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 あっという間に七月となり期末考査の期間がやってきた。高校に入り、二度目のテストである。小テストや学力検査のためのテストなどはあったが、いわゆる直接成績に繋がる大きなものは学期に二つ。中学生のころにも何度も経験してきたはずだが、定期考査独特の雰囲気にはやはりまだ慣れない。
 初日は文系科目が二教科だったため、なんとか乗り切った。結梨はカバンに筆箱を詰めながらぼんやり黒板を眺める。書かれているのは明日の時間割。明日は化学と英語という難関だ。それぞれ中学の復習や暗記がほとんどだった中間考査とちがい、今回は高校に入って初めて習う分野もある。とくに化学は計算要素もあった。千夏に話していたとおり、結梨は理系科目が大の苦手だから、今夜は眠れないかもしれない。しぜんとため息をつくと、「如月さん」と呼び声がかかった。美術部の部員だった。
「これ、先パイから」
「ありがとう」
 渡されたプリントに描かれているのは、夏休みの活動と自由参加の合宿について。テストが始まったばかりだったが、どうやら参加申し込みの期限があるというので急いで作成されたようだ。
「文化部なのに合宿ってガチだよね」
 友人のことばに、結梨も笑う。
「たしかに。しかも、箱根にある先生の別荘って、なんかすごいね」
「先パイのうわさだとハイキングとか予定してるらしいよ」
「美術部なのに?」
「そ、美術部なのに!」
 でも、それはそれで楽しそうだ。七月いっぱいはデッサン講習の合間に先日の鎌倉の課題制作を行ない、八月からは新たに文化祭へ向けての活動が始まる。そのあいだの息抜きにちょうどいいだろう。だが、そう思ってざっとプリントに目を通してみれば、これがなかなかのハードスケジュールだった。
 たとえば、二日目のタイムスケジュールを見てみると、起床後すぐに散歩があり、別荘に帰ってから朝食づくり。食べ終わったら午前の活動のデッサン画、昼食も朝食同様自分たちで調理し、午後は水彩画を一枚。
 文字にしてみるとなんてことないように思えるが、絵を一枚きちんと描くというのは、五分、十分でできることではない。三時間あっても、五時間あっても、たとえ十時間あったとしても、完璧に足りるわけではないのだ。それを知っているからか、そんな調子の日程表を見てことばを失う結梨に友人は笑う。
「死にそうだよね」
 美術部といっても、ただ自分の描きたい作品を描けばいいわけじゃない。好きなものを描くために、好きなものを描く時間以上にまずは学ばなくてはならないのだ。それはサッカーにしてみれば、筋力トレーニングであり、ドリブル練習であり、はたまた練習試合である。描いた分だけ、向き合った分だけ、上手くなる。だからこの夏の数日は、さながら強化合宿だ。
 自由参加だから、もちろん参加しない手もある。けれど、結梨の中に、今のところその選択肢はなかった。なぜなら――。
「ありがとう」と友人に告げると、結梨は彼女の背後に幼なじみの姿を見つけた。どうやら5組はもう帰りのHRを終えたようで、彼は駆け足で廊下を走り去っていく。リュックを背負った姿はいつもの多々良だ。だが、やはりだれよりも背すじがピンと伸びて、どこへ向かっていくのか視線は真っ直ぐ前を見据えている。
 ――わたしも。結梨はおのずと合宿のプリントを握りしめていた。
「結梨ちゃん、もう先生くるよー」
 教室の中から呼びかけられた結梨は、そこでようやく我にかえり、美術部の友人にそれじゃあと笑みを向けるとちらりと幼なじみの残像を見送って席へ戻った。

