「仕事がないって、さいっこぉ」
 穏やかに、潮騒が耳を撫でている。ザザァン、ザザァン、波が白浜に打ちつけて、また海へ戻っていく。ホウエン地方、南の離島ムロ。私は一枚五百円のレジャーシートを敷いて、その上に寝転んでいた。
 真上から照りつける陽射しが痛いほどに身を灼きつける。サングラスなしでは、きっとすぐに目がやられていたことだろう。四肢を投げだして無防備にも仰向けになり、空に飛ぶキャモメを数えていた。
 ガラルを離れてから早一ヶ月。私はこの長閑すぎる島でただひたすらに悠々自適な生活を送っていた。
 朝、日の出とともに目覚め、浜辺に向かい軽くからだをほぐしたあとはシャワーを浴びてまたベッドに戻る。勤めていた会社は勢いで辞めたため、いつまで寝ていても怒られることはない。そうして二度寝して目覚めたころには太陽がかなり高い位置にあり、寝晒しの格好のまま、暑さにうなだれながらブランチをとる。ブランチといっても、ムロにお洒落なカフェはないため、お世話になっている民宿で和食定食かジャムトーストと薄いコーヒーを飲むくらいだが。
 ブランチを済ませてからはまた海へ出る。映画のエンドロールにもなっていた、洞窟近くの白浜だ。何年か前に撮られた映画ではあったが、その美しさはスクリーンの中のままだった。そうしてそこにムロ唯一の酒屋で売っていた、色のあせたレジャーシートを広げて寝転ぶ。それが、私の日課になっていた。
 マクロコスモスからの謝礼はかなりの額であった。もとより、こうして私が海外へ高飛びすることを見越していたかのように、無駄遣いしなければ一年は呑気に暮らせるほどの大金を彼らは私に用意した。
 思い返すたび、まるで映画みたいだなと思う。友人と一夜を共にして、関係が発展。ハッピーエンドに見せかけて、黒い影が忍び寄る。その黒い影に私は気がついていなかったのだが、そうして二人は引き裂かれ別々の人生を歩んでいく。
 私が映画監督ならば、ここでがむしゃらに自己研鑽を行い新しい出会いが訪れるようにするが、人生とは、そうスクリーンの中のようにうまくいくものではない。
 ムロの海ではメノクラゲがなにも素知らぬ姿でそれこそ呑気に揺曳している。岩場で釣りをしているおじさんの浮が沈み、竿が大きくしなる。波が寄せては返し、細かな砂をさらっていく。耳を撫でる潮騒がやさしい。
 ふいに泣きそうになって、腕で視界を遮る。
「お、今日もヒマしてんのかい」
 この島は温かい。そうやって飛んできた声にやおらからだを起こして、サングラスを額まで上げる。
「今日もってねえ、失礼な。私、バカンスに来てるんですう。ヒマするのが仕事なんですう」
「そうかいそうかい、んならあとでうちへスイカを食べにきい。ボウズが姉ちゃんに会いたがってたで」
「ありがとうございまぁす」
 沖へ少し出たところでは、ジムリーダーのトウキさんが波に乗っていた。

「ねえちゃん! ガラルじゃ、このポーズがはやってるんだよな!」
「ええ、こうでしょう? それじゃリザードンじゃなくてナッシーみたいじゃない!」
 島の少年少女たちに、ガラルで流行しているものを教えてと言われるのには、もう慣れた。リザードンポーズなのかなんなのか、珍妙な立ち方をする彼らに笑って縁側でスイカにかぶりつく。熟れたスイカはみずみずしく、なんとも甘かった。「まだあるからねえ」というおばあさんの言葉に礼を述べながら、ああだこうだと海を背景に議論を交わす彼らを眺めていた。
 陽射しは目映く、それでいて爽やかで、まさに八ミリフィルムの中みたいな光景だった。そよぐ風の生温さが今では心地好い。こんな小さな島だ、映画の撮影のときは、きっと大変なさわぎだったのだろう。
「ねえちゃん、ほかにはなにがはやってんだ?」
「ほかぁ? もうたくさん教えたけどなあ」
「あたし、あれがいい! 愛嬌のネズ!」
「哀愁ね」
 四六時中満面の笑みを浮かべたあくタイプのジムリーダーなんて見たくない。そう苦笑しながら、携帯で彼の曲を流してやる。
 映画の中ではもっと穏やかな、ピアノコンチェルトが流れていた。滔々と続く潮騒のような、あるいはしめやかに降りそそぐ雨のような、はたまた、照りつける烈日のような。
「これよりさあ、もっとこの島には合う曲があるじゃない?」
「えぇ! やだよぉ、うちのじっちゃんに、いっつも演歌ばっかり聞かされてるんだから、ねえちゃんといるときくらい、ナウくてカッコいいやつ聞かせてくれよお」
「ナウいってもはや死語じゃん」
「えっ、そうなの!?」
 あのスクリーンの中と同じ場所にいる。そう思うと、映画は人生の旅のようでもあり、また、人生は映画のようでもあった。ただ、ヒューマンドラマなんてガラではない。アクションも、SFももちろんちがう。ラブロマンスほど高貴なものでもない。小さな劇場でやるような三流ラブコメがいいところだ。もしかすると、DVDにすら焼かれないかもしれない。
