夜、喉の渇きに目が覚めて二階のダイニングへ出ると、窓辺にかけられたレースのカーテンに小さな影が揺らいだ。
「眠れないのかい」
月は傾き、山際に姿を消そうとしている。そっとカーテンをかき分けてその影に近づくと、彼女はゆっくりふり返り、ダイゴをその瞳に映してまた空へと視線を戻した。
「朝が、こわいの」
ぽつりとこぼれた音が宵闇にほどけていく。シダケの空気は、カナズミよりもトクサネよりもはるかに澄んでいて、ほどけたやわらかな欠片がダイゴの耳をすり抜け、脳髄へと突き刺さる。
ダイゴはわざとぱたりとスリッパを鳴らして、彼女の横へそっと並んだ。
「どうして」
月明かりの残滓が彼女の頬を淡く金色に染めている。ふっくらとした、女性らしい流線に沿ってきめ細やかな肌が淡く煌めき、まるで、天女が光のもとから舞い降りたみたいだった。長く濃い睫毛が目元に憂いを落とし、深淵なる瞳はすっかり宵闇を纏ってしまっている。
そこにも煌めきが載っているはずなのに、今にも消えてしまいそうでダイゴは彼女に触れた。やさしく頬をなぞり、顔の横に落ちた髪をひと房すくって口づける。彼女は小さく肩をふるわせ、あえぐように息を吸ってから瞳を閉じた。
「この夜が明けたら、わたしはまた人間でも、ポケモンでもない存在に戻ってしまう」
ダイゴはなにも言わずに、二、三、髪を梳かしたあと彼女の頭蓋をそっと自分の肩へ押しつけた。
「人間から生まれたはずなのに、親の顔を知らないから、わからないの」
光の輪を纏ったうつくしい髪にキスを落としながら、小さく、うん、と相づちを打つ。
「人間じゃない気がする。この体に流れる血が、あなたと同じものだったらいいのにって、そう思うのに。わたしの体が、細胞が、そうじゃないって否定するの」
ぽつり、ぽつりと彼女が落としていく言葉たちは、まるで吟遊詩人の祈りだ。
「あさがこわい」
震え声がダイゴを貫く。
「あさなんて、こなければいいのに」
やわく、そして、鋭く、密かに育まれていた衝動を刺激し、さらに膨れあがらせる。あと少しでも触れたらきっと破裂してしまう。胸が熱く、それでいて、冷たい夜風が吹きつける。
「この罪から、逃れられることなんて、ないのだわ」
昼間の目映い太陽が恋しいほど、なんて切なく、うつくしく、残酷な月夜なのだろう。彼女の唇からほどけた言葉がついぞダイゴの中の腫れた箇所を突き破る。
「きみを、きみをここで食べてしまえば、ボクもその痛みを知れるかい」
腕の中で、彼女がみじろいだ。さわやかなソープの香りがする。それから、喉を突くような甘く苦い彼女の香りが……。
破裂したそこがもう元に戻ることはない。胸はただれ、じくじくと甘美な痛みを受け容れるほかないのだ。それだのに、その痛みは彼女の痛みよりはるかに軽く、陳腐で、はたまた愉快なものでもあった。
それがダイゴには赦せなかった。彼女を助けるはずが、いまだなにひとつ解決してやいない。それどころか、彼は解決しようとする努力すらしてこなかった。
ただ彼女と過ごし、彼女の必要なものを揃え、彼が与えてやりたいものを与えてやった。それだけだ。たったそれだけなのに、彼の心は彼女で満たされていた。
「君を助けたい。君を助けられるのなら、ボクはなんでもする」
ダイゴは必死で彼女の頭蓋を抱き、頬にその熱を刻みこむ。
彼女が苦しまなくてすむのなら、新たな一日を恐れなくてすむのならば、彼はどんなことでも甘んじて引き受けただろう。たとえ、それが罪だとしても、その身に喜んで彼女と同じ罰を受ける覚悟でいた。
彼女が泣かなくてすむように、もうこれ以上、苦しまなくてすむように。
「ころして」
吟遊詩人の祈りは、なんてうつくしく、残酷なのだろう。
ダイゴは彼女のつむじにそっとキスを落とす。互いに分け合う熱が風に薄れていく。
山際は少しずつ白み始めていた。夜が明けてしまう。だが、それまではまだ幾分か時が残されているだろう。
果てなく続く楽園など、どこにもないものだ。
それならば――。一抹の光を胸に抱きながら、ダイゴは彼女とともにどこまでも堕ちてゆく。
「それで、君が解放されるのなら。君を殺して、ボクも死ぬよ」
閉じたまぶたの裏がちくりと痛み、全身を渦のような血潮が駆け巡っていた。
人はみな罪深き生き物だ。
その罪の大小は異なるとして、だれしも罪を犯さずに生きることなどできやしない。そうして人は罪を背負い、それを償いながら生きていく。
罪とは、良心を生まれ持った人間の性であり、罰は、彼らに与えられた人生そのものである。
翌朝、ダイゴはリビングのテーブルに一枚の紙切れが載っているのを見つけた。目が痛むほどの真白の紙に、流れるようなうつくしい筆跡。
それが、彼への断罪であった。
