その後も可となく不可となく異性間交流会は続き、二次会に向かうかどうかという話題になったところで春子はふたたび席を立った。
「後藤さん、どう?」
鈍く光を反射する鏡面に並び立ったのは本日の案内人である先輩だ。にやにやと笑いながら、肘で春子を小突いて、髪を手ぐしでほぐしている。
「いい人ですけどねぇ」
「けど、なに?」
「なんだか名前がちょっと」
「名前!? そこ!?」
「そこです」
五条と後藤、なんとなく響きとリズムが似ている。心の中でその二つを繰り返して、そのたびに、「やっぱだめなぁ」と思う春子だった。先輩はぎょっと春子を見るが、ぽやっと潤んだ瞳で鏡を覗きながら口紅を塗りなおす彼女に小さく息をつく。
「ちょっとみないうちに、やけに色っぽくなっちゃって」
「え〜、春子サンは元から色気たっぷりですよ〜」
「もしかして酔ってる? この甘党娘!」
えいっと肩を掴まれ、ぐりぐりとこめかみにゲンコツを当てられる。学生時代からの彼女たちの絡み方だった。いくらか年齢は離れているが、それゆえ先輩後輩というより姉妹に近いかもしれない。なんだかんだと後藤に勧められるがまま飲み続けていた春子はすっかり憂鬱な気分を忘れていた。
ちょっとリップズレます、と苦情を入れる春子に、姉貴分は耳打ちをする。
「お持ち帰り、気をつけなよ。あーいうの、なつっこい犬に見えてなに考えてるかわからないからさぁ」
「……わかってます」春子は唇を尖らせ、うなずいた。
先に戻ってるわ、と言って出て行った先輩を見送り、春子も少し酔いを醒ましてからトイレを出ることにした。
思えば、そんなことをせずに、さっさと先輩とともに席へ戻ればよかったのだろう。しかし、彼女はその先に起こることをなにひとつ予見できずに、出てすぐの水槽に目を奪われることとなった。
化粧室から自分たちの席までは、エントランスの豪勢な水槽の横を通らなければならない。早く戻ろうとは思ったが、つい色とりどりの魚が泳いでいるのに春子は見惚れてしまった。ホール内は熱帯魚のアトリウムだったが、入口は海水コーナーなのか小さな珊瑚礁が広がっている。赤や青、黄色その小さき生き物たちを目で指で追いかけながら、春子はゆっくりとガラス面を指でたどっていく。
「きれい……」
青白い蛍光灯の下で優雅に泳ぐ鮮やかな生き物たちは、なんとも神秘的だった。真っ暗な室内が、まるで彼女を水の中へ誘うようにたゆたっている。
先輩から合コン会場を聞いたときは、「どうせ申し訳程度に魚が置かれてるだけでしょ」とそのクオリティを疑っていた春子だったが、今やすっかり水槽の魔力に囚われていた。
「春子ちゃん」
呼ばれて振り返る。
「後藤さん」
「このあと、カラオケかダーツバーだってさ」
そこにはジャケットを脱いで、ワイシャツ姿になった後藤の姿があった。学生時代は運動部だったらしく、服の上からでもみてとれるほど逞しい体をしている。シャツの腕を捲る姿など、マニアが見たらたまらないだろう。
「いいですね。たのしそう」
春子はぽやぽやと水面にたゆたうくらげのような心地で答える。
「春子ちゃんもくる?」
「どうしましょう、明日も一応出勤日なので、終電前には帰りたいんですよね」
「んじゃ、その時間に絶対おれが春子ちゃんのこと送ってくよ。そしたら安心だね」
先輩の言ったとおりだ。なにが安心なのかわからないが、冷えた背すじを隠し春子は曖昧に笑う。後藤は一瞬赤らんだ瞳をとろけさせたあと、不意に男らしい顔をした。獲物のを虎視眈々と狙う、狼の顔。いい人の仮面の下からそれがのぞいている。そして、「トイレ行ってくる」と水槽には目もくれず春子の横を通りすぎる。
「……二次会行くのやめようかな」
彼が完全に姿を消したのを確認してつぶやく。帰りのタクシーの中で手を繋がれたりしたら、たまったものじゃない。それなどまだいいほうで、家に上がり込まれたとしたら……そこで思考を閉ざし、水槽に向き直る。
