第四幕 第十四話

「いよっしゃああああ! 本日限定、豆大福、おかわり権ゲットォオオオオオ」
 そんな歓声を背中に、洗濯物を抱えて廊下を渡る。天気がよかったから、干していたシーツがもう乾いたのだ。そんな日は二巡目も急いで干してしまわなくては。
 第二次真選組おかわり大乱闘ス○ッシュブラザーズが起きているだろう食堂を想像しながら籠をぎゅっと抱える。
 大乱闘がついたらスマッ○ュブラザーズだと、その長いおかわり対決の名称を正式に定めたのはだれだったか。思い当たる顔がたくさん思い浮かぶのだから、うっかり笑みがこぼれてしまう。
 物干し竿のある裏庭にたどりつき、縁の下にしまっていた草履を足に引っ掛ける。縁に籠を置いて、腰を痛めないようできるだけ省エネに努めながら、シーツを広げて、叩いてシワを伸ばして。それを何回か繰り返す。
 太陽は真上にあり、立派な武家屋敷の屋根瓦を照らしている。
 小さく生えた雑草をいくらか抜けば、土筆が大きく育っていた。蓬も青々と茂っている。
 女中ぶんは、生えているかしらと蓬の葉を詰んで、前掛けに集める。
 さわやかな命の息吹。以前、松平さんがたくさんお土産に持って帰ってきてくれた蓬は天ぷらにしたから、これはぜひとも草餅にしようと縁に戻る。
 夕食の下ごしらえが終わった後、厨房を借りて先ほど積んだばかりの蓬を煮る。さわやかな青い匂いが立ち込めて、湯気でサウナ状態になっているが気持ちだけはさわやかだ。
 上新粉とだんご粉を使ってお団子を茹でると、切り刻んで擦った蓬を入れてすり鉢でよく擦り混ぜる。
 小さいころは祖母といっしょになって、ひとつのすりこぎを懸命に動かしていた。こうして一人で作れるようになったと思うと、自分は大人になったのだなあと思いがけず感慨深くもなる。一人ではまだ腕力が足りなくて泣きそうになりながら団子を捏ねていたのが、今ではすっかり。
「凛子ちゃん見かけによらず力あるわねえ」
「わっ、なかなかいい上腕二頭筋よ!」
「襷がけがよく似合うわあ」
 なんて、あのころに仕込まれた技は健在である。
 喜んでいいのかどうかわからないがとりあえずドヤッと得意げにしていると、ヨシヱさんがしゃらしゃらとすずらんを転がすように微笑んだ。
「やっぱり、凛子さんはそうやってほがらかに笑っているのがいいねえ」
 今では、わたしがストーカーに遭っていたことを、屯所のだれもが知っている。一時は恥ずかしいと思っていたけれど、皆が皆それぞれ心配してくれていたことを知ってわたしの口からかれらに打ち明けた。
「そうなんじゃないかと思った、どう見てもあの八百屋のせがれの目、いやらしかったし」
「え、畳の團畳郎だんじょうろうの二代目じゃなくて?」
「あら、私は案外ねこやの紗武しゃむさんが狙い目かと思ってたわ」
「それを言うなら吉田屋のぎゅうの介さんね」
「忘れちゃならないわよ、大穴で万事屋の旦那!」
「「「「ああ~」」」」
「ともかく」と、場を収めたのはヨシヱさんだ。
「どうしようもない人たちだけど、やるときはやってくれる。凛子さんはもう立派な真選組の一員なんですからね、大いに頼っておやり」
「そうよ、副長なんて顔しか取り柄がない重度のマヨラーだけど、ああ見えて世話焼きだし」
「沖田隊長はともかく、さすがは近藤局長に魅入られて集まった人ばかり。人情の篤さでいったら江戸を見てもここ以上はないさね」
「さあさあ、午後の仕事が残ってますよ。三番隊の皆さんが見廻りから帰っていらっしゃいますからね」
 はあいと答えて、厨房でひと休みしていた仲間たちは散り散りに仕事へ戻る。
 ヨシヱさんはその場に残って、いい塩梅にまとまった草餅を一口大に丸めていく。
「さて、この婆の心残りは、近藤さまの悪癖を断つことだけだわ。この目が黒いうちは二度と女の尻を追いかけさせないようにしないと」
 沖田隊長にお願いして松の木にでも括り付けてもらおうかしらとヨシヱさん。たしかにそれは、と眉を下げると、いたずらな顔が返ってきた。
「一途なことは褒められますがねえ。あの人は駆け引きというものを知らないお人だから」
「それを言ったらお終いですぜ、ヨシ子。あの人からストーカー要素を取り除いたら、それはタダのケツ毛ゴリラでさァ。本物のゴリラと入れ替えてもだぁれも気づかなくなっちまう」
「あら沖田隊長、お早いお戻りですね」
 うしろからひょっこり。現れたのはアイマスクを額に当てた沖田さんだ。
 どこから突っ込もうかと考えるうちに、白い手が伸びてきて、「いただき」と草餅を掻っ攫っていった。

