第二話 おとぎ話

「おやじ? ああ、もうこっちに帰ってきてる。すまないけど、約束の時間には間に合いそうにないんだ。うん、ちょっと、いろいろとあってね。落ち着いたらまた連絡する」
 ふう、と息をついて、ダイゴは通話を切った。ツワブキムクゲ、その名が映し出された画面はやがて音もなく消えていく。
 長らく音信不通にした父からは、小言のひとつやふたつ言いたいだろうことが終始声から窺えた。本当ならば、このまますぐ近くのデボン本社に向かい、なにごとも迅速にかつ滞りなくすませたいのだが――ダイゴは木陰で休む彼女の姿を視界の端に認めると、またひとつ小さく息をついて、ポケナビをジャケットの内ポケットにしまいこんだ。
「血は止まったかい」
 声をかけると、女性は小さく肩を揺らした。
 肩にかけたストールはところどころうす汚れている。見るかぎり、上等なマユルドの絹糸でしつらえられた西欧伝統の紋様織だが、それなりに年季が入っているようだった。
 きっと頭から腰までをすっぽり覆えてしまうだろうそれの中で、彼女は自分の身体を抱きしめている。問いかけに、こくり、彼女が小さく頷くと、ダイゴはその前に歩み寄りしゃがみこんだ。それから、必要以上に警戒させぬよう微笑を浮かべながら、「失礼」と断りを入れて額にかかった髪をよけた。
「うん、止まっているね」
 それどころか、傷口さえ塞がっていた。聡明さを描いた丸い額に浮かぶ桃色の流線を見つめ、驚きそうになるのをこらえて手をひっこめる。彼女が頑なに、大丈夫ですから、と言っていたのは、ここにも理由があるのだろう。
「ごめいわくを……」
 その先の言葉は掠れていてほとんど聞きとれなかった。だが、言いたいことは過分にわかった。「迷惑だなんて」と肩をすくめたダイゴに、彼女は不思議な色彩の瞳をもたげる。
 光に当たると、金色にも碧にも、はたまた紅にも見える。ヘーゼルの瞳だ。そこまで見事な虹彩をダイゴはこれまで見たことがなかった。一瞬の空白ののち、その瞳に吸い込まれていることがわかると、ダイゴは静かにまばたきをしてむりやり視線の糸を切った。
「それで、その傷はだれかにつけられたのかい」
 彼女はふと長い睫毛を伏せた。
「これは、あの子のケガをみてあげようとして、ひっかかれてしまったんです」
 あの子、と指差した先、草むらの陰からピンク色のしっぽがのぞいている。
「エネコ、か」
「子どもたちにいじめられているようでしたから。ひどいケガだったんです」
 結局、見せてもらえませんでしたが、と息をつく彼女に代わり、「どれ」とダイゴは立ち上がる。草むらに歩み寄り、チチチ、と小さく舌を鳴らすと、つまんだような細いつり目のエネコが顔をだした。
「たしかに、手ひどくやられたようだね。おいで、傷を治してあげる」
 元来野生のポケモンに手を加えることはあまりよしとはされていないが、エネコは警戒していながら、彼女のことが気になるようであった。
 とことことゆっくり姿を見せたエネコの頬や脚には、ところどころ赤いすり傷のようなものがついている。スラックスのポケットからキズぐすりをだして吹きかけてやると、エネコは小さく鳴いた。
「ありがとう、って言っています」
「君は……」
 ダイゴが振り返ると、彼女はストールを頭からかぶって、ヘーゼルの虹彩を瑞々しい瞳の中で震わせながら彼を見ていた。しばし見つめ合ったあと、エネコがトトトと彼女のもとへ飛びだす。あっと思ったのもつかの間、白く華奢な手にすり寄り愛らしい鳴き声をあげていた。
 長い睫毛がふっくらとした下まぶたに陰を落とし、憂いを帯びた彼女のうつくしさを助長する。ダイゴはじっとその姿を見つめていた。目を奪われた、と言ってもいいかもしれない。
 エネコはまるで謝罪でもするように彼女の手の甲に頬をすり寄せる。ごろごろと喉を鳴らし、やがて満足したのか、草むらへと帰っていった。彼女はそれを最後まで見送ると、ダイゴへ視線を戻した。
「きみのことを、少し訊いてもいいかい」
 ためらいがちに、だが、真剣な音色を込めてダイゴが言うと、彼女はこくりとストールの中で頷いた。
 幼少期から、その不可思議な力が彼女には備わっていた。まだ自分の意思でしゃべれぬ赤児のころから、ポケモンとまるで意思疎通をはかっているように戯れ、ケガをすると血はあふれ出た瞬間に結晶化した。それだけでなく、数分も経たぬうちに血は止まり、皮膚は再びつながった。親はなく、物心ついたころには、カロスのとある森の中で祖母と二人暮らしだったという。祖母が言うには、父は早くに病死し、母はそんな奇異な娘を恐れてどこかへ逃げた。祖母は彼女のたった一人の身内であり、親友であった。
