09

 人を好きになるというのは、モネやルノアールなど、結梨好みの美術作品を見る時の気持ちにどことなく似ていた。かつて画商達が、とびきりの作品を見た時に走る稲妻のようなアドレナリンや、欲しくて堪らなくなるその衝動を、よく「恋」と称したものだが、結梨はその気持ちを初めて理解できたようにも思えた。
 同時に、恋というのは曖昧で、胸の高揚は限りなくその時に似ていて、それでいて全く違うようだとも思った。
 清春に対する想いは、特別。生まれて初めて、草原でパラソルを差す親子の絵を見たときよりも、灰色の空に浮かぶ橙の太陽をこの目にしたときよりも、激しく、切なく、結梨の細胞ひとつひとつを揺さぶってやまない。
 早く早くと急き立てるように血液が流れて、思わず突拍子も無い言葉を言いそうになったり、勢いだけで考え無しに動き出したりしてしまいそうになる。
 熱に侵されてふわふわとした感覚は、白昼夢にも似ていた。
 お風呂から上がり、リビングで一頻り団欒を終えると、結梨はそそくさと自室へ上がった。「おやすみ」とにこやかに告げる我が子に、彼女の両親はどことなく何かを勘付いているようではあったが、彼らも微笑ましそうに目を合わせるだけだった。
 自室へ上がると、結梨はすぐさま本棚に仕舞われた冊子を取り出した。雫から貰ったアルバムだ。
 ベッドに腰掛けて、読み始める。
「ああ、もう、格好いい……」
 一枚一枚、宝物を扱うように丁寧にページを捲っていく。
 結梨は清春のことを想うだけで幸せだった。
 “好き”と認めることがあんなにも怖いと思っていたのに、手にしてしまえば、あたかも、もとから自分のものであったかのように、すとん、と結梨の中に収まったのだ。今になってみれば、どうしてあんなに怖かったのか不思議に思うくらいに。
 雫に打ち明けた日から、毎日がさらに鮮やかに色づいて見えた。
 そう言えば、浮かれていると揶揄されてしまうだろうが、それでも、清春への気持ちがあらゆることの原動力になっていることには変わりがない。
 勉強でも部活でも、今なら何でもうまくいくのではないかと自信に満ちていた。
「会いたい……」
 自然と、唇から吐息が漏れるように、清春への想いがこぼれる。
 甘酸っぱい恋情が募る一方で、不運にも清春には会う機会はなかった。学校も違う、連絡先も知らない、仕方のないことだが、少しばかり残念に思っていた。だがそれと同時に、もし彼に会ったら、自分の拳ほどの心臓がいよいよ爆発してしまうのではないかとも考えて、安堵している節もあった。
 彼が自分で選んだという写真のページで、結梨はまじまじと隅から隅までを食い入るように眺めた。まるで時がわからくなってしまう催眠術にでもかかっているかのように、じいっと、どこか恍惚な表情で。
「兵藤さん」
 彼の名前を唇に載せる。まるで、魔法みたいだ。結梨は計り知れないほどの悦びが頬に浮かび上がるのを堪えながら、彼の写真に触れる。
 ぴっちりと撫で付けられた髪、そしてギリシア彫刻のように美しい輪郭と彫の深い顔立ち。ゆっくりとそれらを撫でる。
 指先から熱を帯びて、思いがけず吐息が揺れた。
 暫くして、一つ息を吐くと、彼女はアルバムを閉じた。そしてそれをぎゅう、と抱き締めて、ベッドに背中から倒れこむ。スリッパをぽい、と脱ぎ捨てて、パタパタと足を動かして、ンンン、と心の中で声にならない悲鳴をあげる。
 いつ見ても、清春は中毒性の高い麻薬のようだ。麻薬なんて悪しきものに喩えるのは憚られるが、影響力の強さを考えるとその表現が一番しっくりくる。一頻り胸を躍らせたかと思えば、ほう、とうっとりとした心地にさせる。
「やばいんですけど……」
 結梨は若者さながらの言葉を吐き出しながら、全体重をベッドに預けて、想いを馳せた。
 小笠原ダンススタジオで初めて彼を見た時、動揺して、踊るのを辞めてしまったこと。思えばその時から全てはもう始まっていたのだ。
 三笠宮杯のタンゴ、多々良の家の帰り道、駅で転げ落ちそうになったのを助けたり、彼が最寄駅で待ち伏せしていたり、そして、家に、招待したり。全てがひと繋ぎになって、結梨の胸を満たしていく。綿菓子のようにふわふわで、甘い気持ちが少しずつ大きくなっていく。会えない日々が想いを募らせるとはよく言ったもので、結梨は胸元で抱きしめていたアルバムを口元に寄せた。
 彼はきっと知らないだろう。
 だが、それでもいい。まだまだこの感情を、自分の中で大事に育てていきたい気がして、結梨は目を閉じて体を震わせた。

「ちーちゃん、おはよ!」
 昇降口ですらりとした綺麗な立ち姿を見掛けて、結梨は元気に声を掛けた。朝の憂鬱さも、彼女の前ではどこ吹く風である。
 ちーちゃんと呼ばれた女子生徒は振り返って、結梨の姿を認めると、「おはよ」と眠そうに欠伸を拵えた。
「眠そうだね」
「まぁね。昨日も学校終わってカップル練してたから」
「そうなんだ! 精が出るね」
