「伊地知、あのパンケーキ屋のことだけど」
裏原と呼ばれる表参道から原宿までの側道を原宿に向かって進みながら、五条は携帯を耳に当てる。
ワンコールで出た高専職員に矢継ぎ早に告げると、電話の相手はおののくこともなくこれまた端的に彼の要件を呑み込んだ。
「では、本日中に役所へ手続きを届けたのち、明日には伏黒くんを連れていきます」
「よろしく。あ、なかなかおいしかったから、被害は極力抑えるよう言っといてくれる? 地方出張前にもう一回行きたいからさぁ。できれば明後日には営業再開させて」
「……尽力します」
横暴なことを押し付けられるのももはや慣れっこなのだろう。不承不承ではあるが良き返事をした部下である伊地知に五条は、「頼んだよ」と念を押す。
「それと」
五条は長い脚を止めて、うしろを振り返った。
「私立渋谷煌心女学園の件覚えてるか」
真昼の表参道、行き交う人々、そこかしこで聞こえるささやき、天から射し込む光、樹々のそよぎ、混じり合った混沌の香り。流れこむ音、光、におい。すべてが脳裡に刻まれる。
「ええ、たしか一級呪霊がでて、五条さんが対処されたんですよね」
「そう、それ。そこの窓の連絡先教えてほしいんだよね。できればいますぐ」
「今すぐって……少々お待ちください」
「五秒な」
んな無茶な……とぼやく声がするが、有能な部下は自前の窓帳を引いてくれているのだろう。五条は先に見える街の喧騒を眺めながら、サングラスの下で目を薄く閉じた。
――五条くんは鳥だよ。春子の声が耳の裏をなぞる。止まり木を手放した鳥。なににも囚われず、自由に飛び回り、どこまでも飛んでいく。
「鳥ねぇ」
侮れない。どこまでこの女は侮れないのだろうと五条は思った。素知らぬふりをして、どこまで知っているのだろう、と。知るはずもないのにだ。
「マグロのほうがまだマシだろ」
どうしようもなく、言い当てられた気がして癪に障ったのだ。手放す必要のなかった枝を、手放したくなかったはずの止まり木を、みすみす失いそして自ら手折ろうとしているのは自分だ。しかし、なにも知らぬ女に見透かされたくもなかった。見透かされるはずなどなかった。だというのに。
果たして自分は、尾羽を燃やして飛び続ける不死鳥か、それとも、生き急ぐ黒死鳥か。どちらにせよ果ては屍だ。
苛々する。そうだ、どうしようもなく。喉の奥がむず痒くなるほどに。この喉を搔き裂いて、腹に蠢く獣を喚び醒まして、この手で喰らってしまいたくなるほどに。五条悟が叫ぶのだ。
往来に彼女の影はない。しかし、残像が残る。音、光、匂い。そして、くちびるに、熱が——消えない。
「お待たせしました」
伊地知の声が宿り、五条は落ちたサングラスを指で押し上げた。
「遅い。何分経ったと思ってんだよ、伊地知のくせに」
「まだ二分ほどしか経っていませんけど」
「五秒って言ったでしょ、まったく僕の一分五十五秒を無駄にするなんてそんな子に育てた覚えはありません」
「いや、育てられた覚えがそもそもありませんよ」
「カーッ、言うようになったな伊地知も。罰として駅前のパティスリーの限定シュークリームね。あと、昨日の仕事で橋一個潰しちゃったからその修繕工事の申請も役場にしといて」
「さりげなく重要な用件も足さないでくれますか」
そう言いながら完璧に事務処理をしてくれるのがこの部下だ。五条が心配もせず、それで、と情報を催促をすると、伊地知はきっちり渋谷煌心周辺の窓の情報を伝えた。
「それでは私このあと補助監督の仕事がありますので」
伊地知が通話を終えようとするのを五条は遮る。
「あと、負傷者のリスト。各所から回収しておけ」
途端電話口が騒がしさを取り戻した。
「ちょっ、渋谷煌心の? 文科省にも警視庁にも提出してるんですよ、そんなのハッカーじゃないと、って五条さ――」
五条は電話を切った。
*
嵐を呼んだ月曜日は過ぎ去り、春子の元にもようやく平穏な日常が戻ってきた。
――かと、思われた。
「春子ちゃーん? おーい」
明るい声が響くが、デスクでボールペンを持ったまま明後日の方向にある変なパンダの置物を見つめる春子は気がつかない。
「春子ちゃん!」
心配になった女子生徒が保健室に入り、目の前で顔を覗き込んで彼女は意識を取り戻す。
「……えっと、なにかな?」
「昨日借りた氷のう、返しにきました」
ぱち、ぱち、すばやくまばたきを繰り返し、いまだうつけた調子の春子に、やれやれといったそぶりで生徒は青色の氷のうを差し出す。
「あ、そっか、わざわざありがとうね」
「わざわざって、これ先生のじゃん」
「保健室のね。たまたま鞄に入ってたのよ。ところで、足首大丈夫だった?」
昨日、春子が仕事を終えて最寄り駅まで向かった際、階段から落ちそうになった彼女を助けたのだ。
見慣れた顔のソフト部数人が前を歩いているなあと思っていたら、ふと上から少女が降ってきたときはさぞ驚いた。なんとかとっさに受け止めたものの、段差を踏み外した拍子に足を捻ったらしく、そのまま春子が応急処置まで済ませた。
「ん、このとーり!」
春子に訊かれた少女はハイソックスを下ろして、テーピングの巻かれた足首を見せる。
「あちゃあ、やっぱりねんざ?」
「そー、大会前なのにやんなっちゃうよー」