「それで、ホウエンへはどうして?」
 カロスからホウエンへは、それなりの距離がある。見たところ、単なる旅行ではないことは明らかだ。
「逃げる、ためです」
 彼女はそっと瞳を伏せて言った。
「逃げる?」
 ダイゴが眉根を寄せると、彼女ははっきり瞑目した。
「この身体を狙う、ひとたちから」
 祖母に引きとられてから、彼女はカロスのシャラシティに近い、森の中の小さな家で暮らしていた。スクールにも通わず、外の世界と馴れ合うこともなく、祖母と仲睦まじく穏やかな生活を送っていた。
「あなたのからだは、ひととはちがう、特別だから」
 そう言って祖母は彼女に愛を注いで育ててくれた。不必要に血を流すこともせず、その力ゆえ迫害や差別に恐れ、怯えながら暮らすことも、その生活のおかげで、ほとんどなかった。だが、あるとき事態は一変した。
 森の中で、密猟をしにきた男たちに見つかってしまったのだ。いつものようにポケモンたちと戯れていた彼女は、騒がしい森の様子に異変を感じとると、草木をかきわけて進んでいった。その先に、網によって大量に捕らえられたポケモンたちの姿があった。たくさんの悲鳴や助けを求める声が脳裡に届く。たすけて、たすけて、と。こんなことあってはならない、彼女は危険を顧みず、彼らを助けようとした。だが、網に近づいた彼女を銃弾が掠めた。密売人によるものだった。弾は肩を掠めた程度だったが、流れでた血が結晶化したのを、男たちはその目でしっかり捉えていたのだ。
「天然のピジョン・ブラッドだ、そう言われました」
 ピジョン・ブラッド――世界最高峰とされる、ルビーのことだ。
「非加熱の、それでいてあそこまで見事な色合いのルビーはたしかにめずらしい。けれど、ふしぎだな、ルビーは本来鉄分を含むと青みを帯びるはずなんだ」
 ダイゴがついくせで鑑定人のように顎に手を当てて言うと、そうですか、と彼女はストールをきつくたぐりよせた。ダイゴはしまったと思いバツの悪い顔をした。
 しかし、たしかに、ピジョンの血のように鮮やかで色濃い、その稀少価値の高いルビーが彼女の身体からこぼれ落ちたとすれば、密売人たちは喉から手が出るほど欲しがるはずだ。――そう、かつてディアンシーが密猟者によって、その身をとらえられそうになったときと同じように。
 ダイゴはそっと彼女の額を見遣る。つるりとした形よい額。そこにできた桃色の傷痕は、すでに目を凝らしてみなければ確認できないほど、薄くなっていた。ぽろり、こぼれ落ちたルビーの結晶。小指の先ほどの深紅の宝石が転げるさまは、まるで、熟した果実から実があふれるようだった。
 うつくしい、その言葉に尽きる。割れた皮膚の間からこぼれる真っ赤な珠。血なんてまがまがしい呼び方をしてはならない――そう、まさにたわわに実った柘榴だ。
 ごくり、生唾を飲んだ自分に気がついて、ダイゴは慌てて思考を戻した。
「君の、おばあさんは?」
 白いまぶたを閉じたまま首を横に振った彼女に、すまない、とダイゴは謝った。
 以来、彼女は追われる身となり、命からがら逃してくれた祖母の亡骸を弔うこともできないまま、独り船に乗りホウエンまでたどり着いたのだった。
「いつか、こうなるときが来るかもしれないと、心の中ではわかっていました」
「それはどういう……」
 ダイゴの言葉を遮って、彼女は長い睫毛を震わせながら先ほど自らの血から生み出したルビーを差し出した。
「祖母はわたしに包み隠さずいろいろと教えてくれました。この身体のこと、それから、この身体になってしまった理由。――罪なのです」
 彼女は言った。
「そして、この身体こそが罰なのです」

 彼女は助けてくれた礼に、産出されたルビーをすべてダイゴに握らせようとした。礼とは名ばかりで、実際には手切れ金のようなものであった。
 大粒の、しかもこれほど純度の高くうつくしいピジョン・ブラッドは見たことがない。
「売ればきっとそれなりになります」
 そう彼女は言ったが、ダイゴの目利きでは、おおよそ「それなり」という見積もりとはかけ離れている。つまりは暗にそのルビーを手にする代わりに、カロスから逃げてきたこと、それからその肉体のこと、もとより自分のような女と出会ったことすら忘れてほしい、ということであった。
「これは受けとれないよ」