 彼女は、多々良の新しいパートナーの千夏だ。
 度重なる葛藤――多々良曰くだが――の上、カップル結成が決まった。小笠原ダンススタジオで彼らを見かけた時の直感が、そのまま形になって、結梨はとても嬉しく思った。
 そして、結成の次の日――結梨が淡い恋の自覚をした日の翌日だ――多々良から彼女の紹介を受けた。
 多々良から聞いていた強烈なイメージに、緊張しながらぺこり頭を下げる結梨だったが、千夏は想像よりもはるかに柔らかく女の子らしい笑みを浮かべてくれた。
 だが、ホッと胸を撫で下ろしていたのも束の間。千夏は多々良に向かって目を細めると、「アンタ、ちゃんと女の子の友達居たんだ」と衝撃的な一言を口にした。顔を赤くして怒り出す多々良とは裏腹に、結梨は肩を揺らして笑ってしまった。
 そうして千夏とはそれ以来すっかり打ち解けて、多々良と賀寿を含めた四人で週何回か昼食を食べるようになっていた。
 上履きに履き替えると、二人は話をしながら階段を上っていく。
「ノービス戦?」結梨の言葉に、千夏は頷く。
「うん、私とたたらの初試合ってわけ」
 カップルを組んだと報告を受けたのはつい先日というのに、結梨は彼女の言葉に目を瞬かせたあと、感心するように声を高くした。
「へえ! もう再来週にあるんだ?」
「そ。たたらがグランプリに出たいって言うから、その為にも昇級しないといけないんだ」
「誰でもグランプリに出れるわけじゃないんだね」
 千夏は瞳を閉じながら、肯定するように髪の毛をさらりと揺さぶった。
 彼ら富士田組は今月末に行われるノービス戦に出場するという。千夏の言う様にグランプリ戦を初めとする公式戦にエントリーするには、ノービス戦を経てD級に昇格しなければならない。
 雫や清春たちと同じフロアに立つ――その為にも、たたらは一刻も早くカップルを組みたい、と言っていたのを思い返して、D級がどれ程の実力なのかはわからないが、組んだばかりでも目指すものがあるというのに感心する。
 すごいなぁ、と心の中で呟いたあと、結梨は千夏に尋ねる。
「そういえば、ちーちゃんはどれくらいダンスやってるの?」
「んー、七歳から。中三の冬に一度辞めたけど」
 なんとなしに言う千夏に結梨はギョッとする。
「えっ、そんなに長くやってるんだ! ?」
「うん。もともとは女同士でカップル組んでたんだ」
「へえ! 女同士もいいんだね!」
「ジュニアまではね」
 格好いい、呟きながら結梨は頬に手を当てて千夏を見上げた。
 結梨が今まで見てきた――と言っても実際に見たことがあるのは三笠宮杯のアマ・スタンダード戦くらいだが――試合では、男女のカップルが基本だったが、ジュニアまでなら女子同士でも公式戦に出られる。それも、千夏曰く、結構そのような組は多いらしい。
 周りには仙石組や兵藤組、それに赤城組などの強豪が軒並み鍔迫り合いをしているが、男女の競技人口の比率により、カップルを組むのは想像以上に難しいことのようだ。
「まあ、その経験のせいでたたらと合わせるの苦労してるんだけど」
 あっけらかんとした調子で言う千夏に、結梨は、あちゃあ、と思うも、柔らかく相槌を打ちながら考えを巡らせる。
 小さい頃からダンスを始め、その上リーダー役ばかりをやってきた千夏。自分の中で確立した美意識とダンスがあるから、リーダーに対して理想が高くなってしまうのだ。それゆえ、どうしても男性に強く当たってしまう、と彼女は言う。
 争いから自ら降りるような性格だった多々良のことだ、その彼が彼女の扱いに苦戦する理由がわかった気がして、結梨は心の中で苦笑いを浮かべる。
「でも、案外二人は仲良しだよね」
「結梨、それマジで言ってる?」
 理解不能だと言わんばかりに千夏は口元を痙攣らせるが、結梨は至って真面目に頷いた。
「うん。たたらがあんなに自己主張するなんて、珍しいことだもん」
 昼食を摂る時も時折二人は結梨と賀寿の前で諍いを起こすことがある――と、言ってもはるかに千夏の方が優勢だ――のだが、その時の様子を思い出しながら結梨は言った。
 千夏は階段を上る足を止めていたが、溜め息を吐くと再び足を動かし始めた。
「そうなのかもしれないけど。全然、私達相性は悪い気がするよ」
「そうかな。わたしから見ると、ちーちゃんが思ってるほどでもなさそうな気がするけど」
「ごめん結梨。今のところ全然その気持ちがわかんないわ」
 結梨は困ったように眉を下げて笑った。
「でも、ここから上手くいくといいね」
「まあ、二週間あるし、なんとかする」
「ちーちゃんは頼もしいなあ」
 千夏の背筋はいつでもピンと伸びている。きっと、小さい頃からダンスをしていたからだけではない。彼女のまっすぐな心も表しているかのようで、綺麗で格好いい。
 結梨は幼馴染の苦労とは裏腹に、彼女のことを既に友人として好きになっていた。
 少し遅れていた足並みを揃えると、千夏は隣に並んだ結梨に「まあね」と口の端をニイ、と釣り上げた。