――ぴちゃん
目が覚めると、甘い花の香りがした。どこか花畑にでもいるような、そんな穏やかな香りに包まれている。瞼の裏に淡く光が注いで、その光の海でぷかぷかと美月は浮かんでいた。
(夢、だったのかしら)
昨日今日と目の当たりにした恐るべき光景が、今はもう、はるか遠くに成りを潜めている。
(そうだ、夢だ。ぜんぶせんぶ、悪い夢)
目を覚ましたら、きっと、自分のベッドに戻っているはず。時間をかけて選んだふかふかなベッドの上、お気に入りのブランケットに包まれて、カーテンから射し込む眩しい光に目を細めながら朝を迎える。いつもの日常が帰ってくる。起きたら、カフェ・オ・レでも飲もうか。それから、冷凍庫に残したままのアイスでも――。
そろそろ起きよう。滔々とした温もりの中、美月はゆっくりと瞼を上げた。
「目が覚めた?」
と、美しい、エメラルドがまみえた。
(きれい……)
まだ睡夢に浸かったまま、光を集める翡翠色を見上げる。白い肌にかすかにそばかすが浮かんで、ひと目見て愛らしさを覚える。それを覆う絹糸は赤茶で、翡翠の瞳とほのかに染まった頬にとてもよく似合っていた。
(なんだか、落ち着くひとだわ……)
そう、美月の前にはひとりの女性が。髪の毛を頬に落とし、心配そうに顔を覗き込んでいる。
――女の人?
まさか。美月の意識は覚醒する。
「よかった、無事そうだね」
勢いよく体を起こした美月に、彼女は頬をやさしく緩めた。
こそばゆさを感じ、美月は頭を下げる。それから、辺りを見回した。
一番に目に入ったのは、美しいステンドグラス。どうやら、教会にいるようだ。
窓にあしらわれたステンドグラスは、屋根に空いた穴から光を集め七色に煌めいている。よく知る礼拝堂の風景だ。だが、ぐるりともう一周見渡してみると、目に映ったのは、崩れた壁や長椅子、剥がれた床板、朽ちた祭壇。すでに廃墟と化したであろう、あられもない建物の姿だった。
なんで――美月は愕然とする。やはり、夢ではなかったようだ。
「急に、上から落ちてくるんだもん。でも、お花、あったから助かったみたいだね」
女性はふふ、と花が綻ぶように笑っている。
花? ハッとして美月は足元を確かめるが、そこには黄色い花ではなく、なんと、紫紺のニットタンクトップに鉄製の肩当て、目映い金色――クラウドが倒れていた。
(えっ、く、クラウドさん?)
一体なにが起きたというのか。
神羅の社長に会って、妙なロボットが襲いかかってきて――だめだ、そこから記憶がない。なぜ、クラウドを下敷きにして教会にいるのだろう。彼女の言葉どおり、どこかから落ちてきたというのか。
「こっちの男のひと、息はしてるから、だいじょぶだよ」
動揺が顔に出ていたのか、女性が優しく微笑む。
たしかに、厚い胸元が規則正しく上下している。元ソルジャーが屈強な人間だというのは間違いないようだ。とはいえ、そのまま下敷きにしているのは忍びない。美月はひとまずクラウドの上から退くことにした。
ふわり彼の体から黄色い花畑に降りる。美しく小さな生命を踏まないように、足の置き場に気をつけて着地する。無事、すとん、と地面をふみしめると甘い花の香りが鼻を掠めたが、それと同時に美月は自分の視界に驚いた。
――なんか、花が近い?
そして、クラウドの顔も。花に埋もれるクラウドの顔とほぼ同じ高さに目線がある。まるで、小人にでもなってしまったかのような――どういうことだ?