 ダイゴか大事にそのルビーたちを手のひらで包んで、かえって彼女の手の上に戻すと、きれいに弓を描いた眉が微かに歪んだ。
「ボクはだれにも君のことを話すつもりはないし、利用するつもりもない。生憎、お金には、困っていないからね」
「ですが」
 ダイゴはぎゅうと彼女の手を包みこみ、やさしく微笑を浮かべて肩をすくめる。
「それに、君のものなんだから、もっと大切にしたほうがいい」
 小さな子どものように、呆然と見つめてくる双眸に笑みを深めて立ち上がった。
 背を向けて、さて、どうするかと首を二、三捻る。このままカナズミに向かってもいいが、彼女を放っておくわけにもいくまい。本当ならば、公的機関に保護してもらうのがいいが、彼女がそれを受け入れるかどうか。
 エアームドが見かねたようにアタッシュケースを咥えてくる。まだ飛び発つわけにはいかないのだが、ありがとう、とその首を撫でていると、小さく呼びとめる声がした。
「……てください」
 ダイゴは振りかえり、すばやく目を瞬いた。
「わたしを、たすけてください」
 かくして、ダイゴの選ぶべき道は決まったのであった。

 それからは順調に事が進んだ。ひとまず彼女を連れてカナズミに飛び、父の待つデボンコーポレーションへ向かった。人に会うことに対し、彼女はひどい怯えようを見せたので、使用していない応接室に鍵をかけて待機してもらうことにした。
 ムクゲは想像通りいくつかの小言を寄越してきたが、それでも、もうとうに大人になった自分を尊重してくれてはいるようだった。手早くカロスでの調査結果を報告し、それからまた、しばらく会社には顔を出せないことを告げる。今度はこまめに連絡すると自主的に約束をしたが、彼がこの先なにを行おうとしているかについては、喉に出かかったところで飲み下した。
「なにか、相談ごとがありそうだが」
 去り際に、ダイゴの迷いを確信的に突いてきたことにはたいそう驚いた。だが、「いつか話すよ」と子どもじみた言葉を返して、ダイゴは社長室をあとにした。結局、親の前ではいつまでたっても子どもは子どもなのだ。
 そうして用事を済ませると、ダイゴは彼女を連れてトクサネまで飛んだ。
「新しく家を用意するから、今日だけはここで勘弁してくれるかい」
 本来ならば、自宅に異性を――それも、懇意にしている仲でもない、妙齢の女性を、だ――招き入れるなど褒められたことではないだろう。だが、現状では信じられる人間は己のみだとダイゴは苦渋の決断を下した。
 かまわないとばかりに狭いワンルームの我が家を見渡す彼女は、まさに幼な子のようだった。まるできらびやかな城に足を踏み入れたみたいに、ぐるりと純真なまなざしで景色を目に焼き付けている。
「めずらしいものでもある?」
 ダイゴが靴を脱いで小上がりに上がると、彼女はハッとしてすぐに、「すみません」と謝った。
「いや、かまわないよ。自分の家だと思って好きにしてくれていい。その、なにもないけれど」
 彼女はふるりとかぶりを振った。
「すてき、だと思います」
 なにがすてきなのかはわからないが、ダイゴはまなじりを緩めて、そっか、と息をもらした。
 彼女にシャワーを浴びさせているあいだ、急いで着ていた服を洗い乾燥機にかけた。ストールは大事なものであるだろうと彼女に任せて、ダイゴはベッドに横たわる。
 ザアザアともれだすあえかな水音を聞きながら、まるで映画だな、と彼は思った。
 助けた女性が実はある国の姫君で、悪の組織から彼女を守る、イッシュだかガラルだかのひと昔前のスパイ映画だ。自分は類稀なる運動能力や他人を守る銃の腕を持っているわけではないし、彼女こそ姫という身分ではなさそうだが、それでも、見るものすべてに目を輝かせる彼女を見ていると、高貴で世間知らずでおてんばな姫みたいだとも思った。
 今まで守られることの多かったダイゴにとっては、かえってこれが新鮮でもあった。
 しかし、同時にとんでもないことに巻き込まれてしまったな、とため息がひとつ自然と口からこぼれた。よもや、まるでおとぎ話のような状況に見舞われるとは――カロスであのような本を託された因果か。
 ダイゴは起き上がると、アタッシュケースにしまいこんでいたあの古書を取りだした。
「想いのこもった涙は至高のダイヤとなり、血はルビーとなる」
 掠れたインクを指でなぞると、不意に、指先がチリチリと痺れた気がした。
「まさかな」
 はあ、と何度目かになる深いため息をついて、彼は本を閉じる。
 ガラッと浴室のドアが開く音がして、彼は慌てて本をベッドの下へとしまいこんだ。