 つつがなく日々は過ぎていた。一ヶ月、ガラルを離れてから一ヶ月も、こうして独りでやってこれた。畳はからだが痛くなるが、それでもふかふかの太陽の匂いのする布団で寝ている。おいしいご飯を食べることだって、笑うことだってできている。なんとか、やれていた。キバナがいなくても、どうにか生きていられた。
 心に傷がないといったらうそになる。ぽっかりと穴が空いたまま、いつまでもふさがってはくれない。だが、遅かれ早かれそういう結末を迎えることになっていたのだ。恋愛など、そんなものだ。
 いつか必ず終わりが来る。だからこそ危ない綱を渡るみたいで恋愛は燃える。こうなる、運命だったのだ。
 だから、いやだったのに。キバナと付き合っていなかったら、こうはならなかったのだろうか。キバナと一線超えていなければ、キスなんてしなければ、ポップコーンとサイコソーダを手にしながら今も楽しくただスクリーンの中の世界に憧れていられただろうか。キバナと、出会っていなければ……。
 すべては、過ぎたことだ。寄せては返す波にさらわれる砂のように、私の手の中にはなにも残っていない。なにもかも、変わってしまった。
「ねえちゃん! また明日な!」
「ごめん、明日は忙しいからむり」
「って昨日も言ってたけど、明日もどうせ寝てるだけだろォ!」
「大人は色々あるんですう」

 彼らの家をあとにして、ゆっくり民宿への道を辿る。西へ渡る太陽は、すっかり島の反対側へと姿を隠そうとしていた。地面に伸びた影がいっそう長く、大きくなる。潮騒が耳を撫で、そこかしこで夜を迎える甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「きれい」
 茜色に染まった空が美しい。照りつける太陽のなんと目映いこと。まるで、あまいみつの海にでも泳いでいるみたいだった。
「……元気に、してるかな」
 今日も一日が終わる。このまま民宿へ帰って、女将が電波の悪いテレビを叩く音を聞きながら夕食を食べて眠りにつくのだろう。
 時間は過ぎていく。自然や建物が寂れ朽ちていくように、私たちの頭の上にも等しくその時の移り変わりがふりそそぐ。なにも、変わらぬものなどない。なにも、昔と同じまま、残っているものなんてない。それでも、ホウエンのこの島は、私を美しく儚き思い出のただ中に立たせてくれるようでもあった。
「あれ、今帰り?」
 小高い丘を下って島の繁華街へ曲がる途中、海からあがったままのウエットスーツ姿のトウキさんと遭遇した。
「はい、またちびっ子たちに捕まって」
「ああ、みんな、島の外の人が好きだからなあ」
 トウキさんは窮屈そうなウエットスーツを、いともたやすく慣れた手つきで脱いでいく。袖口を腰で巻いて、引き締まった上半身があらわになると、彼は濡れた髪をかき上げた。夕暮れどきの強い西陽にトウキさんのシルエットが輝く。
「なにか、あった?」
 ぱちり、瞬いたブルージュの瞳にかぶりを振る。
「いえ、その、鍛えられているんだなあって」
「あ、これ? ポケモンバトルは体力勝負だからね」
 って、私の馬鹿。どこを見ていたかバレバレな答えに自分を心の中で叱責する。トウキさんが屈託なく、その上うれしそうに力こぶを作って笑っているのが救いだろうか。
「そうだ、明日一緒にサーフィンやってみるかい。きっと気にいるぜ」
「いいんですか」
「うん。どうせ、朝早くに起きてるみたいだし。ボク、その時間にいつもの浜辺で待ってるからさ」
 まさか、朝一番の散歩を見られていたとは思わず、私は気恥ずかしさにはにかんでうなずく。そろそろ、新しいことにチャレンジしたいころであった。
 気をつけて帰るんだよ、というトウキさんとマクノシタに手を振って、民宿への道をさらに辿る。だが、しばらくして、また私は海へ引き返した。
「……キバナ、幸せになれますように」
 きっと、キバナにはポケモンバトルも仕事もすべてにおいて支えてくれるだろうふさわしい人がいて、これから先その人と出会い人生を歩んでいくことになる。ずっと、一緒にいたからわかる。彼は私じゃなくてよかった。私なんかじゃ、もったいないくらいの人だった。
 昏れかかった海は魔物が手をこまねきそうなそんな不穏さがあった。だが、まっすぐに見つめて唇を噛み締めると、私は大きく息を吸い込んだ。
「バカヤロ――!」
 涙をこぼしながら、声を枯らす。
「私だって、ちゃんと、ちゃんと前向いて幸せになってやるんだから!」
