第三幕 第七話

 翌日は、重たい気持ちでの出勤となった。
「昨晩は、申し訳ございませんでした」
 早朝の微かに湿った空気の中、目の詰まった畳に指先を突いて頭を下げる。井草の香りが鼻をくすぐるが、ちっとも胸のざわつきや吐き気は安らぐことはない。
「何が悪いか分かってんのか」
 はい、と静かに返答する。
「勝手に、すまいるでのヘルプを請け負ったことです。局長にも、副長にも、何も告げずに勝手な行動をして、申し訳ございませんでした」
 緊張で声が掠れるが、必死で最後まで言い切ると、目の前で静かに煙草を蒸していた副長は、そうだ、と相槌を打った。
 昨晩、すまいるに出勤したことが局長と副長の与り知るところとなり、わたしはそのことを詫びに幹部会議後の二人のもとを訪ねていた。
「まあまあ、トシ、凛子さんも頼まれちゃ断れなかったんだよ」
 仲裁とばかりに頭上に飛んでくる近藤さんの声に、胸がきつく締め付けられる。
 喉元に何かが迫り上げて、重圧で吐きそうになるのを必死で堪えた。
「近藤さんは相変わらず甘ェ。身勝手な行動は全体の風紀を乱しかねない。何かあってからじゃ遅いだろうよ。東雲もガキじゃあるまいし、真選組の名の重みを理解するべきだ」
「たしかに、報・連・相は大事だ。だが、彼女はなにも金を稼ごうとしたわけじゃないだろう? お妙さんの頼みであの場に居た。凛子さんは人助けとあれば、放って置けないようなひとだ。俺ァ誇りに思うよ」
 だがな、近藤さん……と渋る副長に、近藤さんは「頭を上げてくれ、凛子さん」とまあるい声で言う。
 かえってその声がわたしを崖の突端へと押しやっていくかのようだ。落ちてしまいそうになる。いっそ、落ちてしまったほうが楽なのではないか。
 わたしは頭を上げることなく、畳に突いた指先に力を込めた。
「局長、違うんです」
 え? と彼は素っ頓狂な声を上げた。
「自分に自惚れていたんです」
 震える声で、わたしは紡ぐ。
 自分の情けなさと申し訳なさで押しつぶされ、顔を上げることもままならないまま奥歯をきつく噛みしめる。そして、ひとつ息を吸って、ゆっくりと胸の裡を吐露した。
「必要とされることにいい気になって、真選組のことを考えずに引き受けました。ですから、副長の仰ることはごもっともです」
「凛子さん……」
 近藤さんの弱ったような声が耳朶を撫でる。
 たしかに、そこに人助けの気持ちはあったかもしれない。けれど、結局、頼まれたことが嬉しくて調子に乗った。自分がどの立場に置かれているかも考えずに、軽々しく頼みを請け負ったのだ。
 昨晩、唐突に怒気を放つ副長に動揺するばかりだったが、今でははっきりと自らの浅はかさが理解できる。副長に返す言葉もない。
 わたしは瞳を閉じて、先の言葉を待つ。
「顔を上げろ」
 やがて、副長の感情を含まぬ引き締まった声がした。恐る恐る――だが、失礼のないように体を起こす。彼の鋭い眼光がわたしを射抜いた。
 息を止めるわたしに、副長は、「いいか、東雲」と隊士たちに話す時と同じように、冷ややかに声を低めた。
「局中法度、三条――勝手に金策致すことを許さず。これがどういうことだか、わかるな」
「はい」
 金策――副業や、借金のことである。女中として働き始める際に耳にしていたはずだった。
 膝の上でぎゅっと拳を握りしめて頷くと、彼は目をすっと細めた。
「お前が隊士だったならば、局中法度を破った戒めとして、切腹を課すところだ」
 ――切腹。
 その重々しい言葉が響き、呼吸を奪っていく。
 近藤さんが「オイ、トシ……」と彼を横から窘めるが、わたしはその言葉を受け止めた。そして、真っ直ぐに副長の顔を見つめ返した。
 背筋が震え、今すぐにでも崩れそうになる。だが、逸らしてはだめだ。
 うすく灰色ががった青色の瞳の真ん中で、鋭く瞳孔が開いている。瞳の奥を見透かすようなまなざし。だが、彼の感情は何一つ窺い取れない。
 わたしは、喘ぐようにひとつ呼吸をして、はい、と返事をした。
 それを合図に長い睫毛が目元に影を落とし、視線は外された。わたしは目に膜が張りそうになるの堪え、きゅ、と唇を噛み締めた。
「それだけ肝に銘じるんだな」
 それだけ言って、煙草を灰皿に押し付けた副長に、わたしはもう一度三つ指をついて、申し訳ございませんでした、と深く頭を下げたのだった。