 さて、それから数日。合宿のことは一旦忘れて、結梨が泣きそうになりながらテキストと向かい合う日が続き、夏本番はやってきた。さすがに今回はあっという間、とは言えなかったが、気づけば梅雨も明けて、あとは長期休暇を待つのみ。理数科目は奮わないものもあったが、文系科目はおそらくそう悲惨ではないはず。
 一週間の考査期間を終えて、解放感に溢れた教室を結梨は後にする。向かうのは職員室。合宿の申し込み用紙を提出するためだ。それと、日直の仕事で来週以降の連絡事項を確認するため。
 どちらかというと、こちらがメインだったか。教室内だけでなく、廊下も階段もどこもかしこも騒がしかった。テスト中のあの張り詰めた空気より、こっちのほうがやっぱりいいかもなと思いながら、結梨は職員室のドアを叩いた。
 申し込み書を顧問のデスク上にある専用ファイルへ挟み、そそくさと外へ出る。もちろん、合宿は参加だ。それから廊下の、職員室側の壁面に飾られている連絡黒板を確認すると、結梨は携帯にメールが届いていることに気づいた。
 清春かも、と思いどきりとしたが、そんなこともなく。そもそも彼からのメールはいつも突拍子がない。神出鬼没な彼の人となりを存分に映し出していると言える。
 ちょっぴり期待した自分の頬を今すぐにでも叩きたくなる結梨だったが、今日のこのメールは、完全には彼女をガッカリさせなかった。
 宛先には、「蔵内一創」。
 さて内容はというと、
《テストはいかがでしたか》
 という、単純なもの。それでも、結梨は引き締めかけた頬をまた緩める。
 あの鎌倉の日以来、なんだかんだとメールをやりとりする仲になっていた。初めは美術に関して互いの好きなものを少しずつ紹介しあうようなものだったけれど、気がつけば、苦手な数学や化学の相談をするようになり、蔵内はこのテスト期間中の救世主でもあった。
 たしか、きっかけは結梨の「来週からテストです」というひと言で、「僕もです」とシュンとした犬の絵文字が送られてきたのだ。ちなみに結梨も大号泣の絵文字をペタッと貼りつけていた。そこから話題が発展して、苦手な科目の話になり、「一年生の範囲であればお手伝いできるかもしれません」と蔵内が提案してくれた。
 塾にも行っていなかったため、結梨は申し訳ないと思いつつ九死に一生を得たわけだった。
 時にはメールで、ある時には電話で。蔵内の勉強の邪魔にならないかと心配だったが、彼は、「教えることも勉強になりますから」と嫌な顔をひとつせず応えてくれた。神様なのか? と結梨は殊勝にも思い始めるわけだが――実際、テストで蔵内が教えてくれた問題と類似した問題が出題されたときには、心の中で手を合わせて拝んだものだ――それは蔵内には内緒である。
「終わりました、っと」
 結梨は立ち止まり、すばやくメールを打つ。バンザイの顔文字つきだ。おまけに、「蔵内さんのおかげで赤点を逃れられそうです」とも。
 すぐにメールは返ってきた。
「……蔵内さん、かわいい」
 それはよかったです、と返ってきたことばの次には、「僕は解答欄をひとつズラしてしまったみたいです」と書かれていた。シュンとした絵文字がなんとも蔵内らしくて結梨は笑ってしまう。
 初めて会ったときは大人のお兄さんのように思っていた蔵内も、こうして接してみると年相応。高校生なのだなあと感じる瞬間だ。
「それは大変」と結梨も、ムンクの叫びのような絵文字を送った。しかし、これから先同じミスをしなくてすむかもと励ましのことばも添えた。慰めなど不要かもしれないが、少しでも心が軽くなりますようにというおまじないだった。
「いけない、行かなくちゃ」
 予鈴が鳴り、結梨は慌てて日誌を抱え、教室へ戻った。

「あれ、結梨らいね」