 人生が長い旅路ならば、まだ私たちの前には道が続いており、ただ、それが、分かれてしまっただけのこと。そうなる、運命だったのだ。
 明日の朝日もしっかりと見よう、そう誓いながら昏れなずむ海を目に灼きつける。

「馬鹿野郎はおまえだ、ばあか」
 不意に聞こえた声に、世界が止まった。潮騒のさなか、ゆっくりとふり返る。
「キ、バナ……」
 いるはずのない、彼の姿がそこにあった。オレンジ色の夕焼けに似たヘアバンドに、浅く日に焼けた健康的な肌。見上げるほどに大きく逞しい体躯とはっと息を呑むほど美しい虹彩。
「どうして、ここに……」
 彼はそばに控えさせていたフライゴンをボールへしまい、静かに歩んでくる。
「オレさま、おまえのことならなんでもお見通しなんだよ」
 かなしばりにあった私を彼は広い胸へ閉じこめる。キバナの香りがした。さわやかで、すっきりしていて、それでいて甘くて少し塩からい。
「っていうのは、うそだ」
 私を腕の中へぎゅうと抱きしめたまま、耳元でキバナは言った。
「すっげぇさがした。あきらめようともした、だけど全然あきらめらんなかったんだよ」
 切なさの滲む声だった。彼にしては珍しいくらいの、弱々しく、潮風にさらわれてしまいそうなさやかな音色。私はそれを抱きとめていいかわからず、ただ、彼の熱に身をゆだねた。
「でも、仕事は、スポンサーは」
「そんなの、おまえに比べたらどうでもいいよ」
「だめだよ、キバナはナックルジムのジムリーダーで、たくさんのひとの人生を支えてる」
「おまえの人生は?」
 涙があふれ、彼の胸元を濡らした。
「おまえの人生は、だれが支えるんだよ」
「わ、たしは、ひとりで、歩けるよ」
「歩くなよ」
 抱きしめる力が強くなる。
「独りで、歩くなよ。オレが、歩けなくなるだろ」
 その力ははてしなく強く、また、見捨てられた少年のようにも弱かった。
「キバナ……」
 ゆっくり、彼の大きくて小さな背中に手を伸ばす。
「おまえより大事なものなんてない」
「うそつき」
「うそじゃない」
 うそだ。キバナには、たくさんの大切なものがあるのだ。ポケモンに、バトルに、リーグに、ジムに、それからスポンサーを通した仕事だって、彼はその腕の中に多くのものを抱えている。
「ダンデはどうするの」
「それと、これとは、話がべつだろ」
 バツの悪い声になる。だがその必死さにおかしくなって、泣きながら吹きだしてしまった。
「笑うなよ」
「だって、ダンデのことはうそつけないんだなって」
「くそ、どうせオレさまは万年ダンデに負け続けだよ」
「そこまで言ってないでしょ」
 抱きしめた背中をポンと叩くと、キバナは、「やったな」と耳元で囁いて私を持ち上げた。
「ちょっと、やだ、こわい! ぜったい、はなさないでよ!」
 唐突に訪れた浮遊感に涙がひっこむ。キーキーと騒ぎだす私を、キバナは目を細めてやさしく笑った。
「オレさまの世界は、おまえがいるから輝くんだ」
 ザザァン、潮騒が鳴る。あたたかな海風が私たちを包む。一日の仕事を終えた太陽が、今が盛りとばかりに最後の光を山ぎわから放っている。
「キバナ、眼医者でも行ったほうがいいよ」
「いいから聞けよ」
 その両腕いっぱいに高く空に抱えられたまま、私はキバナをまっすぐに見下ろす。
「ジムも、リーグも、ダンデも、もちろん大事だ。だけど、オレさまにはもっと譲れないものがあるんだよ」
 その声が、まなざしが、私の胸にぽっかりと空いた穴を埋めていく。じっくりと、じんわりと。目の奥が熱くなり、胸がいっぱいに膨らみ、私はまた一粒、涙をこぼした。
「なあ、一緒に、エンドロールまで見ようぜ」
 変わらないものなんて、なにもない。日が昇り、また地平線へ沈んでいくのと同じように、すべてが等しくその時を刻み、姿形を変えていく。だが、たとえ過去と今が変わってしまったとしても、それはけっして悪いことではない。これからもきっと、なにもかもが変わりゆく。同じものなど、もはや見つけるのが難しいほどに。
 その中で、大事なものをこの手で掴んでいられればいい。
「ポップコーンとサイコソーダも用意してくれる?」
「いくらでも」
「疲れたら抱きしめて、悲しいときにはチョコレートを食べて、寂しいときにも、楽しいときにも、うれしいときにも、ずっとそばで一緒に笑っていてくれる?」
「もちろんだ」と彼は笑った。
 これが、私の人生だ。下手なラブコメよりも、きっともっと馬鹿馬鹿しくて、どうしようもなくて、でも、そのぶん愛おしい。
 やさしく下りていく腕に身をゆだね、私は彼の胸へと飛び込んだ。

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2023年4月14日Never Be the Same