 頼らないことが大人の強さじゃない。泣かないことが大人の証じゃない。
 決して、ひとりじゃない。それを知ることこそが、きっと本当の意味で大人としての大きな一歩なのだ。
 なにもかもが、すべてすっきり解決するわけじゃない。でも、日々は続いていく。
 振り返り、立ち止まり、うずくまってしまうこともある。けれど、そのたびに差し伸べられた手を掴み、立ち上がり、大切なことを抱きしめながら毎日を歩んでいく。

「あら、山崎さん」
 いけね、土方コノヤローの気配がしやがるぜと、沖田さんが颯爽と退場したのも束の間、よく日の照った縁を山﨑さんが歩いていた。
 その顔はげっそりしており、髪がところどころ焦げていることから、まあ一悶着あったのだろう。カツラがどうとか白いオバケがどうとか話す声が聞こえて、今日も江戸はにぎやかなのだと実感する。
「東雲さん……ただいま帰りました……」
「おかえりなさい、今日もお勤めお疲れ様です。お昼は食べてこられましたか?」
「それがまだで……。今から厨房行っても間に合いますかね……」
「間に合うとは思いますけど、なにか軽く口にできるものお作りしましょうか?」
 すっかり太陽は西に渡っていた。あくびを拵え、とっさに「スミマセン」と謝る彼に、そういえば昨晩から張り込みだったかと思い至る。
「山崎さん」
 ちょいちょい、と手招きをすると、山崎さんは不思議そうに目を瞬いた。
 さっきいただいたんですけど、と差し出したのは小さな桜の和三盆の干菓子だった。
「内緒ですよ」
 いつもお疲れ様です、と、わたしを信じて、最後まで力になってくれてありがとう、と。
「東雲さん……!」
「早く召し上がってくださいね、沖田さんに見つかったら多分なにかと面倒なことになりますので」

「あーっ、山崎がこっそり姉さんと抜け駆けしてやがるゥゥウウウ!!!!!」

 言ったそばからなんとやらだ。棒読みの叫びが聞こえてきた方へ土方さんはどうしたのかと暗に視線を送ると、「俺を出し抜こうなんざ百年早いんでさァ」とかなんとか。
「ぬぁああああにぃいいいいいいい!」
「山崎、テメェエエエエエエエエ!!!!!!」
 やべっと山崎さんは駆け出した。小さな花をひょいと口へ放り入れて。情緒もなにもないが、それがまた真選組らしい。
 どどど、と地鳴りがして隊服の大男たちが縁を駆けていく。曲がり角は滑るようにカーブして、焚きつけた沖田さんはなに食わぬ顔でピュウッと口笛をひとつ。

