懇親会は刻一刻と迫ってきていた。どうやらそのことについて話があるようで、下拵えを終えたボンベロは、ジュリアを調理場に招き入れた。
「スキンが、デルモニコの死に関する情報を集めていたのは知っているか」
聞こえてくる声に、わたしはこっそり調理場を覗き込む。
ボンベロもジュリアも、今日の懇親会が単なるデルモニコの一周忌の弔いで終わるとは思っていないようだ。二人は神妙に顔を突き合わせている。
「ええ。不穏な噂が流れていたもの、当然コフィの耳にも入っていたわ」
調理台の真っ赤な林檎を手に取りながら、ジュリアは言う。すっと目を鋭く細めて、口元に一切の感情を載せないその姿は、ジュリアというよりかは、エヴァと呼ぶのが似合う。
彼女自身は、コフィに仕える殺し屋だ。傷だらけでここへやってきた日から、姿を晦ましていることになっているが。
「コフィは、なにがなんでも邪魔者を排除するつもりよ」
ぴんと張り詰めた声に、ボンベロは彼女を見据えた。
「ジュリア、お前はどこまで知っている?」
ジュリアはなにも答えなかった。手の中の赤い林檎を見つめ、冷ややかに口を閉ざしている。だが、伏せられた瞳が答えを物語っているようだった。
ボンベロはその様子から万事を悟ったようで、長く垂らした前髪を微かに揺らしたあと、はあ、と大きくため息をついた。
「……女のほうが恐ろしいな」
「どういうこと?」
「こっちの話だ」
ともかく、とボンベロはジュリアの手から林檎を奪って調理台に戻す。
「今日、新たなボスを指名するにあたって、誰かがなんらかの動きを見せてくるだろう」
「マテバ、マリア、無礼図、そして、コフィ。ただで済ますはずがないわね」
「ああ。だが、マテバの姿がしばらく見当たらないと奴が言っていたな。もしかすると……」
その先をボンベロは口にしなかったが、なにを言わんとしているかはわたしでもわかった。スキンが以前ボンベロに同じことをぼやいていたからだ。
ジュリアは苦虫を噛みつぶしたように眉をひそめて、ボンベロが銀色のボウルを取り出すのをじっと見つめた。
「ボン、コフィにはくれぐれも気をつけて」
「ああ。お前も、なにかあったら……」
――グルルル
と、わたしの足元で菊千代が唸りだした。
「カナコ?」
「しっ、あなたが声出すから」
二人は気がついてしまったようだ。慌てて唇に指をあてて足元を見遣るが、菊千代はここの主人の相棒然とした顔つきで、鼻をフン、と鳴らすだけ。
「……カナコ、いるなら俺を手伝え。ジュリアは役に立たん」
やれやれといった具合のボンベロの声に、わたしは菊千代を睨みつけて、おずおずと調理場に顔を出した。
「なにをすればいいの?」
「そこにあるアボガド、トマト、玉ねぎを切っておけ。懇親会の前に腹拵えだ。俺はこいつのマドレーヌを作る」
いつもどおりに命令を下すボンベロにわたしはこっくり頷く。ジュリアは散々な言われようだったが、にっこり笑っていた。
調理場でこの二人と一緒に立つのは、なんだかみぞおちのあたりがむず痒い。
キャンドルの灯が揺らぐ白い背中、薔薇を描くような指先、重なる影、気を抜けば脳裏に掠めるものをなんとか押し込めて、ちらりちらりとボンベロとジュリアの様子を見ながら、言われたとおりに野菜を手に取る。ボンベロは小麦粉、砂糖、ベーキングパウダー、卵、バター、と材料をボウルに注ぎ込み、手際よく混ぜ合わせている。いつものように端正な横顔には、感情ひとつ載っていない。
ジュリアはというと、アボガドの皮を剥き、スライスするわたしの手元を覗き込んでは、感心したように声を上げた。
「さすがね、カナコ」
「それくらいガキでもできる」
すかさず飛んでくるボンベロの揶揄に、ジュリアはむっと唇を突き出す。ぬるりと逃げるアボガドを捕まえながら、いつものやりとりにわたしはほんのり口元を緩めた。
