第九話 アロワナのまなざし

 どんなことがあろうと、日はまた昇る。それがおよそ二十数年生きてきた中で一番よく学び実感してきたことだろう。苦虫を噛み潰し、また辛酸を舐めるような夜があっても、目を閉じれば朝はくる。はたまたやさしい夢や腕に包まれていたとしても、時は決して人間を待っていてはくれない。人々の頭の上に平等にその時間の変化はふりかかる。

 あの夜から数日、春子は都内某所の居酒屋へやってきていた。
 最近できたばかりのそこはなんでもアートアクアリウムをモチーフにしたらしく、各テーブルごとの間仕切りに大きな水槽が置かれ悠々と熱帯魚たちが泳いでいる。室内も心なしか暗く、まさにさまざまな癒しを求める大人たちにピッタリないい雰囲気を作り出していた。
 その居酒屋の化粧室にて、春子は大きな鏡の前に立ちながらはあとため息をつく。
「来ちゃったなぁ」
 というのが、彼女の心境だった。これがただの女子会などであればこれほど彼女が憂鬱な顔を見せることもなかったのだが、「カップルシートあります!」「半個室、雰囲気最高!」が謳い文句の店に、複数の男女が集まってやることとなれば一つしかない。
 合コンだ。と、いうと、本日誘ってくれた学生時代の先輩に、「異性間交流会って言いなさいよ」と直されてしまうのだが、とにかく、春子は男女六人での飲み会に挑んでいる真っ最中だった。
 以前から暇があると、「春子も来てよ〜異性間交流会!」と言ってくる先輩ではあったが、春子がその誘いに乗るのはおそらく大学生ぶり。普段ならそれとなく断って参加しないだろうに、この日だけは春子もどこかやけになっていたのだろう。
 その理由は、ひとつ。
「……ほんっと、ばかだよわたし」
 つぶやきながら、春子は目の下に落ちたシャドウを指で拭い軽くメイクを直す。ばかだよと言いながらも身だしなみに余念を抜かないのは、もはや意地だろうか。鏡の中の春子の姿は、清廉無垢な養護教諭の姿ではない。
 合コン開始三十分前、待ち合わせ場所に到着するやいなや春子を近くの化粧室に引っ張って行った先輩のおかげで、アイシャドウはラメがキラキラ、いつもよりマスカラをたっぷりつけたまつ毛はバサバサ、おまけにやや猫目を意識した切長アイライン。ちょっと強気すぎやしないか? と思ったものの、「今日のお店の照明は暗いからこのくらいがきれいに見えるのよ」と言って先輩は憚らなかった。
 彼女に言わせれば、普段学校にしていくメイクがナチュラルすぎるらしく、合コンにはそぐわないとダメ出しを散々くらってしまったところだ。そんなのスッピンも同然! とまで言われたが、職場が職場のため、仕方がないのだ。ネイルも自由にできないし、見つけるアクセサリーや洋服果ては髪型までも気を遣う。
 そう考えれば、このメイクはそんな黛春子教諭の皮を脱ぎ捨てネオン輝く街に飛び出していくにはぴったりだったのかもしれないが。
「にしても派手だなぁ」
 待ち合わせ直前、駅近くのデパートで景気づけに買った真っ赤なリップを塗りながら笑ってしまう。最初は先輩に言われて仕方なく身なりを整えていた春子だったが、もはやそのころには乗り気になっており、一緒になって「これ強そう」とリップを選んでいた。普段なら絶対に選ばない色だ。この合コンが終わったあと、どこに塗っていけばいいのかわからない、血に似た色だった。合コンならばもっと可愛らしく清楚でいたほうがいいのに、ついやけになりすぎていたらしい。
 それを、先輩もきっちり見抜いていたようだったが。
「春子、あんた顔死んでるわね」と再会早々言われたのには度肝を抜かれた。そして、「報われない恋はね、新しい恋で洗い流すのが一番よ」と的確に言い当てられたのには、もはや心の中で拍手喝采だった。
 報われない恋とはわからないが、でも、おそらくそれに近い。
