日常はつつがなく過ぎていく。
五条と会ってから一週間、二週間と過ぎ、もう彼は来ないのだろう、と春子は半ば諦めていた。しかし厄介なことに、春子の中の淡い憤りに似た違和感はどんどん大きく膨らんでいくばかりだった。
かつて、電話もインターネットもなかった時代、人々は手紙をしたためる間に情欲を育んでいたというが、まさに春子もそうだった。このご時世だというのに、メールアドレスはおろか一切の連絡先も住んでいる場所も、どこで仕事をしているのかさえも詳しく知らない。今思えば現実かそれとも夢か、区別さえつけづらいほどであった。
あの穏やかに過ぎる、昼中のひととき。ふてぶてしい態度で椅子に座りながら甘いお菓子を頬張る男。深い意味もない、ただ言葉を投げ合うだけのキャッチボール。春子が紅茶をあるいは緑茶を淹れる。五条がかすかに鼻歌を歌う。すべて、光に消えていく。
ただひとつ、背中に刻まれた傷の疼きだけは現実だ。
この日、仕事を終えて春子は家路に着いた。
途中、駅前のスーパーでワインや缶チューハイを、それから閉店間際の惣菜屋でコロッケと焼き鳥串を買って、明るく照らされた夜道を歩く。一人暮らしをして数年、すっかり馴染んだ景色にホッとするようだった。楽しいことがあったわけではないが、それでも仕事が終わると気が抜けて歌を歌いながら歩きたくなってしまう。それに、昨日取り寄せておいたラムボールも冷蔵庫に入っている。以前、いただきもので食べたときの感動が忘れられず、横浜の本店から取り寄せたものだった。
店に行かなくても、食べたいものが届くとはいい時代だ。なかなか旅行はできないが、どこかへ行った心地になっていい。そんなことを思いながら春子は進む。
そしてようやくアパートが見えてくると、鞄から鍵を取り出して階段を小走りで駆け上がった。
「ただいま」
返事のない部屋に声をかけてしまうのは、もはやくせだ。これで、返事があったらかえってホラーかサスペンスものだなと思いながら、春子はパンプスを脱ぎ去って家に上がる。電気を点け、買ってきたものを冷蔵庫やテーブルに並べたあと羽織っていたジャケットをハンガーへ掛け、手を洗う。結っていた髪を下ろし、ほつれた部分はブラシでとかしておいた。
「まずは、お風呂に入る前にっと」
洗面所から、ややスキップぎみに脚を弾ませてキッチンへ。そうして冷蔵庫の中から白い箱を取り出すと、春子はリビングのラグにいそいそと座り込んだ。
「待ってました、ラムボール!」
ひとりでなに話しているんだ、というツッコミも当然一人暮らしでは入れる人間がいない。
春子は鼻歌をうたいながらケーキボックスを開いて、チョコケーキを手にとった。手のひらよりも小さいくらいだろうか、銀紙に載った丸いラムボールを目の高さまで持ち上げ、カカオの香りを十分満喫する。うん、おいしそう。さすがは老舗洋菓子店。春子はつぶやきながらガナッシュのたっぷりかかったそれにかぶりつこうとした。
そこで、コン、と窓を叩く音がした。
「……なんだろう」
不思議に思った春子は一旦ラムボールを置き、立ち上がって窓際へ向かう。
鳥か、それともカナブンなどの甲虫類がぶつかったか、そんなのんきなことを考えていた春子は、カーテンを開けて目を疑った。
「っ、ご、え? ……えっ?」
自分の家のベランダに、五条悟が立っているなど、だれが予想するだろう。
宵闇にすっかり同化しそうな装いで手を振る姿はさながらホラーもの。ただ、かぎりなく白に近い銀糸は天に向かって煌めいている。
あまりに驚いてうまく言葉を発せない春子に、窓の外の五条は手で鍵を開けるようレクチャーした。
「や、元気?」
窓を開けて、開口一番、五条が言ったのはそれだった。
「いや、元気、じゃなくて」
春子はいまだ驚きのただ中に立ち尽くしながらもごもごとつぶやく。
「びっくりした?」
「びっくりどころか、心臓飛び出るかと思った」
「おっ、いいね。サプライズ成功」
サプライズはサプライズだが、やっていいサプライズとそうでないのがある。しかも、なんで家の場所を知っているのか。
五条はいまだ餌を求める金魚のごとく口を半開きにパクパクとしている春子を見て、「どうしてここにって感じ?」と飄々と小首を傾げ、それから、「それは企業秘密」と完結させた。
「ま、そういや、この辺だったかなって思ってさ」
「この辺って……いや、もう、それについて聞くのはやめにする。でも、なに、どうして急に」