「ははは、元気だなあ」
 ふと、新たに聞こえてきた声に庭先に目を向ければ、裸の木に縄でぐるぐる巻きにされた局長の姿だ。後からやってきた土方さんはやれやれため息をつきながら、煙草の煙を燻らせている。
「近藤さん……。アンタって男は……」
「いや、なに。ヨシ子さんに括られちまってな」
「近藤さん、女中頭のババアといったらヨシ美ですぜ」
「馬鹿野郎が、ヨシ乃だろうが」
 とかなんとか。
「ダメですぜィ、土方さん。人の名前を覚えるのは基本中の基本。小学校の上村先生が言ってやしたぜ。良彦に謝んな」
「もはや誰」
「三人で一緒に、ヨシヱさんにごめんなさいしましょうね」
 なんだかんだ、日々は続いていく。犯罪はなかなか減ることはないし、給料が劇的によくなることもない、米は高いしガソリンも高いし社会保険料だって増え続ける。
 わたしたちの気持ちがすべて救われるとは限らない。努力が報われる確証もないし、苦労の末に栄華を手にするのが決まっているのなんて物語の中だけ。けれども、それでも、空気がすこしだけ軽い。
「春ねえ」
 さらわれた髪を耳にかけ直す。春告鳥が鳴き、鯉がぽちゃんと跳ねる。
「お、うぐいすか。寒さの底も尽きて、いよいよ春本番だなあ」
「近藤さん、ンなことより」
「まあ、なに、季節を味わっても怒られんだろう」
 括り付けられたまま、しみじみ感傷に浸る上司に、ハァとため息。
 なんだかんだ言いながら、土方さんも紫煙をくゆらせて突き出した縁から庭先の桜の木を眺めていた。
 すっかり鳴くのに慣れたのか、ホーホケキョと陽気な声がする。
「心地好いですね」
「まァ、悪くはねえな」
 うぐいすの止まった枝には、薄紅色の花房がひいふうみい……。
 まだまだ盛りには遠いが、わたしたちが思い描くよりもあっという間に満開になるだろう。
 ちゃぽん、水が踊る音がする。
「よーしよしよし、いい食べっぷりですぜィ。そのままいきゃ、万代の富士も目じゃねェ。そうそう、オメーにゃ莫大なる資産が注ぎ込まれてんだ、そうだ、よーく肥えな」
「……ったく、アイツは」
 どこからか響く山崎さんの悲鳴を聞きながら、春ののどかな景色に肩を揺らす。

 