 あの夜、五条と二度目のキスを交わしてから、その手に余る想いを押し留めて、なんでもないふうに振る舞う覚悟を決めた。それが彼の、わたしたちのためになるならば、と。しかし、人生そううまくはいかないのが現実だ。かっこよく飄々としていられるほど、春子はまだ完全に自分を演じきれていなかった。これが学校という箱庭の中であればまだ繕えたかもしれないがそこから出た春子は、どこまでいっても春子だった。保健室の先生でも、都合の良い女を演じる春子でもなく、ただ強がりな黛春子。
 だが、もしも五条が再び彼女のもとに現れたら、元に戻らなくてはならない。それも、不確定な未来だが。とにかくそれで、落ち着かなくてヤケになって合コンに参加していたわけである。
 見事先輩に心情を見抜かれた春子は、もはや流されるまま、この一歩間違えたら女の子が客に奉仕する店に見えなくもないアクアリウム空間までやってきてしまった。そして、今に至る。
 喧騒から逃れるために化粧室に来てメイクを直しているのはいいが、やはりここも落ち着かない。
「五条くんが見たら、笑われそうだなぁ」
 なにそのメイク、ペニーワイズ? ねえねえナニーワイズなの? などと飄々とした顔で突きつけてくる姿が思い浮かぶ。なんとも失礼極まりない男だ。リップを塗り終えて、ン、と唇を合わせたあとつい自嘲したが、そこでもまた彼を出したことに苦虫を噛み潰す思いだった。
「もう、忘れろ、わたし! 今は楽しむ!」
 そう、新たな出会いを求めるわけでなく、純粋にお酒を飲むのを楽しめばいいのだ。幸い、お酒は嫌いではない。あまりおいしいカクテルが揃っているとは言えないが、せっかく飲み放題分のお金を払っているのだから、飲まないともったいない。
 仕上げに前髪を整えて化粧室を出ると、春子はにぎやかな席に戻って行った。

「春子ちゃんは学校の先生なんだ?」
 目の前に座っている男、たしか名前は後藤という名前だったか。都内の大企業に勤めるサラリーマンらしく、なかなかさわやかな見た目をしている。その上、場を盛り上げるのもうまく、かつ気が効くので、さぞモテるだろうという印象だった。しかし、その響きがあの名前を彷彿させるため、春子はなんとなく複雑な心情に陥っていたのはここだけの話だ。
「はい。一応これでも保健室の先生やってます」
「保健室の? うっわめちゃくちゃいいな、おれ学生だったらその学校通いたいくらいだよ」
 あるあるな反応である。女教師という肩書きは時として役に立つと職場のだれかが言っていたが、こういうことだろうか。もっとちがうことに役立てたかった。春子は思いつつ、あははと軽く笑ってモヒートを飲む。先輩は隣でシステムエンジニアに夢中になっていた。
「ちなみにどこの学校?」
「それはちょっと……」
「あー、やっぱ言えない感じ?」
「そうですね。職業柄、守秘義務も多いですしねえ」
「そうだよねー。でもどこらへん? 地区だけでも教えてよ。今度営業のとき、ちらっとのぞくから」
「学校には入れませんよ」
「ははっ、てごわいねえ。じゃあヒント!」
 そこでモヒートが空になり、後藤が言いながらメニューを渡してくる。
「女子校です。あと、中高一貫」
「女子校かぁ」
 これくらいならまあいいか。おそらくわからないだろうし春子はドリンクメニューを眺めながら答える。
「もしかして、■■の裏手にある学校ですか?」
 春子は驚いた。後藤ではなく、一番奥の物静かな男性が言ったからだ。
「そう、ですけど……よくわかりましたね」
 席の奥に座るその男を見ると、ゆらり彼の背後に泳ぐアロワナが目についた。
「いえ、都内の女子校だと数も限られてきますし。それに、なんとなく黛さんの雰囲気的にそこかなと思って。でも、あそこ去年大変な事故がありましたよね。大丈夫でした?」
 男は眼鏡を指で上げて、人好きしそうな微笑を浮かべる。アロワナとは似ても似つかないのに、どこか奇妙な心地になる。
「お詳しいんですね」
 春子が言うと、前の後藤が面白くなさそうに唇を尖らせて、「こいつ、一応お役人だからさ」とぼやきながらすぐそばを通った店員を捕まえる。
「あ、春子ちゃん、なに飲む?」
「ええと、じゃあ同じのを」
「オッケー。じゃ、モヒートとナマで」