「ねえ、キミ、名前は?」
ひとりでに思考の海に沈みそうになったところを、目の前にしゃがみこんできた女性に声をかけられた。美月は彼女を見上げ、自らの名前を名乗ろうとする。
「にゃあ……」
だが、口をついたのは、猫の鳴き声であった。
「にゃっ?(えっ、な、なんで?)」
美月です、と必死で名乗ろうと何度も声に出す。そのたびに、にゃあ、とかわいらしい鳴き声が繰り返された。
「ふふ、猫に訊ねても、だめか。でも、教えてくれようとしてるのかな?」
猫? 美月の頭の中に浮かんだのは、クラウドの言葉であった。
――もしかして、アンタがあの猫なんじゃないか
恐る恐る、美月は自分の前足を上げてみる。手のひらは小さいが、指はそれなりに長い、仕事柄ネイルはできなかったものの手入れは欠かさなかった、自分の手がまみえるはずだった。
視界に映ったのは、白いもふもふの手。ピンク色の肉球が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と小さな島のように浮かんでいる。
「にゃ、にゃぁあ!(な、なにこれ!)」
そう、紛うことなき、動物の手であった。
天変地異の前触れか、それともなにか呪いにでもかかってしまったのか。クラウドの言葉どおり、美月は白い猫に変身を遂げていた。
(ということは、彼の言っていた猫って、わ、わたし?)
なぜ猫になっているのか、そもそも、本当に猫なのか、わけがわからぬまま美月は必死で自分の体を確認する。
(うそっ……うそ、うそぉ……全身毛だらけ!)
前の右足をあげて、反対をあげて。それから、後ろ足、尻尾、腹部……至って真剣にやっているつもりだが、その様はまるで猫がダンスしているかのようにしか見えないことを当の本人は気がついていない。
「ふふっ、かわいい」
「にゃ、にゃあ……(なんでこんなことに……)」
「ぅ……」
朗らかに笑う女性の横で、鳴き声に反応してかクラウドが身動ぎをしたのが目に入った。
「――やってみる」
やってみる? 彼の薄い形の整った唇から飛び出した言葉に美月は首を傾げる。
「ここは……?」長い睫毛がゆっくりと揺れた。
「あ、目が覚めたのね」
女性がクラウドに声をかけた。クラウドは目が覚めて間もないというのに、上体を難なく起きあげる。ぱさり、彼の金色の髪が燦然と光に煌めいた。
「もしもーし、大丈夫?」
「ああ……」
「ここ、スラムの教会よ。伍番街」
美月は、ここで初めてはっきりと彼の造形を認識した。スラム街では緑の光しかなく、その鮮明な色まではわからなかったが、ツンと建てられた髪はまるでシャンパンの泡のように儚く美しい煌めきを放っている。髪だけではない。肌はきめ細かく、きっと、美月のそれよりも白い。加えて、あの碧い瞳はいっそう複雑な色彩を帯びて、この世のものではないような神秘さえ感じさせた。
「いきなり、落ちてくるんだもん。おどろいちゃった」
「落ちてきた……?」
「屋根と、花畑、クッションになったみたい。運いいね」
「それは……悪かったな」
美月はクラウドに声をかけるかを迷った。花の陰にそっと体を潜めながら、女性とクラウドのやりとりを見守った。
「そうだ、もう一人、女がいなかったか」
どきり、胸がいやに弾んだ。
「女? 彼女とはぐれちゃったの?」
「いや、そんなんじゃ……」
クラウドは自分のことを言っているに違いない。女性は彼の答えに、ふうん、といまいち腑に落ちない様子だったが、「女のひとはいなかったけど、猫なら、ここに」と花園に隠れる美月の体を抱き上げた。
「にゃ、にゃあ……(く、クラウドさん……)」
不可抗力、である。起き上がったクラウドと目線が同じになる。碧い瞳が一瞬大きく見開かれたが、やがて彼はため息をついた。
「やっぱり、アンタがあの猫だったんだな……」
「にゃあん(よくわかんないけど、そうみたい、です)」
「なになに、二人でおしゃべり?」
通じているのかいないのかはわからないが、反射的に返事をする美月であった。
女性の名はエアリス。伍番街スラムに暮らしており、ここで育てた花を売っている、花売りの娘だ。クラウドがその花を買ったとかなんとかやりとりを聞き流しながら、美月がエアリスの腕の中に収まっていると、教会の入り口にスーツの男が現れた。燃えるような赤髪に、着崩したジッパースーツ。エアリスが言うに、タークスという神羅の人間だという。かまっちゃダメ、という彼女の言葉に従って、そのまま教会を抜け出すことになった。
