――天国みたいだ。
息を吹き返したあの日、俺は、たしかにそう思った。
目が覚めると、ほのかに香ばしい香りが鼻を掠めた。まだ半分眠りに浸かったまま瞼を開ける。真っ白な天井、それから風にたなびくカーテン、そして、腕の中に愛するひと、とはならなかった。
「珍しいな」
重たい瞼を精一杯押し上げて、シーツの海から起き上がる。いつもならば、彼女よりも先に起きて、あどけない少女のような寝顔を眺めるというのに。今日はベッドの中に彼女の姿はなかった。
このごろ体調が優れないと言っていたから、飲み物でも取りにいったのだろうか。それとも――
「……焦げてる?」
彼女の居場所に思いを巡らせようとしたところで、香ばしい香りが強くなっていることに気がついた。香ばしさを通り越して、ほのかに苦い。
ベッドから飛び降りると、俺はキッチンへ向かった。
そこには、ナイトドレスのまま、コンロの前に立っている彼女の姿があった。唇に手を当て、呆然とした様子でフライパンの中を眺めている。
一歩キッチンへ踏み入ると、瞬く間に苦い匂いがよりいっそう立ちこめた。なるほど。なにが起きているのかそこではっきりと判明して、俺はひとりでに頬を緩める。
そうっと足音を立てぬよう近付いて、頼りなく丸まった肩に腕を回した。
「どうかした?」
完全に気を抜いていたのだろう。びくり、体が跳ねて、「スキン……」と弱々しい声が漏れるのが聞こえた。
「朝ごはん?」
「そう、そのつもりだったんだけど」
「見事に焦げたグリルドサンドだ」
フライパンの中で、食パンだったはずのものが横たわっている。きつね色を通り越して、濃い茶色、あるいはところどころ黒くなっている。二枚重ねたパンの間からは、とろりと黄色いチーズが溶けだしていて、なんだか、浜辺で肌を焼きながら居眠りでもしてしまった人みたいだ。
「ごめんなさい、作り直さなきゃね」
思わずくすり、笑みを零してしまったからか、彼女は落胆したままフライパンを手にしようとする。俺は咄嗟に肩を抱きしめて、それを邪魔した。
「ん、このくらいなら、全然食べられる。むしろ、バターが焦げていい感じじゃないかな」
いつか二人で見た映画のチーズサンドを真似たのだろう。バターをたっぷりと塗ったパンの表面は、たしかに焦げてはいるけれど、これはこれで味がある。うん、溶けたチーズと焦がしバターが絶妙にマッチしそうだ。
「むりしなくていいのに」
「全然。砂糖と塩を間違えたコーヒーよりかは大丈夫さ」
二人で暮らし始めたころの記憶を引っ張り出すと、彼女にはまさに苦くてからい思い出だったのだろう。シュン、と怒られた子どもみたいに彼女はいっそう体を縮こめてしまった。
それが、なんともいじらしくて、みぞおちのあたりを羽でくすぐられたみたいになる。しょげた彼女の耳に、俺はやさしくキスを落とすことにした。
「そんなことより、起きたら君がいなくて、さみしかったんだ」
いくらパンが焦げていても、涙目になるくらいコーヒーがからくても、きっと俺は許してしまう。この温もりを感じていられることが、奇跡のようなものだから。
ぎゅう、と朝一番の彼女を味わおうと腕の力を強めると、ふふ、と彼女はこそばゆそうに身をよじった。
「体調は平気なの」
「ん、大丈夫よ」
「そう、それならよかった。あんまり、むりをしないでくれよ」
甘える猫のように鼻先を擦りつける。
「スキン、くすぐったいってば」
腕の中で、愛らしい花がはにかんだ。
目が覚めると、そこは真っ白な世界だった。眩い光が差し込んでいて、ピ、ピ、となにやら規則的な音が繰り返されている。自分の体に繋がった機械と、ベッドと、それから、窓以外にはなにもない部屋だった。
――スキン、目が覚めたのね
ぼう、と目の前の景色を眺めていると、彼女が視界に映り込んできた。
今にも泣きだしそうに顔を歪(ゆが)めながら、聖母みたいな笑みを浮かべて。目映い光を背に浴びたその姿は、初めて彼女を見たときのように淡い光のヴェールを纏っていた。
――天国みたいだ
俺は、その時、咄嗟に口にしていた。決して、そんなことはないはずなのに、願ってやまなかったものが、そこにあったから。
――生きてる、生きてるのよ、スキン
そんな俺の手をぎゅっと握りしめて、涙を零しながら彼女は笑った。
