第二幕 一

 フランス語は好きだ。その低くなめらかな抑揚と韻律はどちらかというと英語のそれよりも体に馴染む。詩をうたうように、あるいは野に出て風に身を預けるように、はたまた空を切る青い鳥のように、フランス語の音色は香織の心に安寧を齎してくれる。
 香織は詩の一節を詠じていた。かの有名なランボーの詩だった。

  Elle est retrouvée!
  —Quoi? —L’Éternité.
  C’est la mer allée
  Avec le soleil. …

 はっきりと発声せず、まるで吐息を洩らすように。クリーム色のリネンのカーテンからそそぐ、その光にさえ紛れてしまいそうなかすかな、しかし確かな声で。
「ランボーは一八八二年にこの詩を書きました。十七歳のときのことです。私たちにとって手にしがたい永遠というものをランボーはいともたやすく見つけてしまうのです」
 黒板に白いチョークで詩の一部を書き連ねる。
「Elle est retrouvée!――再び見つかった。Quoi?――なにがだ?」
 黒板の《L’Éternité》を指し示す。
「Elleはすなわち《L’Éternité》。フランス語の名詞には男性名詞、女性名詞の分類がありましたので、このl’éternitéは女性名詞。ランボーは永遠を再び見つけたのです。では、その永遠とはなんなのか」
 ふとふり返る。教卓の向こうにはまさしく詩を紡ぐのにふさわしいほどの静けさが宿っている。光に溶ける生徒たちの呼吸。なんとものどかで白昼夢のよう。
「C’est la mer allée――行ってしまった、過ぎてしまった、海」震えそうになる声を整える。口角を上げて、教室じゅうを見渡す。「Avec le soleil――太陽とともに」伏せた、あるいは頬杖をついてうつむいた生徒の中、またあるいはいくつかのさんざめいた瞳の中、気だるげな鋭い黄褐色の眼から目を逸らす。
「ランボーは翌年、一八八三年にはこの詩に手を加えて発表しています。その詩は、このla mer allée avec soleilの部分がla mer mêlée au soleilに……」
 先生、と声が上がった。はい、と香織はふり向いた。
「これはテストに出ますか」
 チョークを持つ手を下ろし、眉をさげた。
「いいえ。でも、フランス語は言葉です。学ぶあるいは、読む・書くだけではなく、味わうことも大切ですから」
 そこでチャイムが鳴った。静謐たる世界にガタン、ガタン、と物音が蘇る。
「次回はこの続きから、それぞれ予習を忘れないように」
香織は告げて、号令係の生徒に目配せをする。起立、礼、と間延びした声が響き、やがて喧騒に消えていく。

「香織先生?」
 大学のカフェテリアで、その日の遅いランチを摂っていた香織に声をかけてきたのは白衣姿の男性だった。黒縁眼鏡に緩くウェーブのかかったマッシュヘア、どことなく純白が似合う青年だった。。
「更家さん」
香織は彼の姿を認めると、それまで沈んでいた顔を弱々と崩した。
「悩みごとですか? ……あ、隣すわっても?」
「どうぞ、おかまいなく」香織は眉をさげて答える。
 更家と呼ばれた彼は、手にしたトレーを香織の向かいの席に置いて緩慢とした仕草で白衣を脱いだ。トレーの上にはきつねうどんが載っていた。
「またうどんですね」
「はい、選ぶの迷うといつもこれです」
 レンズの下でつぶらな瞳をくしゃくしゃにしながら更家はイスに腰掛ける。
 黒いスタンドカラーシャツを着て丁寧に指先で箸を割る彼は、ここS英館大学の大学院生だった。現在は博士課程に在籍し、学部は理学部、主に生物学を専攻し研究に明け暮れている。ランチタイムや放課後、たびたびこのカフェテリアで顔を合わせる仲だった。
「先生、水曜は忙しい日だから、今日はカフェテリアにいらっしゃらないかなと思ってました」
 更家はふうと黄金色のスープに息を吹きかける。彼に倣い、香織も止めていた手を動かし、デミグラスソースのオムライスをすくった。
「忙しすぎて、お昼摂れなくて。やっと落ち着いたから食べに来たんです」
 でも、本当はそれだけではないのだと、香織は更家の顔を見ながら思った。とろとろ半熟たまごのそれは有名レストランにも負けないと人気のメニューだった。たしかにバターの風味も豊かに口の中でほどけていく。ただ、あまりにぼうっとしていたからかすでに冷め始めているようだった。「先生って大変ですね」と更家が感心したようにつぶやく。曖昧に笑って香織もスプーンを進める。
「でも、更家さんこそ、今日は一日研究室ですか」
「そうですね、ちょうど集めていたサンプルの検査結果が出そろうので、このあともしばらく缶詰めです」
 どんぶりから上がる湯気にレンズが白く曇っていた。眼鏡を外ししきりにまばたきをくり返す更家に、香織は近くの紙ナフキンをとって差し出した。
「すみません」更家は頭をさげたあと、香織の目を見ると気恥ずかしそうにはにかんだ。
「更家さんは、すごいな。やりたいことが決まっていて、それにひたすら突き進んでる」
 お皿に取り残されたチキンライスを一粒二粒、かき集めて香織は言う。
「まあ、これまで寄り道はたくさんしましたけどね。僕にとっては香織先生だってすごいと思いますよ」
 香織は眉をさげた。とてつもなく情けない顔だっただろう。「そんなことありませんよ、授業もまだまだだし、ほんとう未熟者です」そう言って、香織はオムライスを口にした。とろとろの半熟たまごはどこか更家みたいだと思った。優しい舌ざわりだった。

 更家とのつかの間の安息を過ごした香織は、職員室には戻らず仏語科教科室にやってきていた。川の字型に建ち並ぶ校舎の中央、B校舎の四階に教科室はある。ちなみに職員室は一階だ。室内にはこれまで使用した教科書やワークなどの教材や辞書、洋書、はたまた授業で行なったロールプレイの衣装や小道具なども置かれている。
 テーブルの上のやや年季の入ったジャック・オ・ランタンのかぶりものを壁際のスチールラックに移し、香織は軽く整理整頓をした。
 窓から射し込んだ光に空気中の埃が瞬いている。淡々と散らばっていたテキストをまとめて本棚に戻す。それから指を彷徨わせ香織は一冊の洋書を取り出した。あと十数分後、七時限目の時間には仏語担当の教諭とネイティブ講師を交えて教科会議が始まる。それまで、授業の題材集めをすることにしたのだ。
 陽だまりの窓際に腰を据え、紺色の上製本のそれを開く。
「Elle est debout sur mes paupières, et ses cheveux sont dans les miens, …」
 ページをめくろうとして指先に痛みが走った。ひとさし指のはらを見てみると、真っ赤な珠が浮かび上がっていた。
「気をつけてって、言われてたのに……」
 香織はしばらく眺めていたが、やがてその珠をすくうように唇を寄せた。

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2023年3月18日光と影