第十一話 唯一の風

「二十二分と三十六秒、思っていたよりも早かったですね」
 淡々と出迎えたのはロックグラス片手に優雅に脚を組む七海であった。「そう?」五条は軽い口ぶりでそれに答えながら前に座る。個室を囲う水槽には熱帯魚たちが悠々と泳いでいた。
「それで、上の様子はいかがでした」
 アルコールメニューや酒の肴を吹っ飛ばして即座にデザートメニューを眺める五条に七海は訊く。
「ん、全然、大したことはなかったね。僕の指一本でじゅうぶん」
「二級一体、三級五体といったところですか。たしかにそうでしょうね。しかし、学生に任せるという予定では」
「ま、予定は未定ってね。あ、お兄さん、僕このデラックスハニトーとコーラで」
 ちょうど彼らの個室の前を通りかかった店員を呼び止める。五条の様子に七海はなにかを言いたそうにしていたが、サングラスの下で半ば呆れを滲ませただけだった。
 注文を終えると、五条はメニューを閉じて乱雑にソファーへ放り出す。
「仕事終わりによく食べようと思いますね、そんなもの」
「僕から言わせれば七海のほうがどうかと思うよ。それ、吐瀉物のにおいがしない? 青春の淡く苦い思い出をまとった吐瀉物」
「どんな思い出ですか。というより、普通飲んでいる人間を前に言いますか、それ」
 七海が飲んでいるのはバーボンのロックだった。甘ったるいカクテルばかりのメニューの中で唯一許せる酒だったらしい。一切のアルコールを受け付けない五条はオエッと嘔吐くパフォーマンスをして、背もたれにどすんと寄りかかった。
「それにしても、特級呪術師のアナタでも、獲物を取り逃がすことがあるんですね」
 五条はずれたサングラスもいとわず、七海に視線を向けた。
 ゆらりゆらり、熱帯魚が背後を泳いでいる。男二人で過ごすには、あまりにロマンティックすぎる個室だ。五条が用事を済ませている間、そこにしばらく独りたたずみ七海はバーボンを舐めていたのだが。それを想像するとさぞ笑える。
 しかし、五条はぴくりとも表情を動かさず、ロックグラスに手を伸ばし淡々とそれを口に運ぶ男を眺めた。やがて、七海の言葉に答えることもなく、長いため息をつきながら天井を仰いだ。
「人間って、なに考えてんだろうな」
 淡いライトに照らされた彼の髪や頬は青褪めている。果たして、それは照明のせいか。
 水槽越しには若者たちののんきなおしゃべりが響いていた。
「アナタも一応その人間の部類では?」
 珍しくもこの世の理不尽に脱力したかのような声を出した男に、七海はにべもなく返す。
「言い方を変えるよ。普通の人間は、どんなふうにこの世界で生きていると思う?」
「それを私に訊いて、答えが出てくると思います?」
「いいや? でも、僕よりは七海のほうが詳しいでしょ、実際」
 五条の脳裡に過るのは、春子の泣き顔だ。ふれたら今にも壊れ溶けてなくなってしまう、淡雪のような。いつだって、悠然と吹く春風のように余裕な顔をしていたくせに——どうしてあそこで、あのタイミングであんな顔をしたのか。
 人は善良な感情の裏に、いくつもの相反した感情を持つ。憎しみ、悲しみ、あるいは怨嗟……性善的な顔をして、おぞましい負のエネルギーを溜め込む生き物だ。だからこそ、彼らのような呪術師が昼夜もいとわず働いている。春子も、そちら側の一人だとは理解していた五条だったが
 実際に彼女が向けてきた感情の糸を彼は読み解くことができなかった。
 たしかに、ああいう人間の乱れる瞬間を見てみたいと思っていた。「もう、だいじょうぶ」背中に傷を負いながら花のように微笑んだ女の、人間らしくおぞましい瞬間を。五条は心の奥底で、彼女がいわゆる“ボロ”を出すのを待ちわびていた。
 だからこそ、こういう形で黛春子という人間の脆い部分を突きつけられるとは思わなかったのだ。
「自分のありふれた生活に一抹の畏れも猜疑心も抱かず、のうのうと生きている人間はこの上なく幸福だと思いますよ」
 七海は酸いも甘いも噛みわけた声で言う。
「幸福、ねえ。じゃ、七海、幸せってなんだと思う?」
「哲学の講義ならよそを当たってくださいよ」
 そこでコーラがやってきて、乾杯することもなく五条はストローを咥えた。
 好意とは限りなく嫌悪と表裏一体だ。喉の奥が焼けるように熱く、なにかが背すじを駆け上がり脳髄を揺さぶる感覚も、怒りのそれと驚くほど似ている。決してこれが初恋などとは言わない。しかし、その激昂を何年も自分から遠ざけてきた彼にとって、制御しがたい激しくも儚く、甘い衝動の波はなんとも心地が悪かった。
