しい。町には大輪をつけた八重桜が開花しはじめて、いよいよ春が成熟を迎えようとしている。
草花が芽吹き、土の中で眠っていた虫たちも地上に這い出て青空をのぞむ。
甘い風の吹く、そんなうららかな佳き今日このごろ。
水浸しになったわたしの横で沖田さんがペロペロキャンディーを咥えている。
身体の底から冷えるような冬も終わり、心華やぐ季節だ。
冬から初春にかけての騒動では長いこと心労を募らせたものの、喉元過ぎれば熱さ忘れるとはうまく言ったもので、まだ完全な「元どおり」とまではいかないけれど、それなりに平和で充実した日々が戻ってきていた。
真選組でもいよいよ新たな隊士を迎え、組一丸となって邁進しようとからりとした空気が屯所を包んでいる。
今日は久々のシフト休み。買い物がてら花見でもしようと「ねこ屋」に寄ったのが運の尽きだった。
四月限定、さくら餡と生クリームの入った「花見大福」を手に入れたところまではいい。
ねこ屋と言えば限定桜餅も有名だ。上方で生まれたお店だからか、もち米を使用した道明寺と呼ばれるもので、もっちりとした生地で巻いて作る江戸発祥版もいいがどちらも捨てがたい。
職場でいただいたそのときは、運悪く沖田さんに奪われてしまったから、今回の花見大福だけはと、なんとしても味わいたい一心で勇み足で家を出てきた。
大福といえば、こしあんたっぷりのノーマルタイプに大きな豆をたっぷり使用した豆大福。つぶあんも捨てがたいし、うぐいすあんもなかなか。最近では、その大福の中に生クリームが入ったものなどが各地で売られるようにもなったが、「ねこ屋」でも出たのである。
あの店の大福はすごいぞと女中仲間から聞いてウキウキしていた。限定だから午前中になくなるのよ、なんて。
その大福を買って川べりで花見をするのが江戸っ子ってモンよ、と、コンビニに電気代の支払いをしに向かった先でも長谷川さんから教えてもらって、今日という日を待ち侘びていた。
認める。認めるわ、浮かれてたってこと。
生クリーム入りのどら焼きだってみんな大好きだもの。塩豆大福に生クリームが入っちゃったときには世界が衝撃と感動でざわついた。
あの五◯悟だって、うぐいす餡にクリームの入ったやつをわざわざ買うくらいだ。こちらの銀髪だってこの存在には黙ってはいないだろう。
和菓子に生クリームだぁ? ンなモン、外道だろうが、男は黙ってつぶあん食っとけ、とかなんとか言いそうだが、ドクターストップがあるために泣く泣く我慢しているだけにちがいない。ゴーサインが出たらきっと万事屋のふたりには内緒で甘味屋へ立ち寄る。
そう、これはもう和菓子界の革命である。
求肥でなく、餅をふんだんに使った生地と、塩漬けの桜を用いたホッとするよつな味わいのさくら餡と。生クリームはしつこくならないように素材のよさを生かして。まあるいフォルムにちょこんと載った桜の塩漬けがもはや芸術的にうつくしい。
――と、風のうわさで聞いていたので、こうなったらぜったいに足を運ばねば! と、ねこ屋に向かったわけだ。
思えばその道中にも不幸の種はそこらじゅうにあった。
跳んできたボールをとっさに避け、十円を拾うついでに大工の持つ木材への激突を回避。水たまりにはまりそうになったが間一髪風が吹いて華麗にスルー、挙句は駆け込んでくる人力車に跳ねられかけたところをちゃっかり生還。
ねこ屋で限定大福を手に入れたときには、勝利の拳を突き上げる予定だった。
それが、ねこ屋から一歩出たところでこうである。
「沖田さん……」
「よかったじゃねえですかィ。地面に落ちたアレは踏まずに済みやしたぜ」
視線をちらりと動かせば、突如としたモザイク。久々の更新かつ開始早々なんて絵面を想像させるんだと苦情が届きかねないけれど、江戸ではまあよくある風景だ。