 ゆらり、ゆらり、アロワナがこちらをじっと見つめていた。

「うん、なかなか生きがいいのがいるねぇ」
 先ほどまで渋谷にいたはずの五条悟は、現在都内随一の歓楽街、新宿歌舞伎町■■ビルを前にサングラスをひょいと小さく上げた。
「ところで、なぜ私が連れてこられたんです」
 その隣には、明らかに任務を終えて定時退社を決めようとしていた一級呪術師七海健人の姿もある。いやぁ、ザ・歌舞伎町って感じ? 呪いも泥くさいったらありゃしない、などとぽやぽやとのんきな花を頭上に咲かせる五条とちがって、至極面倒な顔を隠しもしない。
「ん? そんなの決まってるだろ、七海が暇そうにしてたから」
「どこがですか。ちょうど高専に帰って報告書をあげるところでしたよ」
「だからだよ。ホラ、仕事終わりに景気づけの一杯ってね。ありがたく先輩が奢ってやるよ」
「押し付けがましい先輩ですね。というか、アナタ飲めないでしょう」
 そんなこともお構いなしに、五条はスラックスのポケットに手を突っ込んでビルに入っていく。
 ため息をつく七海であったが、なんだかんだと彼のあとを追いかけて歩いた。
「一階、二階はそうでもなかったな」
「そうですね。やはり上の空きテナントにいるんじゃないですか」
「あっ、七海、五階、アクアリウム居酒屋だって。魚泳いでるらしいよ。雰囲気バッチリ! カップルシートあります、行ってみようぜ」
「話聞いていました? というか、アナタとカップルシートは御免被りますよ」
「ツレないこと言うなよな。男二人仲良く夜景でもみようぜ」
「だったら帰りますよ。こんな仕事アナタ一人で十分ですから」
 一階から順にエレベーターを止め呪いの存在を確かめる二人だったが、四階まで上がってその収穫はナシであった。よもや呪いも特級と一級の二人が一度に赴くとは思っていないだろうに、彼らは華金の奔放な空気に呑まれながら上へと上がる。
「ところで、最近妙に動き回っているみたいですが、いいサカナでも見つけたんですか」
 五条が口を半開きにしながらエレベーターの階数表示を見上げていると、七海がだしぬけに言った。
「どう思う?」
 五条は視線を一ミリも動かさずに言う。
「さあ、どうでもいいので、とくに」
「おいおい七海ィ、聞いといてそりゃないだろ。もっと会話を深めようぜ、親交深めようぜ」
「今さら深めたい親交なんてありませんよ。……けど、アナタがなにかを隠すのに必死になるなんて珍しいとは思いますよ」
 隠す、その言葉に五条はハッと鼻を鳴らす。
「七海にはそう見えてるワケね」
「敵に姿を隠すくらいなら、真正面からなぎ払うのがアナタの代名詞みたいなものでしょう」
「言うようになったねぇオマエも。ところで、タツノオトシゴってオスが子育てするらしいよ。卵を育てる袋みたいなのが腹にあってさぁ。そう考えると七海もガキ抱いてるのとか案外似合いそうだよな、べつに見たくないけど」
「その脈絡がないの、いい加減どうにかなりませんかね」
 そうこうしているうちにエレベーターが目的階に着いてしまった。ドアが開いた瞬間、五条は大股で外に出る。一秒でも開くのが遅ければドアに激突する勢いだったが、まさに彼が踏み出すのと開くのはほぼ同時だった。
 下りてすぐ、先ほどまで無機質な空間だったのが一変して水族館へと早変わりする。
 壁一面にあしらわれた黒布、室内を照らすのは青白色のライト。極めつけはおよそ天井まで続く大きく長い水槽。どこか、イタリアの青の洞窟を彷彿させる神秘さであった。
 もっとチープなものを想像していた二人は、居酒屋を前に二の足を踏む。
「おい七海、マジでカップルシートしかなかったらどうする?」
「仲良く夜景を見るんでしょうよ」
「オマエとなんて御免だよ」
「そのセリフそっくりそのままお返しします」
 はあ、とため息をつく七海をよそに、またしても長いリーチで五条は入り口の店員に話しかける。
「お、七海、通常個室空いてるってよ」
「……一時間で切り上げますからね」
「じゃ、お姉さんそこで」
 しかし、次の瞬間、五条は動きを止めた。