「……ってなことがありましてね」
「いや、なに一件落着、大団円みたいな顔しちゃってんの!?」
 ところ変わって、お出汁のいいにおいが香るスナックお登勢。
 給料日が来たからとしっぽり銀さんを飲みに誘っていた。ほんとうは万事屋のみんなをパ――ッと食事に連れていこうなんて思っていたのだけれど、神楽ちゃんはそよちゃんと月1のお城お泊り(羨ましい!)、新八くんは親衛隊の人たちとライブの打ち合わせ。結局、残された大人組で無礼講となったわけだ。
 一軒目は定食屋でとりあえずおなかを満たし、そうして二軒目。冷酒で乾杯、と盃を交わして数回、すっかり酔いが回っていた。
「しかしまァ、難儀だったねェアンタも」
「ねえ、本当ですよねえ」
 酔ってからが始まりとはよく言ったもので、すっかりお登勢さんは熱燗に切り替えるタイミングを熟知していた。おかわり、という前に、空になったちろりをひっこめてアツアツのそれをわたしたちの前に置いてくれる。
「まさか飛脚のお兄さんとトラブルになってしまうなんて。世の中なんでも通販、宅配って便利になりましたけど、人間関係だけはより複雑というかなんというか」
「最近は、物騒な世の中になってきたからね。昔は顔を合わせりゃあいさつだなんだって、知らない人間でも気軽に言葉を交わしたもんだけど、今じゃめっきり人付き合いも変わっちまったもんだよ」
「そうなんですよねえ」
 なんの気なしにしていたつもりでも、相手にとって感じ方が同じかどうかはわからない。ただ単に、一生懸命配達してくれている業者の人に感謝の気持ちを込めて、〝当たり前〟にしたことであっても、それが、相手にとって、〝当たり前〟とは限らない。
 なんて皮肉かなと思うけれど、それが人間というものでもあるのだろう。
 とても勉強になりました、と言うと、「ちょっといいこと言ったみたいなドヤ顔すんな」と銀さんから横槍が入る。
 お猪口は新しく温めたものと取り換えてくれた。そういうところまで気が利くのがお登勢さんだ。やったあ、なんて、それを受け取って熱燗を注ごうとすると、すかさず銀さんがそれを奪った。
「だいたい、だれかれ構わず愛想振りまいてっから、変なのに捕まんだよ」
「あ、世界中の笑顔が素敵な女性を敵に回しましたね」
「主語を大きくすんじゃねえ。おまえだ、おまえ」
「いいですよう。そんなこと言うなら今日はもうおごってあげませんからね」
「いやいやいやいや、思い出してみ? 一軒目、財布落としたとかで俺に払わせてたよね? 銀さんのなけなしの五千円、バカみてーにレモンぶっかけた唐揚げにぶち込んでたよね」
「そうでしたっけ? まあ、とにかくいいじゃないですか、財布は無事見つかったんだから」
「そうだけどそうじゃねーだろ。おまえもたいがい、酒絡むといい加減なヤツだよ」
 むしろそういうヤツだ。おまえはそういうヤツだよ、とぶつくさ文句を言いながら、銀さんは熱燗を注ぐ。
 とぷとぷ、藍色の彩色で絵付けされた陶器の猪口には透明な酒がたっぷり。
 ったく話が進まねーんだよ。この箇所もう十回くらい書き直してっからな。とかなんとか。なんだかんだ言いながらもさっとふちを合わせて燗をあおる。
 熱めにしてもらったから、芳醇な香りがツンと鼻に突き抜ける。熱い、おいしいを繰り返しながら飲んでいると、あっという間に空になって銀さんがおかわりを注いでくれた。
「だいたい、男ってのは一度ニコッてされただけで、コロッといっちまうモンなんだよ。コロコロコロコロコロコロコロコロ、コロコロコミックですかっての」
 いいか、男は落ちた消しゴム拾ってもらっただけでも恋に落ちる生き物だ。あるいは単に目があって微笑まれただけでも、そンだけで自分が赦されたって思っちまう生き物なんだよ――云々。
「目と目が合ったらバトルだってサ○シも言ってただろうが。いいか? 視線がかちあったもうその時点で始まってると思え。え?
なにがって? ラブに決まってんだろうが」
「わけわかんないこと言ってんじゃないよ。だいたい、そっちが勝手につけあがったのをこっちに責任転嫁してんじゃないよ天パー。これだから素人童貞は」
「んだとコノヤロー、どう見ても俺は玄人中の玄人だろうが」
 とにかく――と、銀さんは続けた。