花見大福を持っていざ花見! とルンルン気分で店から出た瞬間、ビッシャァァアとかかってきた水で、それを踏んでしまうことは間一髪、回避できたのである。
「あれ、でもこれってアレですかねィ。むしろコイツを踏まなかったことで、運にも逃げられたってヤツですかねィ。仕方ねェでさァ、その花見大福、俺がいただいていきやす」
「もしかして、虎視眈々とチャンスをうかがって、あとをつけてました?」
「だれが? だれがを?」
一時期ネットで流行したアイドルの顔が思い浮かんだがすぐさま打ち消して沖田さんのきゅるんとした目をじっとり見つめ返す。
ニヤニヤ笑いもせず、淡々と。せめてペロペロキャンディーをペロペロするのをやめほしいと言いたいところだけど、濡れ鼠となったわたしにそんなことを言うライフは残っていなかった。
「この大福はぜったい、ぜーったいにあげませんからね」
「あーあ、いけずだなあ。職場のかわいい年下のイケメンを放っておいて、東雲の姉さんはそんなことを言うんでィ? 国宝級ですぜ、国宝級。千年に一度どころが、こちとら二千年超えの歴史でさァ。それとも姉さんはなんですかィ、流星派ってんですかィ? 渋◯栄一より、蔦屋◯三郎って? あーあ、俺ァもう傷つきやした」
「わかりました、わかりましたから!」
やってられないなーもう今日の仕事やめちゃおっかなーと職権をちらつかせて脅してくる国宝級イケメンに白旗を揚げる。
「今日だけですからね」
「いやぁ、姉さんは話がわかりやすねィ。実写版ネタをここまで引っ張ってきたかいがありやした」
さよなら花見大福、その一。年下とイケメンであることには変わらないけれども、上司からカツアゲを受け泣く泣く権力に屈する。
こういうときのために、二個買っといてよかったと心底おもう。家に帰って、熱い緑茶を飲みながらというチャンスが潰えた代わりに、「混沌☆喫茶」のティッシュと物々交換をした。
「まいどあり。やっぱ持つべきものはものわかりのいい後輩だなァ。姉さんがねこ屋に向かうところを見張っててよかった」
「ちゃんと被疑者追跡をしてたんじゃないですか」
「当たり前でィ。なんのために土方コノヤローをだまらせて、パトカーパクってきたと思ってんでさァ」
もはやいつもの調子なので驚きもしない。だまらせたのが物理的にか比喩かは判断がつきかねるが、とりあえず店先からおいとまする。
「すみません、大丈夫でしたか?」
アレを踏まないように往来の端に避けたところで声をかけてきたのは、若い女性だった。
「店先に水の入ったバケツが置いてあったから、捨てようと思ったら手がすべってしまって」
年のころは神楽ちゃんよりもすこし上だろうか。クリーム色の古典柄の着物が華やかでかわいい。
雲どりの文様の中に描かれた牡丹や宝づくし。髪はしゃんと緋色の鹿子絞りをかけ髷を結っている。銀の蝶や若葉をかたどった翡翠の簪と、花鳥の蒔絵を施した漆塗りの飾り櫛がなんともまぶしい。
「大丈夫ですよ、大福も無事ですし」
「男前ですねィ、姉さん」
と横から野次を入れる声がするが放っておく。アルバイトが配ってるようなポケットティッシュではせいぜい濡れた顔を拭くくらいしかできないが、首を拭いていると女の子の顔がぽうっと赤くなってるのがわかった。
「……あの?」
「あっ、いけない、私ったら。この手ぬぐい、よかったら使ってください。新しくうちの店で出したものなんです」
クリーム地の袖口にいくつか飛び散った水で斑点ができていた。それにも気づいていないのか、あそこの小間物屋ですと緋色の鹿子を躍らせてあたふた慌てる姿が愛らしくつい微笑む。
