春子の気分はまさにどん底だった。これまでこんなにも落ち込んだことがあっただろうかというほど、彼女の気持ちは深く海底に縛り付けられ、泥濘に埋まる貝のごとくそこから一切動き出すのを拒んだ。今まで早ければ二十分で済んでいた朝の支度もその倍以上はかかるようになり、鏡をのぞけばいかにも憂鬱な女の顔が常にそこにある。取り寄せた大好物のバームクーヘンでさえ、喉を通らない。
しかし、たとえそんな日でも職場に行かなくてはならないのが大人というもの。
夜が明けて、土曜日。世間は休みムードだが、私学ともなると授業のある学校がほとんどだ。春子は重たい体を引き摺り、どうにか電車に乗って職場まで向かった。
春子の気分とはうらはらに、天気は晴れ。澄み渡る青空が空に広がって目に刺さる。どうしてこんなときに。春子は思った。雨であったらいくらかマシだったかもしれない。それもつまらぬ憶測だが。
学校へ着くと、そんな空気を読まない天候にやや呵責を覚えながら、春子は更衣室へ行き白衣を羽織った。ロッカーの扉に付いている鏡で髪の毛をチェックし、目が赤くなっていないか、いまだ腫れぼったくないか、それから顔は死んでいないかを確認する。目の充血はないが、下まぶたはいつもよりぷっくり膨らんでいる。これは許容範囲だろう。しかし、もちろん顔は死んでいる。
春子は下まぶたを指先で押さえると、瞑目して深呼吸をひとつ。そして更衣室から出た。
それからはいつもと一緒だった。朝一番の常連客を迎え、傷の手当てを終えたあと、始業の鐘が鳴ってアン・ハサウェイ・タイムを味わう。とはいえ、今日はそんな優雅さはなかったため、仕事に目覚める前の野暮ったいアナ・ウィンターがいいところだったが。
味の薄いコーヒーを無理やり喉へ流して、日中は諸々の事務仕事にとりかかる。この日はなぜだか授業中の来訪者が多く、すべてを終えるのには午前いっぱい使ってしまったが気がつけばあっという間に昼になった。
「春子!」
土曜日は午前で授業が終わる。部活動があるため夕方までは在校していなくてはならないが、ランチは約束があり外へ出た。
学校から少し歩いたところにあるカフェテラスに先輩の姿があって春子はどこかホッとするような泣きたくなるような気持ちを抑えて駆け寄る。
「すみません、休みの日に」
「ん、いーのいーの。春子こそ仕事抜け出してくれてありがと。んで、とりあえずコレね」
テラスに座るやいなや、店員がやってきてよく温められたおしぼりを渡してくる。それで手を拭っていると、見慣れたブランドの手提げカバンが春子の前に差し出された。
「ほんっとうに助かりました、先輩……」
春子は深く頭を下げて、紺色のそのカバンを受け取る。
昨晩、あのアクアリウム居酒屋に置いてきてしまった春子自身のもの。化粧室に立った装いでそのまま五条に連れ出されてしまったので、回収できずじまいだったのだ。
「まさか全部そっくり置いてあのまま帰るとはねえ。家までどうやって帰ったの?」
「携帯と定期だけは持ってたので、それで……」
幸い、ジャケットのポケットにそれらを入れる癖がついていたおかげで家路にはつけたが、正直春子もどうやって家に帰ったのかはっきりと覚えてはいない。ぐずぐずと涙を流し、しゃくりあげながら電車に乗る女の姿は酷く滑稽だったことだろう。思い出すだけでも胃が重くなる。
まさにどん底、これ以上の地獄はありません、と表情を暗くした彼女に、先輩はため息をつく。
「今日も飲み行く? って言いたいところだけど、さすがにその顔じゃ寝るのが先決だわ。寝れてないんでしょ?」
春子はこくりうなずいて弱々しく笑った。
昨晩、水槽越しに五条を見た瞬間は、まるで楽園に住んでいた心地だったのに、今はもうその楽園はどこにもない。くちびるに宿る熱も、ふれあう体の逞しさも、すべては夢に消え、残ったのは胸の痛み。
こんなにも、自分が弱い人間だとは思ってもみなかった。
「春子が好きだよ」
甘い声で言うくせに、そのまなざしは冷たく、いともたやすく彼女の心を鋭い釘で打ち付ける。
「このまま僕たち付き合ってみるのもいいんじゃない」
ちがう、そんなのを望んでいたのではない。
「男ならだれでもいいかな?」
だれでも、よくなんてない。
「僕のほうが満足させてあげられると思うけど」
ちがう、そんなことを言わせたかったわけじゃない。
思い出すだけで涙がこみ上げてくる。やさしい声で春子の自尊心を抉り、やわらかな毛布に包んでいた彼女の愛情を切り刻んでいった男。救世主だなどと崇めて、それがこの結果か? 心の中で悪魔がささやく。