「にゃあ……(デート一回で、ボディガードを受けるなんて……)」
まるでひと昔前のアメリカ映画みたいだ。つい先ほどの男女の駆け引きを思い返す。タークスから逃れるために、エアリスが《なんでも屋》のクラウドに家まで送ってほしい、と依頼をしたのだ。
クラウドの肩に乗りながら、どことなく嬉しそうな彼の横顔を盗み見ていると、それに気がついたのか、「なんだ」と訝るような目を向けてきた。
「みゃっ。にゃ、にゃぁ……(やば……な、なんでもないです)」
なんてベストタイミングだ。男の性に呆れていたことに気づかれてしまったのか。身を固めるも、すぐに苦笑いを浮かべて――美月はそのつもりだ――やり過ごす。クラウドは、小さく息をついた。
「……アンタには、いろいろと訊きたいことがある」
「にゃ(わたしもです)」
「にしても、アンタ、しばらく元に戻るなよ」
「にゃにゃにゃあ(も、戻りたくても、戻れないんですけど……!)」
「……こっちのほうが好都合だからな」
「にゃ?(それってどういう……)」
またしても通じてるんだか通じてないんだかわからないやり取りをしていると、ふふっと笑い声が聞こえてきた。
「本当、二人ってなかよしなのね」
後ろをついてくるエアリスである。なんか面白いコンビ、と可笑しそうに肩を震わせるエアリスに、「まさか」と思わずクラウドと声が重なってしまったことは言うまでもない。もっとも、一方は猫語であったが。
神羅兵とタークスの赤髪の男を撒いて屋上へと上がると、そこには、久方ぶりに見る青空がまみえた。
「にゃおん(空……)」
「ふふ、ここだけ、トクベツ、なんだ。昔、ロケットが落ちたんだって」
美月がクラウドの肩でプレートの穴を見上げていると、エアリスが目を細めて言った。
先ほど彼女がミッドガルでは植物が育たないがここだけは違う、と言った理由に繋がるのだろうか。大きな穴の向こうに広がる空は、ひどく澄んでいるようにも見える。プレートばかりを見上げてきた美月はグレーと青のコントラストに、ふと目頭が溶け出すのを感じた。
「きれい、でしょ。こんな小さいけど、見てるとなんだかなんでもだいじょぶって、思える。昔は、怖かったのに」
エアリスがクラウドの肩から美月を抱き受けて、独り言のように美月に語りかける。
風が歌うような語り口が、その言葉の重みを軽減させる。それでも、美月は彼女の翳った横顔や声の余韻に切なさと儚さを拭えずにいた。
やさしい手が美月の頭を撫でる。その手はとても心地よい。昔、寝しなに母がそうしてくれたように、不思議な安心感があった。
彼女になにがあったのか、美月には想像もできない。ただ、小さな青空から注ぐ光に目を細めながら、美月は応えるように、そっと彼女に寄り添い頬をすり寄せた。
しばらく屋根伝いに行くと、伍番街にたどり着いた。美月が初めて見た七番街と同じく、陰鬱とした雰囲気が漂っていた。どちらかというと、七番街のほうが落ち着いているようにも感じるほどだ。家とは言いがたい雨風をしのげる程度のモンゴルのゲルに似た小屋がちらほらと点在し、車や土管を住まいにしている者もいる。そのうち土管の中にいた刺青の入った男は、まるで薬漬けの人間と同じように精神異常をきたしているようだった。もしかしたら、実際に薬物かなにかの中毒者だったかもしれない。
これでは、神羅云々にかかわらず、女性一人でここを歩かせるのは憚られる。クラウドに送ってもらって正解だ、とピンクのロングワンピースに赤のジャケットを羽織った可憐な姿を見て美月は思った。
「うち、こっち」
エアリスはどんどん進んでいく。相変わらず、その腕に美月は抱かれたまま。歩かないでいいというのは非常に楽だったが、後ろからついてくる男の顔を見ているといささか不思議な気持ちに陥った。
細い腕の中からときおりふり返ると、たびたびクラウドと目が合った。その顔はできる限りの感情が削がれ、精悍というのがぴったりと当てはまる。美月が知る中でもそれは彼の通常運転の表情だ。ときおり、エアリスに対してはまなじりを崩すようだが、美月を見る目は大抵呆れか無表情だった。
