キバナという男は、私のさりげない言葉をよく覚えている。たとえば、ぽつりと呟いた、「このパスタ食べてみたい」だとか、「歯磨き粉が切れてしまった」だとか。正直、私自身が覚えていないことまで、よくもそんな鮮明に思いだせるね? というほどに。そしてこの日も、テレビを見ながらずいぶん前に呟いていた、「観覧車、何年も乗っていないなあ」という言葉を彼は覚えていた。
「ちょっと緊張する」
「おいおい、観覧車で?」
「うん、だって、人が操縦する箱で、あんなところまで運ばれていくんだよ」
 二人して、観覧車の天辺を見上げる。日が暮れて、ネオンが瞬き始めた空はとても煌びやかだ。
「いつもフライゴンの背中に乗ってるくせにな」
「それは、それなの。だって、キバナのフライゴンじゃん?」
「そら、光栄なこって。空飛ぶタクシーは?」
「あれも、正直ちょっとギリギリ」
 そんな会話をしているうちに、私たちの番が回ってきた。私の手を引いて、キバナが観覧車のゴンドラへとエスコートしてくれる。今までなら、こんなことはなかった。恋人同士になったのだなぁ、となぜだか強く実感する。
 自分の心臓の音を聞きながら、まじまじとキバナの大きな手を見つめていると、彼はおもむろにふり返った。
「どうした?」
 いつものヘアバンドも、パーカーも、ユニフォームも着ていないキバナは、まさに雑誌から出てきたモデルのようだった。サングラスをしているとはいえ、そのオーラまでは隠せない。しかし、私はつい彼が人気のジムリーダーだと忘れてその姿に見惚れていた。
「ううん、はやく、のろ」
「転ぶなよ」
「転ばないってば」
 キバナの手を掴んだまま、私は観覧車へ乗った。
「きれい」
 ネオン瞬くガラルの夜景は星空よりも目映い。そこかしこで赤、青、黄色と光を宿し人々の人生を鮮やかに彩っている。
「ああ、きれいだな」
 キバナは身を乗りだして外を眺める私を見つめ、やさしくまなじりを緩めていた。
「ちょっと、ちゃんと見てる?」
「見てる見てる」
 一瞬、ジッと私の向こうを睨んでいるようだったが、すぐにニッと笑って、彼はサングラスをひょいと額へ上げた。
「もうすぐ頂上か?」
「どうだろう、でもかなり高い……あっ、やだ、揺らさないでよ、キバナ!」
「揺らしてないっつの」
 観覧車はどんどん天にのぼっていく。地上がはるかに遠くなり、いつも見上げているはずのローズタワーがほぼ同じ目線になってきた。
「なあ、こっちこいよ」
 一心に夜景に目を奪われていると、キバナがだしぬけに言った。その背すじを震わせるような声にふっとおなかの底がきゅんとする。
 顔が熱を帯び、思わず唇を舐めた。
「はやく」
 こっくりうなずいて、キバナの隣へ座る。二人分の体重が片側に寄り、少しだけゴンドラが揺れた。怖くなってぎゅっとキバナに抱きつくと、彼の長く骨張った指が私のあごをすくった。
「好きだぜ」
 見つめあった瞳が溶けてしまいそうだった。ネオンを宿したキバナの虹彩は、まるでこの世で一番美しい宝石のように輝き、いっそうの光を放っていた。
「私も、だいすきだよ」
 胸にこみ上げた気持ちを口にすると、キバナはうれしそうに笑った。
「ぜってェ、離さないからな」
 なにもかもを忘れ、ただこの世界を照らす煌びやかな光の一つとなって。
 観覧車の天辺で、私たちはキスをした。

 翌日、会社へ出勤すると、所属部署の上司が焦った顔で私に、「至急社長室へ行くように」と言ってきた。社長室など、この会社に配属されて一度も赴いたことがない。マクロコスモスほどではないとはいえ、うちもガラルでは大企業の一つだ。入社式で社長の顔を拝んだきり、彼がいつどこでなにをしているのかはおろか、出社しているのかさえ知らない。平社員がそう簡単に会える人物でもなかった。
「どうぞこちらへ」
 上層フロアへ行き、秘書に案内されて社長室に入る。壁一面がガラス張りとなり、入るやいなや、目映い陽射しが目を灼いた。「きみが……くんだね」社報でよく見かけるグレーのダブルスーツを着た男性が話かけてくる。社長だ。はい、そうですが、と背すじを伸ばすと、彼は難しそうに眉根を寄せたあと、ソファーへ腰掛けるように促した。
「突然呼びだしたのは、ほかでもない、きみに相談があってね」
「はあ、相談ですか」
 そんなことをこの会社の代表に言われても、いまいちピンとこない。うつけた返事をする私に、社長は一通の封筒を取りだす。
「これを、ご存知かな」
 中から、一枚の写真が出てきた。
「これ、は……」
 シュートシティの観覧車でキスをする私とキバナの写真だった。
「今朝、とある出版社から私宛に届いていてね。なんでも、すでにマクロコスモスには連絡済みということだ」
「あの……」
 言葉を挟もうとして、社長が大きなため息でそれを遮る。
「我が社はマクロコスモス・バンクと業務提携をしている。こんなことがあれば、どうなるかは、わかっているね」
 世界が崩れる音がした。キバナには何百、いや、何千何億ものお金がかけられている。ここガラルではジムリーダーも一介のトレーナーとはいえポケウッド俳優なみの存在であり、経済を回す中枢でもある。そんな彼が、スポンサーと提携を結ぶ会社の平社員とできていた、などとニュースになれば、どうなるか考えるのは難しいことではない。この会社の、いや、この会社のみならずナックルジム及びその関連事業に勤める人間全員の生活がかかっている。
「……はい」唇を噛みしめる。力が強すぎて、血の味がした。
「幸い、週刊誌の発刊は明日だそうだ。マクロコスモスの上層部も、今日ならまだ食い止められるとおっしゃっている。新しく、キバナ氏には大手広告代理店のスポンサーがつく予定で、多額のスポンサー料が支払われる手続きが進んでいる。だから……」
 その先は、言われなくともわかった。喉の奥からなにかがこみ上げてくる。目の奥が熱い。唇が、指先が、脚が、震えて座っているのもままならない。頭が殴られたように痛かった。
「わかり、ました……」
 私の返事に、社長がホッとしたように息をつく。
「マクロコスモスから、特別にきみへの謝礼金を預かっている。できれば、ほとぼりが冷めるまで、彼の前には現れないであげてくれるかい」
 こくり、頷いた。窓から射し込む陽射しが眩しすぎる。俯いた拍子に一粒の涙がこぼれた。
 私はキバナが大事だった。なににも変えられない、大切な人だった。
 次の日、私は彼になにも言わず、ガラルを去った。キバナと付き合って、たった二ヶ月だった。

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2023年4月14日Never Be the Same