 五条家の人間に、ましてや唯一無二の存在である五条悟という人間に弱さなど、痛みなどいらない。だが、この胸の奥に残ったしこりはなんだろうか。
 むしゃくしゃする。泡沫の上がる楽園の向こうで、自分以外の人間に無防備な姿を晒す彼女が。彼女の前に、なにひとつ隠すことなく立てるあの男が。
 五条悟としてではなく、ただのひとりの男としての嫉妬だった。
「まあ、変にこじれる前にさっさと謝られたほうがいいんじゃないですか」
 七海は言う。
「オマエ、意外と修羅場慣れしてそうだよね。今まで何人の女慰めてきた? 何人メンヘラ抱いてきた?」
「知りませんよ。そういうアナタは、修羅場に直面しても平気で放置していきそうですね」
「失礼だなー、僕そんな最低クズ野郎に見える?」
「ええ、そうですね。まだ小学生のほうが意中の異性にやさしくできるくらいには」
「小学生以下ってか。僕のことご理解いただけてうれしい限りだよ」
 五条はズッと音を立ててコーラを飲み干すと、ストローを咥えたまま再び背もたれに寄りかかり、目の前の七海ではなく背後の水槽を眺めた。
「この歳になると、喪うことに慣れすぎてダメだね」
 ストローを噛んで、行儀悪くそれを上下させながら五条は言う。
「しかし、手にすることに対して二の足を踏むのは、喪うのがいやだからでしょう。アナタらしくないんじゃないですか」
 魚は自由でいい。水槽という小さな世界に閉じ込められたとしても、その生き様までは人間に奪わせない。優雅に泳ぎ回るものもいれば、草陰にじっと潜んでいるものもいる。だが結局は箱庭に生きるもの。その中で一生を終える心地はどんなだろう。
 天に向けて上がっていく泡が、コークグラスのふちに昇るそれと重なり儚さを際立たせる。光を綾なす水面が、永遠に続くような夢の狭間に似ている。時間の間隔が曖昧になる。
「まさか七海に愛のなんたるを説かれるとは思わなかったな」
 ストローをグラスに戻し五条はぼやく。
「あのさぁ七海」
「なんですか」
「ノロけていい?」
「いやです」
 やってられない、そんな調子で七海はバーボンを煽る。しかし五条は続けた。
「アイツさ、めっちゃいい女なんだぜ。いい匂いがするし、甘いもの好きだし、なんて言ったって泣き顔がカワイイ」
「最低ですね」
「あと結んでた髪をほどいた瞬間が最高にエロいんだよ。普段とのギャップがさぁこう劣情を煽るっていうの? なのに無防備すぎてムカつく。マジでね、ムカつくのよ。この気持ちわかる? わかるだろ七海」
「そんな破綻した感情わかりませんよ。とりあえず、アナタは今すぐにでもその方に謝るべきでしょうね」
「んでさー今どきめずらしいくらい真面目でね」
「……」
「本人は、演じてるだなんて言うけど。どうだろうな。でもそのあざとそうなところがまたいいよね。そうだ、僕が助けたときの話聞く? 聞くよね? 涙出てくるよ」
 もはや七海は突っ込むのを諦めたようだった。グラス片手に黙りを決めこんだ後輩にかまわず、五条は天を仰いだままサングラスの下で瞑目する。
 ——五条くん。
 声がする。光の中で、ひとつの風が体を吹き抜ける。飛ぶ鳥の背を撫でる、あたたかな、唯一の風。
「彼女、もうだいじょうぶって笑ったんだ」
 体を瞳を、貫いたあの一瞬。息を吹き返したのを忘れもしない。
 そうだ、簡単なことだ。五条はゆらりゆらり揺曳する淡い光をまぶたの裏に描き思う。自分は彼女を喪いたくない。あの甘やかでやわらかな昼中の夢を、あの夜の衝動と慈しみを、この手からこぼしたくない。
「きっと……」
 ゆっくりと息を吸う。
「……きっと?」七海が言った。
 ゆっくり、息を吐き出して目を開ける。
「――いや、なんでもない」
 そこで、やっとのこと五条の頼んだデラックスハニートーストがやってきた。
「お待たせしました、こちらデザートの食パン一斤を使用した限定ハニトーになります」
「おっ、きたきた。待ってたよ〜僕のカワイイハニトーちゃん。いやあエアーズロックに勝るとも劣らずなフォルム! たまんないね〜」
 はあ、盛大なため息が聞こえる。
「あ、七海も食う?」
「いりません」
「ま、くれって言われてもあげないけど」
「でしょうね」
 とるにたらないもの、しかし、なくてはならないかけがえのないもの。五条悟という人間をこの世に縛りつける甘やかな呪い。
 ——いつか。いつかだれかに奪われるくらいなら、そのときはこの手で壊したいと思うのは贅沢か。
 鼻歌まじりにフォークとナイフを手にした彼を、ゆらりゆらり銀色のアロワナが見つめていた。