なにを考えているのだろう。重なった視線に、美月はみぞおちのあたりが不意に疼く。羽でもってやさしくなぞられたような、そんな疼きだ。その虹彩が美しすぎるからだろうか、それとも別に理由があるのか。その疼きとはうらはらに、心強さも感じていたことは気のせいではないが。
猫となった今、かえって会話に混じらなくてもいいことが救いだったかもしれない。訊きたいことは山ほどある。だが、もし人間の姿だったならば、パニックの飽和状態で美月は錯乱してしまっていたことだろう。ただ彼らに身を委ねていることは、とても気が楽だった。
伍番街を抜けたところで、滝の音が聞こえてきた。
「ついた。ちょっと待ってて」
山間の小川を思わせる水場のほとりに、赤い屋根の家が建っている。スラムでは珍しいほどのちゃんとした家だ。美月を再びクラウドへと渡し、エアリスは木製のドアの向こうへと消えていった。
ザアザア、水が落ちる音がする。自然の音だ。それだけで鬱蒼としたスラムから這い出たみたいだ。これまでモザイク音や機械音を聞いてきた耳が、すーっと浄化されていくように感じる。家の裏側には庭があり、教会に咲いていたものと同じ黄色い花が一面に花びらを広げていた。
クラウドと美月の間には会話はなかった。クラウドの肩の上で、いい子に座る白猫の尻尾がときおりゆるりと揺れていた。
「クラウド、どうぞ」
扉が開いて、エアリスが顔を出した。
中へ入ると、彼女の母であるエルミナに迎えられた。もちろん、現れた男がボディーガードだと聞いて、けっしていい顔はしなかったが。また危ない目に遭ったのかい、とエルミナが言うほどだ。なにか事情はあるのだろう。
一刻も早く七番街へと帰りたいクラウドをよそに、エアリスがそこまで送っていくと聞かず、クラウドと美月はここでひと晩世話になることになった。
「猫ちゃんも、どうぞ」
クラウドがテーブルでシチューをご馳走になる横で、美月はあたたかいミルクを出され戸惑っていた。もくもくと湯気の揺らぐ平皿。年季は入っているが、ふちに入れられた赤い小花柄はどことなく上品だ。
「だいじょぶ、熱くないよ」
エアリスが首すじを撫でてくる。相変わらず彼女の手は柔らかくて心地がよい。一瞬まるで本当に猫になってしまったかのように擦り寄る美月だったが、自分が人間であることを思い出すと、しゃんと尻尾をひと振りして、目の前の皿に向き直った。
はて、どうやって飲もうか。いや、飲み方としては、そのまま皿に口をつけるしかないのだが、生まれてこのかたコップやペットボトル、あるいはストローで飲むことに親しんできた美月の中の常識が、それを邪魔する。
(すごく、飲みたい。喉乾いたもの)
思い返せば、朝セブンスヘブンを出て以来、食べ物も飲み物も一切口にしていなかった。怒涛の一日だったというのに、美月は恐怖もなにもかもを忘れて、まろやかな香りの立つホットミルクにごくりと小さな喉を鳴らす。
あの碧い瞳が皿のミルクを舐める自分の姿を見ると思うと気が乗らなかったが、人間の基本欲求には抗えまい。冷める前に飲もう、と意を決して美月は鼻を近づけた。
やり方はよくわからなかったが、想像していたとおりに舌を出して、ぺろ、ぺろ、とミルクを舐めた。
――おいしい
味覚まで猫になってしまったのだろうか。それとも、単にこのホットミルクが美味しいのか。美月には判断しかねるが、舌に触れた途端、なにかがじわっと溶けだして、鼻の奥に抜ける蜂蜜の香りに、牛乳の甘さに、気がつけば、夢中になって飲んでいた。
ごくり、喉を潤すたび、全身に血液が巡り指先まで熱を帯びる。
昼間感じたあの身の毛のよだつような冷えは、もうどこかへ消え去っていた。
「そうそう、いい飲みっぷり」
背中をやさしい手が撫でる。
――ああ、なんだかやばい、かも
心地よすぎて、力が抜ける。美月はミルクを飲むのをやめ、ふにゃり、その場に丸くなった。
「あ、もう寝ちゃうの? 食べたばかり、苦しくない?」
ふふ、と穏やかな笑みを子守唄に目を閉じる。
わたし、いつ、ひとに戻れるんだろう。たゆたう意識の中、美月はぼんやり考えた。

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