 ザアザアと流れ出る冷水でお米をとぎながら、ぼんやりと問答を繰り返す。
 なぜ、わたしはあんなことに気が付かなかったのだろう。元の世界でも、副業をするにはそれなりの手筈を整えてなければならないことなんて、同じだというのに。
 水が排水溝に渦を巻いて流れども、重々しい気持ちはいくらたっても拭えない。刺すような水の冷たさに、手がジンジンする。だが、それよりもなにかが強く喉元に迫り上げてくることのほうが、深刻だった。
 必要とされることに浮かれていたのは、確かだ。自分はなんでもできると、どこかで驕っていたことも。
 せっかく、居心地が良くなってきていたというのに。それを壊したのは結局自分だなんて、まったく救いようがない。
 いい歳して、なにしているんだか。
 凍てつく水の中で手を止めて、はあ、とひとつため息を漏らした。
 いくら気を紛らわせようとしても、副長の目が忘れられない。
 昨晩の蔑むような、そして、今朝の、なんの感情も映さぬ冷ややかな双眸。
 じわり、目の奥が熱を孕み、視界がぼやけた。
 ザアア、と水の流れる音は、無情にも続いていく。
「凛子ちゃん、手が止まってるよ。具合でも悪いのかい」
 ぽん、と飛んできた朗らかな声に、わたしは慌てて手の甲で目元を拭う。そして、にっこり笑みを浮かべて振り返った。
「大丈夫ですよ。すみません、ご心配おかけして。やっぱり冬はお水が冷たいですね」
「もう師走だからねぇ。冬場の米とぎほど辛いものはないよ。屯所のお米も全部無洗米になりゃいいのに」
「本当ですね」
 まあそんな贅沢言ってられないんだけどね、と肩を竦める先輩女中に苦笑いを返す。水につけていた指先は赤くなっていた。
「ちゃっちゃと洗って、温めなね。綺麗な手が傷んじまうよ」
「ありがとうございます」
「さっ、昼に向けてもう一踏ん張り! 働け働けー」
 彼女がお昼用の野菜が入った大きな笊を抱えていく背中を見送って、わたしは冷たい手で目元をゴシゴシと拭う。
 そして、悴む手に力を込めると、涙が滲んでしまわないように、と襷をきゅっと締め直した。

「ありゃ、またため息ですかィ」
 洗濯物の籠を抱えて廊下を歩いていると、沖田さんに声を掛けられた。
「沖田さん。わたし、ため息ついていました?」
「そりゃあバッチリ、ロウソク三十本は吹き消せそうなほどでかいやつですね」
「本当ですか。すみません、ついぼんやりしてしまって」
 眉をハの字にすると、彼は長い睫毛をぱちりと揺らした。
「なにがあったのか知りやせんが、そんなにため息ついてると、大事な婚期逃しますぜ」
「そこはせめて、オブラートに包んで『幸せ』の一括りにしていただけますか」
 相変わらず、屯所での仕事は朝から晩まで続いている。
 あれからというもの、ぼやぼやと自分の誤ちを引きずって、気を抜くと今みたいにため息を吐いてしまうことが増えた。
 まったく、大人げない。仕事中くらいしゃんとしないと。心の中で頬を叩く。
 先ほどまで差していた、やわい日差しは雲に隠れて翳っていた。
 鋭い沖田さんになにかを悟られまいと微笑を向けると、彼は興味無さそうに大きな欠伸を一つこしらえた。それから、んじゃこれお願いしやす、と洗濯物を差し出してきた。
「いつもの洗い方でよろしいですか?」
「へい。あ、土方コノヤローとは分けて洗ってくだせぇ」
「もとから分けて洗っていますよ」
 そんな思春期の女子中学生みたいな要求にくすりと笑いながら答えると、彼は、ありゃそうでしたかィと惚けたように頭を掻いた。