朝食を終え、リビングで二人、まったりとしたひとときを過ごす。ソファに座る俺の脚の間に、彼女がすっぽりとはまり込んで、本を読んだり、テレビを見たり、すっかり、ありふれたいつもの光景だ。数カ月前、俺たちが血に塗れた生活を送っていたとは誰もが考えつかないであろう、穏やかな時間である。
彼女の陽だまりに咲く花のようなやさしい香りや、じんわりと伝わってくる温度を感じながら、俺は生きている実感を噛み締める。
ダイナーで錯乱し、弾丸に貫かれたあと、虫の息であった俺を連れ出してくれたのは彼女だった。足抜けすることが難しい世界で、なぜ、そんなことができたのか。訊けば、ボンベロが俺たちを逃がしてくれたのだという。意識のない男の体を抱えて、彼女は身ひとつで危険な橋を渡った。そして、俺たちはそこで、死んだことになった。
彼女には言っていないが、俺はひとつ、はっきりと覚えていることがある。
あの日、母の胎内に戻るかのように、滔々とした温もりに引きずりこまれる中、男の唸りが聞こえたのだ。
――お前らは、いつも厄介ごとばかり運んできやがる
すぐに誰のものかはわかった。何年も何年も、聞いてきた声だったから。
悪いな、ボン。力の入らぬ体、目の前は真っ暗で、なにも見えない。届くことはないとわかっていながら、友に向けて俺は謝った。最後まで彼には世話をかけてばかりだった。本当に、すまない――薄れゆく意識を縫いとめるように、また一つ声が続く。
――さっさと消え失せろ、二度と戻ってくるな 地を這うように、心底忌々しげな声だった。
でも、俺は、知っている。その声が、いつもよりも大きくて、なにかを押しこめるように少しだけ高くて、微かに震えていたことを。
ありがとうボンベロ、と輪郭を失った涙声があとに続いた。
「本当に、ボンには頭が上がらないな」
「スキン?」
彼女の髪に唇をうずめて、ひとりごとを呟いた俺の頬をやさしい指先が撫でた。
「どうかした?」
「……いや、幸せだな、と思って」
そう、俺は、幸福に包まれている。これ以上にない、きっと、この世でもっとも満ち足りた場所に座っている。
「奇遇ね、私もそう思ってた」
傷に触れる熱が、心地好い。
本当は、怖かった。あの生活を、人生を、抱えてきたすべてを置いてきたことが。
ひどく、恐ろしかった。なにも恐れることなく朝を迎えるということが、愛する存在とともに歩む人生が。
積み荷を降ろした馬がバランスを崩すように、俺はどのように歩いていけばいいかわからなくて、しばらく立ち尽くしていたように思う。そんな俺の手を彼女は取ってくれた。
彼女のお腹に手をあてる。
今でも、不安になることがある。照りつける太陽の光に、やさしく傷を撫でる風に、そして、新たに背負ったものの大きさに。だが、もう、恐れることはない。
手のひらから、とくり、とくり、心地好いリズムを聞く。この穏やかな鼓動が、空気が、時間が、世界が、なんと愛おしいことだろう。
「ありがとう」
口にせずにはいられなかった。突き放されてもなお、俺の手を取ってくれた彼女に、きっかけをくれたあの子に。そして、あの日、俺たちを追い出してくれた友に。
「なにか、言った?」
首をかしげる彼女の体をぎゅっと抱き込む。
「ううん、なんでもない」
俺は笑って、彼女のお腹をするりと撫でた。今、組織がどうなっているか、あのダイナーが今もあそこにあるのか、俺にはわからない。それでも、いつか、どこかで彼らに再び会えるといい、そんなことを願いながら。
陽射しをたっぷりと溜め込んだ部屋は、目映いほどの光に包まれている。思いがけず胸がきゅ、と締めつけられるほどに。そして、つい先ほどまで朝の冷たい空気に浸かっていた体を、最高級の真綿でできたガーゼでくるんでぬくめるように。
「それより、君と、もうひと眠りしたいな」
ぴったりと体をくっつけて、彼女の耳に頬を擦り寄せる。
「夜、眠れなくなっちゃう」
「そうしたら、また夜更かしすればいい。ほら、見たい映画があるって言っていただろ?」
「……それもそうね」肌を撫でる俺の手に、小さな手が重なった。
ここは天国でもなんでもない。
だが、世界は、俺が思っていたよりも、はるかに美しい。
世界は美しい

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