「都内■■区の駅前にて人型呪霊を視認。術式を駆使しその場に居合わせた女子学生一人と会社員男性を襲い逃亡を謀る。結界術を操りまた意思疎通がとれる模様、等級およそ準一級から一級」
耳元で聴こえてくる声に、直哉は淡々と言葉を返す。
「ソイツの特徴は」
「身長約二メートル、後頭部が発達し皮膚はドドメ色。人間かあるいは動物の血液をまとい地面に垂らしながら徘徊中です」
次いで流れてくるのは車の無線だ。
《■■区■■の路上にて女学生が倒れているのを発見。頭から血を流し、意識不明の重体。現在、容疑者は一般男性を連れてアパート建設現場へと逃亡中》
「こちら本郷、至急現場へ直行する。現着した機捜にはまず住民の避難と退避を要請、ホシは追うな、建設現場周辺も半径五十メートル圏内立ち入り禁止にしろ」
《しかし》
「小腸を引き摺り出されたくなきゃ、被害拡大を防ぐことに集中しろと言え。俺が高専の人間を連れていく。あと、もし先にスーツや黒服の人間が来ても、追い払うなよ」
無線が切れる。暮れ始めた辺りをグレーのセダンが駆け抜ける。
「あのオッサンはええんか」
フロントミラー越しに本郷は直哉を一瞥した。
「事件発生時に必要なのは、プロファイリングじゃないんでね」
「泣いてんとちゃう、あの人」
「仲間はずれにはしないさ。ただ、舞台はそれぞれに見合ったものが必要だろ」
直哉は唇をひしゃげる。
「ほんなら、行き先変えてもらおか」
本郷が眉を顰めた。そのまま、直哉は携帯を再度取り出し耳に当てた。
「伊地知君? 俺やけど、至急一級以上の人間、■■区に派遣できん? ああそう、あの現場、七海君とかええんやない。あ? 勤務時間? そんなん一刻も争う事態やし、しゃあなしやろ。ほなそういうことで」――一方的に電話を切る。
「さて」直哉は携帯を口に当てた。「いまから今川香織の家、向かうで」
車はネオンの瞬き始めた宵闇を切り裂いていく。
今川香織の自宅は、S英館大学前駅から電車で都営地下鉄に乗り継ぎ数駅、先ほど連絡があった事件現場とは真逆の方面に、車で三十分ほどの長閑な住宅地にあった。
まだ宵の口というのに辺りはむしろ閑散としており、東京という大都会の姿を忘れ、非日常から日常の世界に飛び込んだような静けさがある。そばを過ぎる車のエンジン音がやけに響いているほど。家路につくだろう学生の姿を横目に本郷は前方に佇む五階建てほどの賃貸マンションを見上げ、静かにサイドブレーキをあげた。
「まだ、帰っていないみたいだな」
今川香織の自宅は三階。部屋数は各階二部屋という小規模のマンションだが、いずれの部屋の電気も点いてはいない。直哉が学校を出てからまだ二時間も経っていない。これは想定内であった。刑事ドラマよろしく張り込みの姿勢を辞さない本郷をよそに、直哉は車を降りた。「おい」本郷は咄嗟に窓を開ける。
「下手な接触はやめてくれ。ここまでの努力を水の泡にするつもりか」
「どこまで信用ないねん。これでも俺、猪突猛進のガキやないわ」
開けていたブレザーのボタンを留め、学生鞄をリュック状に背負う。「見た限りは完全にガキだけどな」直哉はギロリと本郷を睨んで歩き出した。
サロンスタッフ、書店員、そして大学生、それらの点を繋ぐのが今川香織だった。本郷の調べによると、夏に失踪した美容師《サイトウカナエ》の顧客リストと書店員《スズキヒサヒト》名義の予約者カードに同一人物の名前があり、彼の中で捜査線上に上がったという。今川とサイトウはここ数年ほどの付き合いであり、二、三か月に一度の頻度で今川はサイトウを指名していた。スズキもそうだ。洋書の取り寄せのために、今川は必ずスズキを通して予約を入れていた。単なる偶然にしては、よくできすぎている。加えて、《ナルミユウヤ》だ。
ナルミはS英館大学前駅前のコンビニでアルバイトをしていた。あのコンビニは附属高校の生徒のみならず、教職員もよく利用する。ナルミが殺される二日前も、朝、サンドイッチを買いに立ち寄った今川とナルミが接触していたことが監視カメラの映像から判明している。だが、今川香織はシロだ――本郷はそう言う。
数日間彼女を尾行した結果、有益な情報は得られずじまいだった。その上、第一被害者であるサイトウカナエの死亡時には、彼女は語学研修の引率でカナダのモントリオールに滞在していた。しかし、一筋縄でいかないのが呪霊事故だ。人間が手を下さずとも、いとも容易くその首を縊ることができてしまう。腹を裂き抉ることだって、不可能ではないのだ。しかし、今川香織が呪詛師であるという可能性は、直哉とてこれっぽっちも抱いていなかった。
「……禪院くん?」
電車が過ぎ去る音が足の裏越しに響いてくる。地下鉄の駅構内から上がってきたのは白いセーターに紺色のロングスカート姿の今川香織だった。コツン、コツン、黒いショートブーツが頼りない韻律を刻む。
「先生に訊きたいことあって待っとったんや」
我ながら見事な口から出まかせだ。どうしてこんなところに、といった瞳が、さらにつよく揺れた。
「……もう遅いから、親御さんも心配するわ。明日ゆっくり学校で聞いてあげる」
階段をのぼりきり、今川が目の前に立った。ヒールを履いているが直哉の目線よりいくらか下に彼女はいた。平静を装いながらそれでも口もとが歪むのを堪え、直哉は彼女の腕に手を伸ばした。
「ここまで待ってて、それはないんちゃう?」
やわらかなセーターの質感を味わうように撫で、手首に触れる。ハッと彼女はその手を振り払った。
「禪院くん、帰ろう。おうちはどこ? 遠いなら先生タクシー拾うから、そうしたら」
視線すら合わさぬように鞄の中を探り携帯を取り出す。動揺しているのは目に見えていた。震える唇を捉え、直哉は唇を捲り上げると白い手に自分のそれを重ねた。
「今日、先生ェおらんかったから寂しかったわ」
彼女は研究日で休みだった。なにやら学校には来ていたみたいだが。
息を呑む。戸惑いの瞳が直哉を見上げる。白眼が潤み、唇が薄く開く。――そうや、もっと乱れろ。
「……ジョアンナの授業、楽しかったでしょう? 彼女、前は関西にいたのだけど、すごい人気の先生だったの」
「俺は先生ェのほうがええけど」
手の甲をなぞり、トップコートだけが塗られた華奢な指先を包む。全身が強張った。透明な壁に大きく亀裂が入った。
「大人をからかうんじゃないの」
サッと手を引く彼女に直哉は大人しく屈した。〝残念そうな〟顔をして、一歩、息つく間に間合いを詰めた。「先生ェの声、俺……」
好きやで――大きく肩を揺らして彼女は後ずさる。その腕を直哉はすかさず掴む。
「オイ、どこ見とんねん」ぶつかりそうになったサラリーマンにドスを利かせて、サッと今川香織の腕を離した。
「ほな、また明日、センセイ」
呆然と立ち尽くす彼女の耳元で囁き、直哉は地下鉄の駅に背を向け、後ろ手に手を振った。唇を捲り上げた直哉を、裏通りでグレーのセダンが迎え入れた。

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