あっという間にボンベロはマドレーヌの生地を作り上げたようで、シェル型に流し込むとオーブンへと入れた。そこでバトンタッチだ。
「野菜は切れたか」
「はい」
「皿を用意しておけ。俺はパティとソースを作る」
ボンベロがこちらへやってくる。わたしはそろりそろりとその横をすり抜けて、メルティ・リッチ用の皿を取りに向かった。
カウンターテーブルには、先ほどクロスで拭き上げたグラスと、賄い用の皿が積み上げられている。それぞれ人数分それらを胸に抱えると、わたしはジュリアの特等席を眺めた。
左端から四つ目、ちょうどDの前あたり。よくそこで、ボンベロと彼女がいつものやり取りを繰り広げていた。
思えば、このホールではダイナーの主人と客として、向かい合わせになることの多い彼らだった。けれど、一度だけ、そんな彼らがカウンターで隣り合わせに佇むのを見たことがある。なにを話していたのかも覚えていない、いや、もしかすると彼らの間には会話がなかったのかもしれない。スツールからぶらんと脚を放り出すジュリアの横で、ボンベロは紫煙をくゆらせていた。
その光景を目の当たりにしたわたしは、なぜか不思議に思ったのだ。なんてことのないひとときのはずなのに、どこか掴みきれない雲のようなものを感じた。いつものように二人の間に流れる独特の雰囲気だとか、時間だとか、それと同じようで同じじゃない。
そのとき感じたなにかが、一体なんであったのか、今はわかる。
ボンベロはどこかを眺めていた。壁の絵画だったかもしれないし、テーブルの上の装飾だったかもしれない。けれど、指の先に葉巻を挟み、気怠げに煙を吐き出しながら、彼は、ボンベロは、ずっと、ずっと……。
「勝手につまみ食いしようとするな」
皿を抱えて調理場のドア口まで戻ると、そんなボンベロの声が聞こえた。
「だって、すっごくいい匂いなんだもの」
またジュリアがなにかしたのかな、と思っていると、すぐに彼女の反省の色をまったく感じさせない声が追いかけてきて、いつもの兄妹のようなやり取りをしているのだと確信する。
「苺のいい香り。果物とお肉が合うなんて、よく考えたわよね」
「フレンチじゃ珍しいことじゃない」
と、言いつつボンベロは満更でもなさそうだ。きっと表情は微塵も動かないのだろうが、声が微かにやわらかい。もしかしたら、本人も気がついていないほどかもしれないが。
ほんのちょっとの好奇心で――いや、かなりかもしれない。そんな二人のやりとりを眺めるのが、わたしはいつのまにか好きになっていたのだから――足元に菊千代がいないことを確認すると、わたしはそっと覗き込んだ。
「味、見てみろ」
ボンベロが銀色のスプーンをジュリアに差し出している。
「いいの?」
「早く」
たらりと垂れる濃い苺色のソース。急かされて、ジュリアはちろりと赤い舌を出す。と、スプーンを咥えた。
なんだか、とても煽情的な光景だった。わたしがボンベロだったら、きっと、物欲しそうに唇を開いて彼女を眺めてしまうだろう。彼に限って、そんなことはないだろうけど、少しだけ彼を気の毒にも思った。
「ン、酸っぱい」
ジュリアがきゅっと目を細めると、ボンベロもスプーンに残ったソースを舐めた。
「これだとまだ火のとおりが浅い。かといって熱しすぎると風味を損なう。絶妙なバランスが大事なんだ」
ふうん、とジュリアは頷きながら、口の中で舌を転がしている。それから唇についたソースを親指でふき取ると、それを口に含んで舐めとった。
わたしはじいっとそれを見つめてしまった。ジュリアの仕草は、ときおりいけないものを見ているんじゃないかって思うくらい、すごく色っぽい。
ごくり、唾を飲み下していると、ボンベロも長く垂れた前髪の下からそれを見ていることがわかった。
「わたしにもできるかしら」
うれしそうに言うジュリアに、ボンベロは視線をサッとソースに落とした。
「さあな。お前は昔から壊れた振り子のようで、まったく見ていられん」