 テスト気分も抜けて、すっかりバカンスモード一直線だった。数学のテスト返却の日が今から恐ろしいが、過ぎたことは過ぎたことだ。美術室でランチを済ませ、さあ部活に打ち込もうとスケッチブック片手に校庭へ出てきた結梨を見つけたのは、なんと真っ赤なビブスをつけた賀寿だった。
「ガジュさん?」
「なんでって顔だべな」
「だって、サッカー?」
 ビブスだけではなく、格好も白いティーシャツにハーフパンツ。おまけに膝当てやらソックスやら、靴まで、きっちりサッカー用のシューズだ。そのあまりに自然体なサッカー部然とした姿に瞠目するが、タオルで汗を拭く賀寿の顔を見上げてポンと手を打つ。
「助っ人だ」
 おん、と賀寿は髪の毛をかきあげた。
 いつだったか、スタジオで練習のないオフの日にはこうして別のスポーツに興じていると彼は言っていた。あちこちの部活に引っ張りだこという話は聞いていたが、実際にその場面に出くわすとなるほど賀寿という少年の人となりとその運動神経のよさが滲み出ている。
「よく似合ってる」
 結梨が笑うと、賀寿は気恥ずかしげに「まあな」と鼻を掻いた。
「おめーも、部活かや?」
「うん、今日から再開。まずは手を慣らすためにスケッチ」
 じゃじゃんとスケッチブック、えんぴつを見せる結梨に賀寿は首にかけたタオルで額の汗を拭く。
 本当は室内で静物画のデッサンでもよかったのだが、今日ばかりは外に出たい気分だった。
 賀寿に会えたのだから、なおのこと得した心地だ。
 休憩時間ということで、グラウンドと校舎をつなぐコンクリートの階段の上に賀寿と隣あって座る。
 なに描くん? とのぞき込んでくる賀寿に、結梨は「んー、なににしようかな」とスケッチブックをめくる。
「そういや、たたらと喧嘩でもしたん?」
 結梨は真っ白な紙を見つめたあと、鉛筆を力なく下ろした。
「してないけど……どうして?」
「べつに。最近おめーら一緒にいるとこ見ねーべ」
 打ち明けてしまおうかと結梨は思う。けれど、なにを? わたしが、たーくんに気後れしているってこと?
「なんかあったら、すーぐ顔突き合わせてたべ?」
「そうかな?」
「んだべや。たたらんとこ、よく教科書借りに来てたがね」
「……そんな、忘れてないもん」
 そうかいと賀寿は気にも留めない。
 認めたくなかった。気がつかないふりをしていたかった。ここまできて、結梨はようやく自分の気持ちをきちんと理解した。多々良がどんどん離れていくという現実を、認めようと理解しようとしているふりをして、本当は真逆だったのだ。さみしいという気持ちがあったのは、知っていた。待ってよ、たーくん。そんなふうに呼び止めようと思ったこともあった。呼び止めたいと思った。けれど、そうしてはならないと、自分は幼なじみなのだから、背中を押し見守ることが役目だと、たたらの躍進を喜ぼうとした。
 だが、それでもやっぱり。現実を賀寿に突きつけられて、結梨は募る寂しさから目を逸らすことができなくなってしまった。
 小笠原ダンススタジオから新しい教室に移り、調子はどうなのだろう。何度も、昇降口から飛び出して、駆けていく多々良の背中を見つめた。おおよそ、ダンスについて、予想はできる。だって、あの多々良が走るくらいなのだ、それも、待ちきれないというふうに。そうだ、はやる気持ちを抑えきれない、そんなふうに駆けていった。結梨が、声をかける隙もなかった。
 だから、うまくいっているのだろう。ダンスが、やりたくてたまらないのだ。ダンスに夢中なのだ。一度火が点けば、止めるのは難しいのが人間というもの。それは、結梨だってよく知っている。
 ――たーくんは、がんばっているんだ。