 

 昼食の後片付けも終えて、一息ついたところで、時計の針は二時を指そうとしていた。
 先輩女中が悴む手をヒーターに翳している姿を横目に、椅子に腰を据えることなく午後のひと仕事に向かうことにした。
「副長、東雲です。お茶をお持ちしました」
 ひんやりとした床に膝をつく。中から、「入れ」と一瞬の淀みのない引き締まった声がした。出来るだけ音を立てぬように、丁寧に襖を開けると、いつもどおり座卓に向かう副長の姿がまみえた。
 ピッと背筋を伸ばして、気を引き締める。
 そして、指先まで神経を使いながら、ゆったりと無駄のない動作を心掛けて、盆を手に取った。盆の上には、湯呑みと急須と、皿に乗ったみたらし団子。零さぬように、畳をゆっくり踏み締める。
 部屋へ入ると、作業している座卓の横、木箱へお茶を置いた。手が滑ってはいけないから、と、客人用の焼き物の湯呑みではなく、少しざらつきの残る磁器のものだ。それから、急須もそこへ。
 常と同じだというのに、どこか緊張する。湯呑みを置いたあと、わたしは微かに震える指先を手のひらに隠した。
「お茶請けに、お団子を用意しております。召し上がられますか」
 副長は、ああ、とだけ端的に述べた。
 相変わらず、あの涼しげな瞳は紙面に落とされたまま。紙を擦る音がぺらり、と静かな部屋に響く。
 端整な横顔をそっと眺めたあと、わたしは団子の載った皿を木箱に置く。ことり、音が耳についた。
「先日、食い逃げを捕らえてくれたお礼に、と二丁目の和菓子屋さんから頂いたものです」
「そうか」
 会話は続かない。
 呼吸をする音でさえ、立てるのが億劫になり、わたしは、震える指先でお盆を胸に抱くと、やわく微笑を浮かべて、失礼いたします、と頭を下げた。

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 ぽっかりと、胸に穴が空いたようだ。
 副長の様子をふりかえって、わたしは思った。
 失った信頼というのは、なかなか取り戻すことができないとはよく言ったもので。あの日から、副長とまともに会話をすることはなくなった。冷遇されるわけではないのだがーーわたしが、気にかけてしまっているからもあるかもしれない――確実に以前感じていた緩やかな空気感はなくなってしまっていた。
 それはそうだ。彼の真選組に対する信念を考えたら……。鬼と呼ばれるほど、真摯に向き合うひとなのだ。
 職を失わなかっただけ、マシかもしれないな。
 それでもやはり、遣る瀬ない気持ちは溢れてぽろりぽろりとため息に変わっていくのだった。
 屯所が見えなくなったところで、気分を切り替えようと、大きく息を吸うも、冷えた空気がナイフのように鼻を切り裂く。
 思いがけず、目の奥がツンと痛んだ。
「……だめね」
 昏れなずむかぶき町を、とぼとぼと歩いていく。少しだけ早く上がれたとあって、いつもよりも辺りが明るい。今日一日の終わりを惜しむように、まったりと金色の日差しが辺りを照らしている。冬は空気が澄んでいるからだろうか、空のグラデーションは、胸中とはうらはらに鮮やかで美しかった。
 しばらくして、あの橋の上に辿り着いた。無意識に、足がここへ向いていたようだ。
 ひんやりとした欄干に手を掛け、川の流れをぼう、と眺める。水面に影が映り、ゆうらりと揺れた。
 そういえば、屯所から釈放された日も、同じように途方にくれるまま、ここへやって来たな、と思い返す。
 なにかあると、すぐにここへやって来ては、感傷に浸る。すっかり癖になってしまったみたいだ。
「わたし、ちっとも変わってない」
 一人おかしくなって、肩を竦める。
 前と変わらず川は静かに流れているが、季節はすっかり移りかわり、川べりの草花も姿を消し、どこか寒しげだった。
 思えば、もう、何ヶ月も過ぎ去ってしまった。
「せんせい……」
 ふと、あの絹の日差しのような、あたたかな笑みが蘇り胸を突いた。
 ――きみはまことだ。
 形のない声が脳裏を過ぎる。はっきりとは思い出せずとも、とても、やさしく、凛とした声だったのだ。
 先ほど引いたはずの目の奥の痛みが蘇り、わたしは目をぎゅっと瞑って、何度か目を瞬かせる。
 ――戻りたい、なんて、子どもじゃないんだから。
 一つの失敗でうじうじしてる姿なんて、恥ずかしくて見せられない。
 夏を懐かしむ思いをどうにか押し込めて、わたしは大きく息を吐いた。
「さむい……」
 ひやりとした風が頬を撫でて、その冷たさにマフラーに顔を埋める。
 すると、ふうわり優しい香りがした。
 万事屋に居た頃から使っている、柔軟剤の匂いだった。
「銀さん、神楽ちゃん、新八くん……」
 マフラーの中で呟く。
 大きく水面に映る影は、ゆらりゆらりと波間を揺蕩っている。
 ーーどうしよう、すごく会いたくなっちゃったな。
 きゅう、と締め付けられる胸に手を当てる。
 いまから、会いに行こうか。
 でも……と心の中で、躊躇う声がするが、わたしはふるりとかぶりを振る。
 そして、その次の言葉を考える前に、欄干から手を離して、足を踏み出した。