刹那、春子は目を見開いた。
「ごじょう……くん……」
ゆらり、ゆらり、青白い光たゆたう景色の向こうに、五条が立っている。前をカクレクマノミやキイロハギが泳ぎ、クラゲが上下に揺曳する。天に昇る小さなあぶく、光の綾を交錯させる白砂、まるで、どこにもない楽園に二人で落とされたみたいだった。
はっきりと、そして深く、水槽越しに視線が絡み合っている。
水面はたゆたう。
海藻は揺れる。
魚は泳ぐ。
しかし、春子は身動きひとつとれず、五条を見つめていた。
やがて動き出したのは五条だった。
「なにしてんの」
ややいつもより低い声だった。店員やうしろに立つ男性のこともお構いなしに、五条は店に踏み入り水槽のこちら側までやってくる。
「友だちと、飲み会?」
春子が答えると、五条は、「ダウト」と間髪入れず吐き捨てた。
「当ててあげる。そうだね、合コンってところ?」
もはや、微笑みも忘れて唇を噛むしかできなかった。本当はうそなどつく必要がなかったというのに、息を吐くように口をついてでた小さな偽りに春子は後ろめたい気持ちが増す。さらには、見破られてしまったとすれば、なおさら。
「ふうん、春子センセイは仕事を終えて、あの男とお楽しみだったワケだ」
「そんなんじゃないけど。ただ、本当に飲んでただけ。それより、五条くんも……」
春子の言葉を遮って、五条はうしろを一瞥もせずに連れ合いの男に話しかける。
「七海。あとで合流する」
「高くつきますよ」
「仕方ないから、僕のツケで好きに飲んでていいよ」
「それならもっといい店選びますよ」
ブロンドの髪を撫でつけたスーツ姿の男と店員が春子のすぐそばを通り過ぎる。
「それで、このあとあの男をお持ち帰りする予定だった?」
声色も、口調もやさしいが、おそらく目が笑っていない。サングラスの向こうの瞳は見えないが、どことなく追い詰めるような鋭い空気を伴っていた。
「どうかな」
べつに、付き合ってもないのに。なんでそんなこと言われなきゃいけないのだろう。焦りよりも、悲しみよりも、また驚きよりも先に、いくばくかの怒りが込み上げた。
春子はなんでもないふうを装って、たおやかに笑ってみせる。
「ほんっとに春子のそういうところ、ムカつくね」
「どうも。でもさ、だれをお持ち帰りしようと、五条くんに関係ある?」
完全なる売り言葉に買い言葉。五条悟がなぜそれほど自分の自尊心を削ってくる言葉を突きつけてくるか春子にはわからなかったが、返した言葉が彼の冷静さを抉ったのはわかった。
五条はなにも言わず、春子の腕を掴んでホールへ突き進む。
「席、どこ?」
「ちょっとひとりで戻……」
「あった。あそこだね」
春子の静止もいとわず、五条はそのまま長いリーチでズンズン進み、やがて、春子たちが異性間交流会をしていた個室へとたどり着く。
「あっ春子! もー、遅いじゃん! そろそろ二次会行こうって話してたんだよ……って、だれそれ?」
春子の腕を掴んだまま、五条は一同に向けてにっこり笑った。
「いやぁ、スミマセン。なんか、僕の彼女がお邪魔してたみたいで。ほんと、すぐ目を離すとこれだから困っちゃう。この子ちょっと借りてもいいかな?」
信じられない、という顔を五条に向ける。しかし、相変わらず五条は春子を見向きもしない。
「あっ、返しにこなくてもいいですよ」と、空気を読みすぎた先輩が手のひらを見せる。
「ちょっ、先輩?」
「どうも。話がわかる人がいると助かるね。んじゃ、失礼しまーす」
がんばれ、と口パクでエールを贈りながらひらひら手を振る先輩に、「薄情者!」と春子は泣き出したい気持ちだった。
店を出て、五条は黙ったままだれもが使いそうにない古びた非常階段に春子を連れ出した。