 好きなもののために。好きなものを好きと、自分で胸を張って言うために。もしかすると、もっとその先に行こうとしているのかもしれない。
 ――ううん、行こうとしているのだ。
 結梨は泣きたくなってスケッチブックを抱きしめるようにして顔を押しつけた。
「ど、どしたん?」
 急な結梨の行動に賀寿はギョッとする。
「わたしも、もっと頑張らないと」
「おう?」
「もっと、……もっと、がんばんなきゃ」
 足を引っ張るなんて言語道断。後ろから指を咥えて、立ち止まってくれないかなと期待するのだって、もう、たーくんに靴を差し出させてはいけないのだ。
 でも、頑張らなくちゃと思うたびに、筆は動かなくなる。
 インスピレーションは浮かぶのに、これだ! と思う瞬間は刹那であろうとやってくるのに、実際にカンヴァスを前にすると、思うように描くことができない。いくら、デッサンやスケッチなどはできても、自分の作品を作ることができないのだ。
 テスト期間だったからと悩まないように目を逸らしていたが、もう逃げられない。たたらの駆けていく背を見るたび、走ろうとして走れなくなってしまった。それどころか、ずっと立ち止まったまま。
 鎌倉探訪での課題制作も、恥ずかしながらまだ進んでいない。あれほど言い切ってみせながら、蔵内に見せられる作品ができるのだろうか。
 考え出せば、すぐそこは迷宮だ。迷いに迷って抜け出せなくなる。
「考えすぎだんべ、おめーもたたらも」
 わしゃわしゃと、頭を掻き乱したのは賀寿だった。
「ほんっとに似たもん同士だがね」
 そんなこと……と小さくつぶやくが賀寿は、黙りぃとガシガシぐわんぐわんお構いなしに頭を撫で回す。
 そのとき、遠くから彼を呼ぶ声がした。
「ガジュ! おまえにはマコちゃんってかわいい妹がいながら!」
「結梨は後輩だがね!」
「じゃあ紹介しろ!」
「だれがオメェらにするか、ブァ――ーカ!」
 そんなやりとりがあって、ようやく結梨は顔をあげた。
「ったく」と賀寿は唇をとがらせている。妹のセコムのみならず、結梨のセコムにまでなったようだ。
「真子ちゃんは、幸せだね」
「なんで真子?」
「だって、ガジュさんみたいなお兄ちゃんがいて」
 涙は引っ込んでくれた。気持ちは晴れないままだけれど、賀寿が隣にいてくれる心強さはあった。
 結梨はえへへと笑って、「ガジュさんのこと描こうかな」と、濡れたスケッチブックをめくり直す。
 そのとき、制服のポケットの中で携帯が揺れた。
「兵藤ぉ?」
 取り出して画面を見た途端動きを止めた結梨の代わりに、賀寿はその名を読み上げてくれた。
「これは、その……」
「メールしてん?」
「うん、メールって言っても、なんか、写真送り合うだけなんだけど」
 べつに、友だちとして連絡を取り合っているだけなのに、説明するのも気恥ずかしい上にどこか後ろめたくて、結梨の言葉尻はもごもごと不明瞭になる。
「ちょい、貸しい」
 賀寿はそんな結梨を気にせず、手を差し出してきた。「あ、うん」と結梨もよくわからぬまま、その手に自分の携帯電話を託した。
 そして、賀寿が携帯片手に手を伸ばして、カシャリ。
 ついでに軽く操作をして、結梨のもとへ返す。
「あ、よく撮れてる!」
「んだべ? ――じゃ、ねえべやあほちん!」
 ふんす、とばかりに鼻息を荒くして、「兵藤なんて?」とひと言。
 すぐに携帯が振動して、返事がきたようだ。
「《なんでガジュ》」
 賀寿がぷっと吹き出した。そして、すかさず自分の携帯をポケットから取り出すと、耳へ当てた。
「ダハハ! 羨ましいべ、兵藤!」
 耳を裂くような大声の裏で聞こえてきたのは、「ウザい」という気だるい声だった。
 結梨は今度こそ、先ほどまでの物憂さも忘れて、賀寿と同じようにぷっと息を吹き出した。