「なんだ、銀さんしか居ないんですか」
「はい、異議有りィ。あからさまに人の顔見てしょんぼりすんのやめてくださーい」
 結局、神楽ちゃんと新八くんは万事屋には居なかった。しょんぼり肩を落とすわたしに、銀さんは気怠げに首元に手をやって、「失礼な女だな、ったく」と文句をひとつ吐き出す。
「母ちゃんに人の顔見てショック受けるなって言われなかったのかよ」
「言われたような、言われていないような」
 すっとぼけた様子で答えると、銀さんは、あっそ、と気のない相槌を打った。
「で、どーした?」
 訊かれて、わたしは口ごもりながら答える。
「ちょっと、神楽ちゃんたちに会いたくなって」
 そこに、銀さんも含まれているのだが、わたしはなんとなく気恥ずかしくてそこまでは口にしなかった。
 銀さんはわたしの顔をじっと眺めたあと、ポリポリとうなじの辺りを掻き始めた。
「神楽はそよ姫とメシ、新八はもう帰ったぜ」
「そよ姫?」
「そう、姫。征夷大将軍、茂々の妹」
「しょ、将軍!?」
 ぎょっと目をぱちくりさせるわたしに、銀さんは、そういや知らなかったのか、と眉を上げる。
「色々あって、あいつら友達なんだよ」
「色々って……神楽ちゃんも交友関係広いんですね」
「さァなー。今頃、美味いメシでも食ってんだろうよ、羨ましい限りだぜ」
 そっか、四人でワイワイご飯ができたらよかったのだけれど。でも、居ないのなら仕方がない。
 二人の不在に寂しさを覚えつつ、わたしは銀さんを見上げた。
「なんだよ」と彼は訝る。
「銀さんは、夕飯食べました?」
 訊くと、彼は睫毛を一度瞬かせた。
「いや、まだだけど。え、なに、まさか凛子チャン奢ってくれんの。うっそ、マジかー、やっぱ高給取りは違うな、ジョジョ苑でお願いしまーす」
「銀さんってば、いっつも奢ってもらう前提ですよね」
 それに高給取りではありませんよ、と呆れを含んだ苦笑いを浮かべると、「だって金ねェんだもーん」と彼は小指を耳に突っ込みながら恥じらうことなく言った。その言葉と仕草のギャップに、「もーん、て全然かわいくないですよ」とジト目を向けると、彼はへーへーとやる気のない声を返した。
「で? 飯がなに?」
 いつもの調子で眠たそうな瞳を向けられて、わたしはふと泣きそうになって、眉を下げる。
「奢りでもいいんで、一緒に飲みに行きませんか」
 なにかあると悟ったのだろう。渋々といった様子だが、「仕方ねえなあ」と耳から指を抜くと、彼はブーツを履き、隣へやって来たのだった。