ありがとう、と手ぬぐいを受けとると、その子は大きく腰を折って、それから特徴的な花菱紋と「千歳屋」と書かれたのれんの大店まで走って行ってしまった。
「姉さんも罪づくりですねィ」
「なにをおっしゃるんだか、沖田さんに見惚れていらっしゃったんですよ。ほら国宝と言っても過言ではありませんし?」
「不思議でさァ、他人から言われるとイラッとくる。ところで姉さん、いつからそっちを目指すことにしたんで?」
「え?」
手のひらほどの大福をぺろり。情緒もなく咀しゃくしたと思えば、沖田さんの紅い瞳が胸許に落ちた。
「は?」
晴天だからと選んだ紺青地の着物。お登勢さんからいただいた一着で、秋冬には冴え冴えしすぎていたから、ようやく日の目を見たのだ。花鳥や風景を描いた小紋で、大輪の牡丹をあしらった真紅の帯を巻いて、肌寒いから桜色の薄い羽織を合わせていた。
桜が満開のときはあえて桜の柄の着物を着ないという粋なアドバイスをお登勢さんから聞いて、なかなか江戸の町娘も板についてきたと思っていたのだけれど。
「え、なんで?」
ぴっちり合わせていた着物の胸許から、肌色がのぞいている。
「いやあ姉さん、ワイルドだぜぇ?」
パチンッとフィンガースナップを決めて。慌てて肩から先を確認するわたしをよそに、沖田さんはくるりときびすを返す。
「さて、無事今日の仕事も終えたことだ、さっさと帰ぇるかな」
「待っっっってください、沖田さん!」
たわわな胸がぽろん、なんて、ラッキースケベのほうがどれだけかわいかっただろう。たわわじゃねェとか、ぽろんとするほどねェだろとか、だれかさんが言いそうな文句は受けつけないとして。
はらりと肌蹴た着物のあいだからまみえるのは、ほどよく鍛えられた男性の胸板だった。
――そう、男性の。
「なんでィ、姉さん。俺ァ一般市民を守るために忙しいんで」
「さっき、仕事終わったっておっしゃってましたよね?」
「ヤダナァ、そんなの。俺たちの仕事は一分一秒を争うじゃないですかィ。一分まえに終わった時間が一秒後にはまた新たな事件になってかえってくるなんてザラだ。あ、あそこに桂――みたいな格好をしたジジイがいやがるな」
「あちらはただの托鉢の修行僧ですから! 布施を受けてお礼をしないちゃんとした本物の修行僧ですから!」
格好いいことを言ったような言ってないような、そのまま去ろうとする沖田さんの腕に、わあわあとすがりつく。
「お願いします、なんでもしますから!」
「なんでも?」
「ええ、なんでも!」
次の季節の和菓子、ねこ屋特製柏餅でも、陽英瑠・恵流愛の幻の江戸限定魔華倫でも。たとえ火の中水の中、開店まえから並んで華麗にゲットしてみせる。
ね、ね、と真選組隊士の腕にまとわりつく女物の着物をまとったそこそこがたいのいい青年。その構図がどう見えるかはさておき。
「仕方ねェ、ひと肌脱いでやるか」
「お、沖田さん……!」
「その代わり、わかってるよな?」
ニヤリ、の沖田さんと、ごくり、のわたし。
「よし、東雲。今日からお前は俺の下僕だ」
悪戯っぽいなどという可愛らしい顔ではなかった。言うなれば、背すじにぴりぴりっと電流が走るような。ジュラシックパーク1で、厨房でデザートをほおばるティムとレックスの前で、真緑のライムゼリーが振動するような。
いやな汗、ダラダラである。
しかしそんなわたしの戦慄などなんのその。
ついでに漆黒の腕が伸びてきたと思えば、懐に避難させていた大福の生き残りを掴んで、ぺろり。
「これは前金な」と、丁寧にくるまれていた包みを容赦なく剥ぎ取って、大きく開いた口にひと息。
「あ゛ーーーーーッ!」
そう叫ぶ自分の声は、いつもよりも野太かった。

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