彼は自分を助けてくれた。しかしそれは、その他大勢のひとりにすぎない。自分は、特別でもなんでもない。彼女の愛したあの穏やかなひとときも、たゆたう言葉の流れも、飛び続けるうつくしき背中も。すべては手をすり抜けていく。彼とは生きる世界がちがう。彼の世界に棲んではいけない。棲むことはできない。それを望むのなら、もはや自分は目障りなだけだ。
「でも、ここにいる。わたしも、五条くんも」
なにも知らないくせに。なにもわからないくせに。なにもかも理解したような顔をして、心底自分がいやになる。
わかりきっていたことじゃないか。そんなのむりだと、やがて現実を知ることになると。そうだ。遅かれ早かれ夢から醒めることは決まっていた。それでいいと覚悟をしていた。そうだったはずなのに、今さらなにを絶望するのか。
「好きだったんです、どうしようもなく」
涙がこぼれるのを必死で堪え、春子はあごを上にあげる。昨晩は血のようなルージュが塗りたくられていた唇も、いまやきつく噛み締められその色を失っている。
「生きる世界も棲む世界もちがう、そうわかっていたのに、いつしか飛び続ける鳥の羽根を休める場所になれたら、って。そんな、おこがましいことを望むようになって、彼はそんなものいらないっていったのに。それをわたしも受け容れるって笑ったのに」
彼を理想化しすぎた挙句、現実を突きつけられたからって、女々しく彼の前で泣いて。最後は逃げて。
「やんなっちゃうなぁ、ほんと」
春子の痛々しい笑いが青空に消える。
彼を救いたいなどと思ったのはだれだ? どんなことがあっても、いかなるときでも彼は救世主だと、唯一無二のヒーローだと、それは変わらないと考えていたのは、だれだ?
彼との日々を思い返すだけで涙がこみ上げる。数えられるほどの、少ない時間。しかし、なによりもあたたかく、鮮やかに春子の生活を彩っていた。
もはやなにが悲しいのかわからなくなってくる。自分の純真を抉られたところか、それとも、彼に自分をさらけ出してしまったことか、はたまた、かけがえのない時間が戻ってこないことか。
あの夜に交わした視線や吐息、そして、ぬくもりが脳裡に過る。
「すみません」
潤んだ声でいいながら、春子はおしぼりで目もとを拭った。
このあとも仕事が残っているのだから、今泣くわけにはいかない。「ランチ、頼みましょうか」放置されたままのメニューを彼女は開き、無邪気さを装って声を高くする。
「ラザニアランチがおいしいんですよ、ここ。あとデザートのガトーショコラもはずせません」
「春子」
「あとは」
「春子!」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「春子は、昔からそうだったよ。自分の目の前に飛び込んでくるものをすべて抱きとめる子。その形を変えることなく、あるがままを受け容れようとする。春子は、やさしくて、強くて、そのぶんずっとずっと弱くて、助けても言えない脆い子だった」
ランチメニューを指差していた手に、あたたかな手が重ねられる。
「でも、春子のおかげで、強くなれるひとがいるんだよ。春子が……たとえ世界じゅうのだれもが知らなくても、春子が見ていてくれるから、前を向いて歩ける人間がいる」
「せん、ぱい」
それにね、彼女は笑う。
「男なんて星の数だけいるんだから! 異性間交流会なら何回でも開いてあげる! 春子の歳ならまだまだ未来は明るい! そして、春子が一緒に来てくれるとなると、私も心強いったらありゃしない!」
「結局そっちじゃないですか」
春子もおかしくなってふっと吹き出す。
「どっちだと思ったのよぉ。二人仲良くいい男捕まえてやりましょ!」
「システムエンジニアは?」
「だめだめ。あいつら寝ることしか考えてなかったから。奥の眼鏡の人、あまりパッとしなかったけど彼が一番マシだったわよ」
「名前、なんでしたっけ」
「忘れちゃった」
「ひどい」
「そういうアンタこそ」
その後は憂鬱さも悲しみも、パスタとともにフォークに巻き上げて胃に押し込んだ。
明けない夜はない。沈まない太陽はない。どんなに困憊し、傷つき、絶望しても、人間はまた仮面を被って生きていくものだ。
「そうだ、春子」
デザートのガトーショコラまでをしっかり堪能したのち、仕事へ戻る時間となった。カフェの前で道を分かれる際、校舎に向けて帰る春子を先輩が呼び止めた。
「最近この辺で妙な通り魔流行ってるから、気をつけなよ」
「え?」
春子はふり返り、ごくり生唾を飲み込む。そばを車が通り過ぎる。しかし、周りの音が一瞬にして消えた。
「アンタぐらいの背格好の女の子がことごとく狙われてんのよ。ある日は首を絞められ、ある日は洋服を切りつけられ、またある日は後ろから押し倒され……でも、犯人の姿はだれも見たことがないの」

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