「男はそういう生き物なんだよ。単純にコロッとやられちまうの。たとえおまえが結野アナ級にかわいくなくても、ボンキュッボンのセクシーダイナマイトな姉ちゃんじゃなくても」
「ボンキュッボンもセクシーダイナマイトも十年ぶりくらいに聞きました」
「あのなあ。ったく……まあ、それがわかったら、せいぜい気をつけるこった」
 自分もぐいっと熱燗をあおると、熱ィ、とかなんとか言いながら、出されたおでんのだいこんをつまむ。
 銀さんの言うこともたしかなのだろう。美醜にかかわらず、だれかに認められたと思うだけで世界は変わる。その変化が良い方向へ働けばいいけれど、そうでないことだって多々ある。
 優しくしてもらえたら、笑いかけてもらえたら、だれだってうれしい。わたしだって、そう思っていたじゃないか。ただこれが、今回はわたしが女で、相手が男だっただけで。逆の性別や、ほかの立場でも、ありえることなのだろう。いろんな人に向けられた優しさを、自分だけのものにしたくなってしまう。
 こっちにそうした意図がなくたって、ただの親切心や円滑な人づきあいの一環としての対応にすぎないとしても、なにかのきっかけで階段を転げ落ちるように。
 気をつけなくちゃいけないのは、わかる。自衛することも大切だっていうのも。
 でも。渡されたグラスをぎゅっと両手で包み込む。
「なんか、哀しいですね。人間って」
 やるせないなあと、今でも思う。どうしたらよかったのか。笑いかけなんてしなきゃよかったのか。関わらなきゃよかったのか。もうあんな思いは二度としたくないと思う反面、すこしずつ頭が冷えていくと、悪い結果に至ってしまった虚しさが募っていく。
 自分がもっと気をつけていたら。もっと早くに、対処していたら。
「ま、男だけとは限らないさ。おかしいのは向こうってのは当然。けど――光ってのは、今も昔も、人を狂わせる。
 光が悪いって話じゃあなく、それが本物であればあるほど、圧倒的な光であるほど。
 そうさね、人間のもつ善良って光が、その人間の裡から生まれる自然なものであるほど、無垢でうつくしいがあまり、後ろ暗い人間はその目映いばかりの光に焦がれちまうモンなんだろうね」
 夜の光に集う夜光虫のように。蜜に集まる虫たちのように。あるいは血に飢えた獣のように。
「あんたがそういうタチだからこそ、招かれてしまった事件だったかもしれない。でも、あんたがそうだったからこそ、あんたに真心で応えてくれる人間が、山ほどいたはずさ」
 じんわり。全身に沁み渡る。
 あー……と天井の鈍やかな照明を見上げて、こぼれた涙を指先で拭っていく。
「もう大丈夫、ふり返らないぞって思っていたんですけどね。自分でどうにかしようと思って。でも結局どうにもできなくて。たくさんの人に迷惑をかけて、助けてもらって。人ってほんと、一人じゃ生きていけないんだなあ」
 ぐいっとグラスをあおると、「それがわかっただけ、成長したじゃないか」とお登勢さんがおでんのだしをお酒で割ったものを出してくれる。
「まあ、このご時世、そっけなくあしらわれたからって逆上するようなタマもいるさね。古今東西、痴情のもつれで刀傷沙汰なんて話はよくあること。あんたはあんたにできるだけの対処をした、無事でよかったよ」
 じっくり弱火で煮込まれた、黄金色の透き通った出汁。味わい深くて、それでいて、ホッとするような優しい味。
「今年はもうそれで食べ納めだよ」
「あ? なんだ、もうそんな時季か」
 人間関係も、そうなのだ。じっくり、ゆっくり互いの心骨を晒しながら理解していく。他人のことも、そして自分自身のことも。
「ねえ銀さん、来年もたっぷりおでんをいただきましょうね」
「へえへえ。そんときゃおまえさんの奢りで」
 そっぽを向いて、練り物を肴に燗をあおる銀さんに笑みをこぼす。なんだよ、と言って、赤らんだ目もとが裏めしげにこちらを向いた。
 いろんなことがあるけれど、そうしてまたひとつずつ思い出を積み上げながら、生きていく。
 しばらく食べられなくなると思うと、寂しいけれど、また来年。
 またこうして楽しく飲めるようになってうれいしいなって、そう言って燗のほうの猪口を差し出せば、そうかよと銀さんはちろりを傾けた。
 夜が更けていく。
「ったく、アンタも素直じゃないねェ」
「うるせー」
 空になった白い小さな器の中に、また、あたたかなお酒が満たされていく。