やっとのこと言葉をしゃべれるようになったが、まだ喉に引っかかってうまくは話せない。それもそうだ、散々思い悩まされた元凶が、しかも、もう会わないだろうと決めつけていた相手が現れたとなれば、だれしもそうなるはずだ。
戸惑いと喜びと不安と期待と、複雑な思いでおよそ窓枠に頭をぶつけてしまいそうな五条を見上げると、彼は躊躇うこともなく親指で目隠しを上げた。
「べつに、ただ顔を見に来ちゃだめだった?」
このタイミングでそうするのは、計算か。もしかして、まだ彼は意味不明なゲームをしているのだろうか。
果てしなく続く銀河を載せた碧眼に吸い込まれそうになりながら、春子はまたしても言葉を転がした。
「だめじゃ、ないけど……ふつうに玄関からきて」
彼もトンチンカンだが、自分もたいがいだな。春子は胸中で呆れる。
その言葉を受けた五条は、一瞬すばやくまばたきをしたが、ふ、と口もとをゆるめ、「今度はそうするよ」と目隠しを戻した。
「へえ、春子ここで寝てるんだ」
「ちょっとそこ寝室」
突然の来訪者を迎え入れ、春子はせめてもの歓迎として麦茶を運んでいた。1LDKの春子の部屋はリビングから寝室がひとつなぎになっている。決して豪勢とは言えないが都内の単身者用としては一般的な、むしろやや郊外を選んだともあって値段のわりには広い部類であった。
「このベッド小さくない? 子ども用?」
「成人のシングルベッドはこんなもんだよ。五条くんクイーンとかキングでしょ」
「うーん、気になる?」
「そんなに。はい、もう寝室は終わり!」
春子は麦茶の載ったトレイを手にしたまま、寝室を覗いてふむふむとあごに手を当てる大男の体を動かそうとするが、びくともしない。
「見られちゃ困るものでもある? あっわかったエロ本でしょ、やだなー、春子、大丈夫僕そのくらいじゃヒかないから。女の子も見ていいと思うよ、うん、むしろなんかイイからもっと見て」
「ばかじゃないの!」
そんなこんなでムードもへったくれもない調子で秘密の逢瀬は始まる。
だが、春子はかえって調子を変えない五条に内心感謝していた。これが少しでもあの日の温度を感じさせるものだったら、春子は壊れかけのロボットと化してしまっていただろう。
すっかり「保健室のセンセイ」という鎧を脱ぎ去って、春子は学生時代の友人にするように辛辣な言葉を浴びせる。もっとも、五条にとっては赤児の頬をつつくほどの威力であったが。
なんとか寝室の引き戸を閉めて、デリカシーを母の胎内に置いてきてしまった、有象無象を牛耳るゴーイングマイウェイ男をリビングに引き戻すと、春子はソファに座らせる。
「夕飯は?」
「お、もしかして春子つくってくれるの」
「簡単なものなら作れるけど」
チューハイと焼き鳥で済ませようとしていたから、準備は必要だが。グラスを前に置くと、彼は、「ま、急だったし、いいよ。お気遣いなく」と彼はめずらしくしおらしい態度を見せた。
そう、となんでもないふうを装って春子はトレーを戻しに立ちあがる。
……にしても、お風呂に入ってなくてよかった。
五条に背を向けて、春子はひとり髪の毛を耳に掛けなおしながら思った。一日働いたあとの顔は曲がりなりにも万全とは言えないが、少なくとも、許可もなくテレビの電源を入れてさも自分の家ですとばかりにくつろぐ、顔だけは百億点満点の男を前に、すっぴんを晒すよりはマシだろう。しかし、そこまで考えて春子は小さく頬を叩く。
なにそんなこと気にしているんだか。まさか、それほど気にしているなんて、意識しているも同然じゃないか。ひとりごちる。
しかし、本当になにをしにきたというのか。トレーを置いて、お茶請けがないかを探りながら五条を盗み見る。
夜九時いわばゴールデンタイムのバラエティ番組を見て、「えー、いやいやそっちじゃないでしょ、絶対Bのヴァイオリンだって。僕でもわかるよ。Aは絶対やっすいやつ。ほら、ってえ? 違うの?」と一人問答をする姿は、驚くほどその場に馴染みすぎていた。当然、あの洋服と目隠しはそのままなので、春子はなんとも不思議な心地になるのだが。
それに、ただ、顔を見にきただけなど、言葉は悪いが信じられるわけがない。わざわざ、教えてもいない家を突きとめてまで、そうする男だろうか。春子は思う。
もしや、“まだ”恋人ごっこでもしているつもりとでも言うのか。
そんなこと……春子は穿った思考を閉ざすように短く瞑目した。