しんと冷たい空気が彼らを包む。二つの足音が打ちっぱなしのコンクリートの壁に響く。
「五条くん!」
何階まで下りただろうか。脚がもつれはじめ、春子がその名を呼ぶと彼は彼女を壁に押しつけた。
「春子が好きだよ」
「な……」
およそ、好きと言う甘い雰囲気ではなかった。背中に当たる温度はひどく冷たいし、押しつけられた力もかなり強かった。それでも、心臓は大きく跳ねる。
そんなこと……言おうとするが、声がうまく出てこない。五条は春子の顔の横に手を突き立てたまま、覆い被さるように彼女に迫る。
「知ってたでしょ? 頭のいい君ならとっくに気づいていたはずだよね。だから僕を受け容れるって言ったんだ」
「ちが、やめ……」
「どうしようか、このまま僕たち付き合ってみるのもいいんじゃない? 幸い君も僕のこと嫌いではなさそうだし。あ、男ならだれでもいいかな? でも少なからずあの胡散臭いスーツ男より僕のほうが満足させてあげられると思うけど」
こんなつもりじゃなかった。こんなこと、望んでいなかった。なのに、どうしてこうなってしまったんだろう。五条がここまで自分の感情を曝すのは初めてだ。いつもの調子で、「その口紅いいね。グレムリン2みたい」などと失礼なことを平気で言ってのけてくれたほうがどれだけマシだったか。
春子がサングラスの向こうの素顔を見上げているうちに、五条は左腕をふるい、なにかを階段の手すりへとぶつける。なにかが弾けるすさまじい音が鳴った。
春子がおそるおそるそこを見ると、手すりは見るも無惨にひしゃげていた。
「さ、春子、僕とイイコトしようか」
その左手が頬を撫で、春子の中でガラガラとなにもかもが崩れていった。
「五条く……」
「ねえ、どんなのがイイかな? 激しいの? それとも、苦しいの? ああでも、とびきり甘くしてもいいかもね」
「五条くん!」
五条の手があご先で止まる。
「なあに、春子」
「も…………むりぃ…………」
男の前でなんて、泣くものか。
少なくとも、好きな男の前では。
そう思ってきたのに、春子はもう感情を堰き止めるなどとうてい無理だった。
「は……?」
ぽろぽろと子どものように涙を流しはじめた春子に、五条は狼狽の色を見せる。
「見ないで」
「ちょっと、春子?」
「みないでよ……おねがいだから……」
かすかに嗚咽を漏らしながら、それでもなお、声を出さぬように春子は泣く。
こんなつもりじゃなかった。こんな弱い女になるつもりはなかった。それなのに、どんどん乱されていく。
五条は春子の命の恩人で、なににも代え難い救世主で、そして、できればその内に隠れた小さな彼を守ってあげたかったはずなのに。
春子は五条が恐ろしくなった。ひしゃげた手すりには黒い跡が残り、背すじを刺すような鋭い空気が全身を包んでいる。おそらく、あそこになにかがいたのだろうが、五条の力に比べたらよほどちっぽけな存在だったのだろう。
五条が怖い。怖くてたまらない。――ちがう、本当は五条が怖いのではない。自分が怖いのだ。彼を受け容れようとして、受け容れたくて、足掻こうとしていた自分が。ちっぽけで、おろかで、それなのに、それでもなお五条を愛したがっていた、黛春子。だめなのに、求めてはならないのに。彼の邪魔をしてはならないのに。
自分は無知という平和の中であぐらをかいて生きる人間で、彼は全知の中で闘う人間で。世界の違いをこうも突きつけられてなお、彼に手を伸ばそうとしていた自分が、滑稽で、浅はかで、酷く恐ろしい。
「……かえる」
「春子?」
「かえる!」
鼻声を響かせて、渾身の力をふり絞り階段を駆け下りる。涙はいくら経っても止まらない。腕に残る温度も、耳に掠める吐息も。
五条は追ってこなかった。
そしてその夜、新宿歌舞伎町のとあるビルでは一切の呪霊が瞬く間に消え去ったことを春子は知らない。