くるくる、ボンベロは平然を装ってソースパンをスプーンでかき混ぜる。
先ほどまで香っていた甘酸っぱい香りが、もうすでに微かに変わり始めていた。酸味だけを失い、あの肉汁たっぷりのパティにぴったりな、芳醇なストロベリーソースの匂い。
「なによ、壊れた振り子って」
「振れ幅が狂ってるんだ。不安そうに瞳を揺らしているかと思えば、平気で引き金を引く。きれいにマドレーヌを食っているかと思いきや、顔中涙と鼻水まみれ」
唇を尖らせるジュリアに、ボンベロは呆れを孕んだ口調で列挙する。と、ジュリアは、ほんのり目を丸くした。
「ボン、覚えていてくれてたの?」
ジュリアが語ってくれた話をわたしは思い出した。ボンベロのマドレーヌを食べて、泣いた話。ジュリアは、「きっとボンベロは覚えていないでしょうけど」と言っていた。
ボンベロはそうだともそうでないともはっきり言わなかった。だが、ジュリアの無垢な瞳に見上げられて、微かにみじろぎをしたようだった。
「妙な格好をしたやつが来たと思ったんでな。誰を真似したかわからんが、そのうるさい目も、その服の色も、お前にはちっとも似合っちゃいない」
少しだけ、捲し立てるように早くなった口調が、どことなくボンベロを幼く感じさせる。素直じゃないんだから、わたしは扉に隠れながら、そっとため息をつく。
一瞬ぽかん、としたジュリアだったが、次の瞬間には、「ひどい」と口にしながら笑みを零していた。
調理場は豊かな音と香りに包まれていた。ソースの匂いにパティの焼ける匂い、そして、マドレーヌ。ホールにも溢れ出たそれらは、どれもこれもみぞおちの奥をそっとくすぐる。
ボンベロは精神統一でもしているかのように一切ジュリアのことを見ずに、ソースパンを火から下ろして、水気を含ませた布巾の上に置く。じゅっと音を立てると、ボンベロはそのまま流れる動作でターナーを手にした。
「ねえ、ボン」
「なんだ」
ターナーを手に、淀みのない手つきでパティの下にそれを滑り込ませたボンベロが、素っ気なく返事をする。
「私、フィナンシェが食べたいわ」
魔女のような目元をゆるりとたゆませて、ジュリアは言った。
パティをひっくり返そうとした手が止まった。
「なぜそれを今言う」
オーブンにはマドレーヌが。もう五分と経たずに焼き上がるだろう。小さく唸ったボンベロに、ジュリアは、ふふふ、といたずらに笑う。
「シュークリームもガトー・ショコラも、アップルパイ、アマンディーヌ、それから、スフレも」
胸の前で、指折りする。
「ボンベロの作ったものをたくさん食べたい」
彼女が頬を綻ばせるたびに、深緑のワンピースが揺れた。彼女のやわらかい髪も、長い睫毛も。それから熟れた赤い唇も、花が踊るようにゆるやかにカーブを描いていた。
ボンベロはため息をつき、パティをひっくり返す。じゅう、といい音が響く。
「……気が向いたら作ってやる」
しょうがない奴だ、とでもいうような声色。それもそうかもしれない。だって、ボンベロは彼女がエヴァであることを、「似合っちゃいない」って言ったのに、ジュリアは笑って、「ボンベロの料理を食べ続けたい」なんて言うから。
「そうこなくっちゃ」ジュリアは声を弾ませる。
そのまま瞳を閉じて大きく息を吸い込むと、ん、最高にいい匂い、と破顔した。
ボンベロがゆっくり顔を上げた。長い前髪がさらりと揺れ、スッとした鼻すじがジュリアに向けられる。あのいつも冷ややかに開かれていた黒い瞳は、やわらかく、そしてまあるく、彼女を映していた。
時が、まるで、風のない晴れた日のように二人を包み込んでいた。
懇親会まであと僅か。
この静けさが紛れもなく嵐の前触れだったことなど気づかずに、わたしは手にしたお皿を胸に、ホールの床に寝そべっている菊千代のもとへと戻った。

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます