episode.2

「あ、ども」
 仕事を終えた帰り、マンションに帰ってくるとちょうど二階と三階の階段の踊り場で彼女と鉢合わせた。
 上からやってきた彼女の手には、透明なゴミ袋がひとつ。すっかりリラックスタイムだったのか、額にはタオル地のヘアバンドがつけられていた。
 ベイビーブルーと白のボーダーのそれは、ふわふわもこもこでいかにも気持ちよさそうだ。うわ、触ってみてぇ。そんなことを一瞬思ったが、もちろん喉まで出かかったところで唾とともにのみ込む。
 カツンとブーツが鳴らした音に気づいて、俯きがちだった瞳が自分を捉えると、彼女は咄嗟にバンドを外して前髪を整えた。
「おつかれさまです」
 いまさら隠しても遅いとは思うが、女性ってやつはそうなのだろう。とはいえ、へにゃり、困ったように笑った顔がなんとなくカワイイ。
 あざっす、そっちも、と自分も帽子を取って頭を下げた。
「ゴミ、今日なんすか」
「そうそう。毎週水曜と土曜だったかな」
「やばい。まとめてなかったな」
 髪を掻き乱せば、彼女は安心させるように、「あと一時間くらいあるから、大丈夫ですよ」と階段を下りてくる。
 彼女はいわゆるお隣さんってヤツだ。高専を出てしばらく住んでいたボロアパートから念願叶って引っ越してきた、このマンションの住人。
 呪術師という特殊な職業柄ゆえ、人間関係が複雑でなさそうな、できれば対人問題が少なそうなそれなりの家賃のところに移り住んだわけだが、なんだかんだと付き合いが続いている。と、いっても、こうして顔を合わせたら挨拶と、会話を交わすくらいだが。
「お仕事、大変なんですね、こんな時間まで」
 いまだ直らない前髪の跳ねを懸命に撫でつけながら彼女は言う。
「あぁ、まあ、ザラっすね。深夜に駆り出されることもあるし」
 ズボンのポケットから携帯を出すと、時刻は午後九時を回ったところ。これでもまだ早いほうではある。
 呪術師なんて仕事、そんなものだ。終わったと思えば電話で呼び出され、そのまま任務のはしごなんていうのも少なくはない。その結果、昨日なんて家に着いたのが日付を超えたあとだった。
 時刻を知った途端、眠気が襲ってくるのは人間の性なのか。ふあ、とあくびを噛み殺すと、このままじゃ直ベッドインしてしまいそうだと思い、「スミマセン引き留めて。俺もゴミまとめてきます」と軽く頭を下げる。彼女は、こっちこそ、とかぶりを振った。
 しかし、「あっ」思い出したように声を上げる。
「あ?」
 首を傾げると、風呂上がりの、濡れた瞳が自分を見つめていた。
「お腹、空いてないですか?」

「猪野くん、そういえば新居はどうです」
 明けて、次の日。今日は七海サンとの任務だった。内容は廃ビルに溜まった複数の呪霊を祓うという至極ありふれたもの。難なくそれを終えて、補助監督がピックアップしにきてくれるのを待つあいだ、七海サンは訊ねてきた。
「なかなかイイっすよ。七海サンの言うとおり、街の雰囲気も落ち着いていて暮らしやすいですし」
「それはなにより」
 言って、サングラスを押し上げる七海サンに、あと駅前になかなか旨いやきとり屋があって、と携帯の写真を見せる。
 最近新しく住み始めたマンションは、七海サンのアドバイスを元に選んだ物件だった。
 高専時代からしばらく東京に親しんでいるとはいえ、遊ぶのと暮らすのではだいぶ状況が変わってくる。補助監督の数人にも話は聞いたが、七海サンの意見は中でもイチバン有益だった。それは、もしかすると個人的な感情が入っているからかもしれないが。
 しかし、会社員時代の経験をもとに、この地区は土地価格が高いわりに治安がよくない、や、どこそこは今後新しく都市開発が始まるので価格が高騰している、などなど。普通ならば考えないようなことを教えてくれるのは非常にありがたかった。それを押し付けがましく言い聞かせるのではなく、さりげなく会話に紛れ込ませてくるあたりも、さすがは七海サンである。
 ともかく、そのアドバイスをもとに、二級術師の給与で無理なく住める、しかし、快適でひとり暮らしでももて余さない場所を探し出したのだ。
「しかし、君ならもう少し都心に住んでもよかったのでは」
 新しいマンションはいわゆる東京の中でも下町にあり、東京駅まで電車でそうかからない都心のひとつではあるが、一般的に想像される東京とはほど遠い。娯楽はとくになく、周りは単身のサラリーマンかファミリー層ばかりだ。
「いいんすよ」俺は言う。
「とくに遊びたい年齢でもないですし、なによりうまい店が結構あるので気に入ってますから」
 七海さんの言い分もわからなくもない。もう少し華やかな場所でもよかったのでは、というのはほかの人間にも言われた言葉だ。
 移り住んだ地名を伝えると、いまだに補助監督の中でもポカンとするひとたちはややいる。だから、きっとマイナーではあるのだろう。でも、そんなのもはや気にはしない。
「それに……」
「それに?」
 そこまで言ったところで、黒塗りの車がやってきた。
「お待たせしました!」とベテランの補助監督が窓から顔を出し、ドアを開けてくれる。示し合わせることもなく、俺たちはそれに乗った。

 なんだかんだ、新居は悪くないと思う。犯罪率は比較的低いところだから、さほど呪霊も見かけないし、街だって静かだ。夜だれもいない家に帰ったときの、あまりの無音さにときおり驚くことだってあるほど。
 最初は違和感が大きかったが、慣れてしまえばこっちのもので。ベッドも新調した今や、ぐっすり眠りに就いている。少し歩いたところにはスーパーやドラッグストアもあるし、駅のほうまで歩けば、いかにも下町っぽい飲食店が軒を連ねている。
 なにより、ひとり疲労困憊して帰ったとき、運がよければ手作りのごはんを食べられるのはなかなかいいものだった。
「豚汁、作りすぎちゃって」
 昨晩、ゴミをいそいそと捨てに行って戻ってきた彼女は、具沢山のそれを耐熱容器に入れて渡してくれた。恥ずかしそうに、ぽりぽり頬を掻きながら。
 すぐ食べられるように温めて、さらには甘めの厚焼きたまごと丁寧にもラップに包まれたおにぎり付き。これにたくあんでも付けたら、そこらへんの定食屋で金をとれるレベルのお裾分けだった。
 家に帰ったら適当に焼きそばでも作るかと思っていたところ、まさに晴天の霹靂。いやいや、でも、そう何度も世話になるわけにはいかないし、とは遠慮したものの、「嫌じゃなければ、食べてくれたほうが助かる」と言うので嬉々として受け取ったわけだ。
 ひとり暮らしには多すぎる量の豚汁は、なんでも、「むしゃくしゃした」結果できた産物らしい。
 彼女は負の感情が溜まりに溜まると、料理で発散してしまうタイプのようだった。
 昨日は上司から無茶な仕事を振られ、挙句、上のミスを自分になすりつけられてしまい、やり切れなくなった思いを根菜たちにぶつけた。その前のカレーはよく知らない。
 そんなんでスッキリするのか、と半ば感心したものだが、ふやふやと締まりのない顔で笑う彼女を眺めていると、まあ発散できているならいいのか、となぜだかひとりで納得してしまった。
 なにはともあれ、あいさつと、会話と、お裾分けする関係は、意外と悪くない。
(それに、ウマいんだよなぁ)
 流れゆく窓の景色を眺めながら、昨晩の味を思い出す。
 出汁の効いた、ホッと息をつきたくなるような豚汁。味噌の塩梅と、それからゴボウの風味がとても美味しかった。大根に人参にじゃがいも、こんにゃくまで入っているから、飲むと言うより食べるに近かったか。
 野菜は柔らかいがうまく煮崩れず、じゃがいもは口の中へ入れるとほろほろとほどける絶妙な火の通り具合。汁を飲めば味噌の甘みと出汁のコク、それから豚肉のこってりしたうまみまでもが喉を包む。
 おにぎりはシンプルな塩むすびだが、これまた塩加減がちょうどいい。さらに言うなら、白米の炊け具合もバッチリだった。水分を含みすぎない、米一粒一粒の食感が味わえる、そんなおにぎり。甘い玉子焼きなんて、今まで食べたことないそんな優しい美味さだった。
 ゴミをぶち込むようにビニールに入れて、さっさと下の収集場に置いてきたあと、シャワーを浴びて食べたそれらは驚くほどに身に沁みた。
「うま……」と呟いた自分の声が、かえって気持ち悪かったほどだ。
「う」と「ま」の間に、思いがけず「ン」が混ざるような。天を仰いで、しばらく放心して、それからまた箸を使って豚汁をかき込んで、おにぎりをかじって。このあいだのカレーも、スパイスが効いていてとびきりウマかった。
 とにかく、隣のお姉さんが食事を賄ってくれるなんて、どこかで聞いた漫画みたいだなとは思うが、存外楽しんでいる自分がいた。
 へにゃり、と、警戒心を完全に削いだ顔で笑う彼女の顔を思い返して、無性に口もとがむずがゆくなる。
 ほんと、不思議なモンだ。
「なにか、いいことでもありましたか」
 七海サンの声に、ハッと意識を取り戻した。横を向けば、先ほどまで携帯で高専への連絡をとっていた彼は、今はもう足組をしていくらかリラックスした様子で座っていた。そうだ、まだ車の中だった。
「いいこと、ですか」
「ええ、表情がいつもより緩んでいるようでしたので」
 まさか、七海サンの前でニヤついてたのか、俺! 慌てて口もとを撫でつけると、七海サンはサングラスの下でそっとこちらを一瞥した。
「いや、いいことっつうか、なんつうか。なんでしょうね」
 言葉を濁す俺に、彼はそのまま視線を前に戻してさほど関心がなさそうに、そうですか、と言う。
「スミマセン、なんかうまく言えないんですけど」
「謝る必要はないでしょうよ」
「まあ、そうなんすケド」
 普段なら明け透けに話してしまえばいいことを、なぜだか喉の奥に留める。
 それでも、目の前のスマートなこの人が自分の立場ならどうするのだろう、とも考えなくもなかった。
(いや、七海サンがお隣さんにメシの世話になる図とか、ちょっと想像つかないな)
 車は薄暮の空を駆け抜ける。昨日よりはかなり早い帰宅だ。おそらく今日は自炊できるだろう。昨日の豚汁も冷蔵庫に残っている。それを温めて、あとはスーパーで適当に見繕ったもの出して。
 そういえば、カレーのお礼もなにもしていない。
(……七海サンなら、きっと、するんだろうな)
 いつもの癖で帽子をずり下げて、俺はひとりでに唇をむっと引き結んだ。

 

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2023年3月14日冷めないカンケイ