「送ってやんなよ」
 と、お登勢さんに言われて、銀さんとふたりで河川敷を歩く。
 すっかり夜は深まり辺りは静まり返っていた。ときおり繁華街から脱け出した人々の声が聞こえるが、川のせせらぎが聞こえるくらいでひっそりしていた。
「チクショーこのまま上に帰って布団にダイブできると思ったのによ」
 と、悪態をつきながらもなんだかんだ付き合ってくれるのが銀さんだ。往復すると三十分。明日も仕事だから、と、わがままを言ったわたしに付き合わせるのは申し訳ないという気持ちはあるけれど、そのぶっきらぼうな優しさが嬉しい。
「ありがとう、銀さん」
 すなおにそう言えば、「ったく、こっちの気も知らねェで」と銀さんは気だるそうにガシガシと頭を掻いた。
 いつだったかおでんを食べた屋台はもうない。川下からの風が吹き抜けてすっかり緑芽吹く春のにおいに満ちている。
 元の世界であれば、新年度だなんだと忙しい時期だ。こちらでも新入隊士の歓迎の準備などがあるけれど、こんなふうに些細なところで季節を感じるようになるとは、思いもしなかった。
 あっという間に、夏になるのかしら――なんて。青々とした水辺のにおいにその片鱗を感じつつ、今はまだそれに気づかぬふりをして余韻に浸る。
「銀さん、おんぶ」
「ハァ? なに言ってんだ」
「いいから、あそこの木まで」
 早くとごねれば、大きくため息をついて銀さんはしゃがんで背をあけ渡してくれる。
 はしたないけれど勢いよくそこへとびついて、着物だから脚は開けずほとんどぶら下がる感じになったが、銀さんはそれでも落ちないようにしっかりわたしを支えてくれた。
「でけーガキが増えた気分だな」
「たまにはいいとは思いませんか」
「アラサーのいい歳した大人がなに言ってんだか」
 大きな背中が、あたたかい。秋の日にこうして万事屋に連れて帰ってくれたときのことを思い出す。
 あの日に比べると、人工的な光の中、そばに浮かぶ影が足りないけれど、でも、わたしはここにいるんだなあと実感する。
「ほんとはね、すごく怖かったんですよ」
 銀さんがいてくれたら、なんて。都合のいい話だ。相談しないと決めたのはこちらなのに、今さら頼りたかったと吐露したくなるのはきっと、酔いのせいだろう。
「銀さんに相談したくて、でも、できなくて。遠回り大回りで、たくさん、心配かけちゃった」
「馬鹿野郎が」
「ふふ、そうかも」
「ああ。本当に、どうしようもない大馬鹿野郎だよ、オメーはよ。――いくらでも手掴んで引き上げてやるって、言っただろうが」
 そんな、自分勝手な要求さえも許してくれてしまうのだから、銀さんという人は。
「ありがとう、銀さん」
「凛子ちゃんには罰として一か月、飲みに付き合ってもらいまーす」
「それはただタカリたいだけですよね?」
「うるせー。つーか、ウチにはもっと面倒くさいやつらがいんの、忘れんなよ。おまえのこと母ちゃんみてーに慕ってんだからよ」
 あーあ、知らねーからなと吐き捨てた彼に、思いがけず笑みがこぼれてしまう。
「んだよ、いきなり」
「わたし、しあわせものだ」
「……ちんけな幸せで結構なこって」
「ちんけじゃないですよ。たぶんかぶき町で一、二を争う果報者です」
 ヘェ、そらよかったと歩む銀さんの背で、二人の姿を思い浮かべる。いつしか二人から三人になって。三人から四人、五人……たくさんの人々が脳裡で笑っている。
 すこしだけ重たい目もとを優しく撫でるように夜風が吹いた。きっと明日はひどい顔をしているだろうけれど、それもいい思い出だ。
「銀さん、わたし、しあわせ」
「ハイハイ、わかったっつの」
「このまま長屋まで送ってくれたら、もっとしあわせだなあ」
「さりげなく延長申し出てんじゃねェよ。終いだ終い。ハーイ、銀さん輸送、これにて閉店でーす」
「いけず」
「いけずもなにも、おまえがそこまでって言ったんだろうが」
「いいですよ、自分で歩きますから」
 銀さんの背中から下りて、地面を踏みしめた足どこかふわふわと心もとない気がしたけれど。一歩二歩と歩き出せば、次第にそれはしっかりとした感触に変わっていく。
 自分の足で歩くのも、いいものだ。そばに人がいてくれたら、より、その歩みが楽しくなる。その喜びと心地好さをわたしはもう、知っている。
 ――先生、わたし、幸福しあわせですよ。
 久しぶりに、そんなふうに心の中でつぶやいてみた。届くかはわからないけれど、きっとどこかで見守ってくれているはずだ。
 春がきて、夏がきて。そうしたら、あっという間に一年。もう一年。たった一年。これから、どういう日々を送っていくのだろう。
 苦しいこともあるかもしれない。悩むことも数多くあるはずだ。けれどそれ以上にきっと、楽しいこともたくさん経験する。
 今から、待ちきれないな。
「あっ、銀さん、ラーメンの屋台がある。ねぇ、ちょっと寄っていきましょうよ」
「自由すぎんだろ。つか太んぞ――て、痛ッッッッ」
「いいですよーだ、ひとりでたべるから。銀さんはそこで指咥えて見ていてくださいね。おじさーん、醤油とんこつ大、アブラマシマシヤサイマシマシ、チャーシュー追加、麺硬めで!」
「いや、それシメどころかメインじゃねーか。宴始まっちまうじゃねえか。これだから花より団子は……」
 とかなんとか。なんだかんだ言いながらも、投げつけられた巾着を手に、どっかり、隣に陣取って。
「おやじ、銀時スペシャルひとつ」
 白くくゆる湯気の向こうには、夜桜が今が盛りとばかりに咲き誇っていた。

 

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2026年2月16日たゆたえども沈まず第四幕 春にわくのは虫だけじゃない