先述したとおりたまたまた入っていた氷のうと、駅のコンビニに売っていた氷のおかげで、すぐにアイシングがしたのが幸いしたらしいが、全治一か月ほどの捻挫だそうだ。
ふへー、と保健室のソファーに座り込んだ彼女にくすりと春子は笑う。
「今度から足もとはよく見て歩かないとね」
「いつもならこんなことないんだけどなー、なんか急に階段がなくなったんだよ」
「足を踏み外す人は、皆よくそういうものです」
ぶーぶーと不服そうな声を受け取りながら、預かった氷のうを持って立ち上がる。
「てか、先生、あのイケメンとはどう? 連絡とってます?」
途端、春子の動きがロボットのように止まった。
「あはっ、春子ちゃんわかりやすっ」
「あなたが余計なことを言うからでしょう。もー、大人をからかうんじゃありません。それに、先生、でしょ」
「はーい、春子センセ。でも、いいじゃんあの人。ノリ良さそうだし、背、高いし、それに運動できそうだし」
指折りして、ニシシ、といたずらに笑う少女に、春子はため息をつく。いかにも運動部らしい答えだ。恐怖の記者会見並みの追撃を乗り越えてようやくブルー・マンデーを抜け出したと思ったのに、やはり惚れた腫れたの話は長く引きずるもの。
「大人になるとね、いろいろあるのよ」
「いろいろって?」
「たとえば、ノリがいいのと足が速いのだけで選ぶと苦労する、とか」
たしかに小学生のころまでは、クラスの人気者といえばいつも、おもしろい、足が速いなどの目立つ能力を持つ男子が選ばれがちだが、歳をとるとそうもいかないのが実情だ。食べものや好み、その他もろもろの価値観は合うか、性格は合うか、お金は必要最低限あるか、それから相性(、、)がいいか、などなど。さすがにそれを女子中学生に真剣に説きはしないが。
「えー、でもイケメンだよ、すっごく!」
「それはまあ、そうだけど」
春子はとある人物の顔を思い浮かべる。素顔を完全に見たことはなかったが、たしかにあれは整っている部類だ。いや、整いすぎている。銀色の髪はまるでプラチナからすべての雑成分を取り除いた完全な物質を溶かし細い糸にしたような繊細な色合いで、瞳はまるで銀河だ。碧い銀河。スッと通った鼻すじに、形よいうるんだ唇。
いつのまにか、春子は自分の口もとを指でなぞっていた。
「ほら、付き合っちゃいなよぉ、あとは先生がオッケーするだけじゃん!」
女子生徒がにやにやと見つめてくる。春子は指先を握りしめて本日何度めかのため息をついた。
「というか、そういうのじゃないのよ。ただのしーりあーい。さあ、用がないならもう行った行った」
「えー! のろけくらい聞かせてよー!」
「あーりーまーせーん」
「先生のケチー!」
ぶーぶーもまたもやブーイングをあげる生徒を無理やり保健室から追い出して、春子は紅い顔で氷のうの片付けをした。
春子の脳内を占拠していたのは、言うまでもなくあの神出鬼没の男、五条悟のことであった。生徒たちの間でまことしやかにうわさされる内容のことではなく、その後のこと。
一瞬の、空白。否、脳を溶かすほどの熱の伝播――五条が春子にキスをした。あんな真昼のパンケーキ店で、しかも、いともたやすく、軽々とテーブルに身を乗り出して彼は春子のすべてを奪っていったのだ。
――そんなに僕、ダメだった?
など言っておきながら、冗談にもそんなこと思っていないそんな顔つきで。たちが悪い、と春子は思った。それでも、あの衝撃がいつまで経っても消えなかった。
あのあと、なにごともなかったようにパンケーキを食べて、互いに用があるからと別れたが、どうやって駅まで歩いて、またどのようにして家まで帰ったのか覚えていない。あんなにも楽しみにしていたパンケーキの味でさえも。一口めの溶けるような舌ざわりを感じたあと、すべては五条悟のキスに包み込まれてしまった。
「ほんと、わけわかんない」
五条の行動原理も、そして、自分の情緒不安も、この脈打ちも。
否、後者二つに関しては、とてもよく春子は知っていた。もはや初恋だなんだと騒ぐほど子どもでもなく、それなりに経験のある大人だ。それにこの職業柄、思春期の悩みを多く抱える中高生たちを毎日相手にすることもあって、実際にその悩み相談を受けることもあれば、全校生徒を相手に講習会を開くこともあった。だから、だれよりも客観的に判断できる自信があった。
しかし、想像よりもはるかに遠く、実際の感情は春子の手から離れていってしまった。
「……ばかじゃないの、五条くん」
好きでもない人間に、恋人にする気もない人間に、キスなんてしてはいけない。そんなの今どき小学生ですらわかっていることだ。しかも、あえて自分は、冗談を言ってきた彼に突き放す言葉を突きつけた。
「……もう、来ないかなきっと」
こんなはずじゃなかった。ただ、互いにつかの間の憩いを楽しむ関係だったのに。はなから、いつ終わったっておかしくはないと覚悟をしていたつもりだったじゃないか。それがいつから特別になり、次を期待するようになった?――いつから?
いつものくせで、多めに取り寄せておいたお菓子も無駄になってしまうかもしれない。せっかく、鎌倉からおいしいクルミのお菓子頼んでたんだけどな、春子は唇をなぞる。
もうこれきり会わないのなら、会わないのでもいい。この感情の行き場を探さなくて済むから。しかし、ざらついた感触が春子の指を撫でた。
「……ばか」
春子の城が少しだけ色を変えた瞬間だった。
