彼女は、ときおりとてもあどけない顔で笑う。どこそこのパンケーキが美味しくてね、と教えてくれそうな、そんな顔で。
彼らが属している組織で、前任のボスの一周忌だかなんだかの話が出始めたころ、ボンベロが珍しくエヴァを調理場に招き入れた。
突然店に顔を出す彼女に、きっと作業の手を止めたくないという理由なのだろうが、彼が自分の城に客を入れるのは滅多にないことだ。なにを話すのだろうかと正直気になったが、城の王がそんなことを許すはずもなく。まるでそんなわたしの心情を見透かしているかのように鋭い視線を残していったので、蛇に睨まれた蛙になるしかなかった。
「準備を進めておけ」というボンベロの指示どおり、わたしは憂鬱な開店に向けて、赤いナプキンを折る。耳をそばだてるも、さすがは二人とも殺し屋ということもあって、調理場からはなんの情報も寄越さない。しばらく、黙々と作業を続けた。
「――本気で言ってるのか」
と、今まで微かな囁きほどしか聞こえなかったのが、突如はっきりと聞き取れた。
「ええ。逃げるの。二人で、どこか知らないところへ行く」
「お前も懲りない奴だ。そんなことができるとでも思ってるのか」
「やってみないとわからないじゃない」
なんの話をしているのかは正直わからなかった。だが、きっとスキンのことなのだろうと思った。ずき、と痛んだ胸に、ナプキンを畳む手を止める。
「ジュリア」
ボンベロの声が響いた。
エヴァではない誰かの名前に、わたしは自然と視線を調理場のほうへと向けていた。
「なぜ、お前はあいつに執着する」
姿は見えないが、きっとボンベロはエヴァにまっすぐ対峙しているのだろう。ペティナイフを下ろして、スッと通った鼻すじを彼女のものと同じ直線上に合わせるように。
ボンベロの言葉に対して、彼女の答えはなかった。
だが、そんなこと、別になんだっていいんじゃないかとわたしは頭の隅で考えていた。エヴァの気持ちはわからないけれど、なにかを、あるいは誰かを純粋に好きになり追い求められることは、幸せなんじゃないかと思う。誰かを愛することができるのは、ある意味才能だ。誰かに必要とされることを知っている人間こそが持ちうる……。
カチ、カチ、時計の秒針がいやに鳴り響く。畳んだナプキンをひと纏めにして、わたしはそれを打ち消すように、ぐっと押し潰していく。
「ボンベロ、お願いがあるの」
しばらくの沈黙のあと、エヴァが切り出した。
「なんだ」淡々とした声が続く。
エヴァは言った。
「スキンになにかあったときは、どうか、私に彼を殺させて」
迷いのない凛とした声は、まるで祖国を守ろうとするジャンヌ・ダルクに似ていた。
調理場から戻ったエヴァは、わたしを見るやいなや、ムッと唇を結んだ。
「おい、ジュリア。面倒な手間は増やすなよ」
ボンベロは呆れを含んだ瞳で彼女を見る。
「そんなこと、しないわよ。ボンベロじゃあるまいし」
なんの話をしているのかわからず、ただわたしはぎゅっと体を縮こめて、エヴァにお辞儀を返した。
ボンベロが彼女をジュリアと呼ぶことは気になったが、訊く気には到底なれなかった。彼女と彼の仲が、客とダイナーの主人という距離を一歩踏み込んでいることだけはなんとなくわかっていたし、ある意味、わたしにはどうでもいいことなんじゃないかって。それよりも、今はエヴァの視線がジリジリとわたしを焼いていることのほうが重要だった。
ボンベロがカウンターに立ち、開店の準備をし始めても、なお、エヴァはじっとこちらを見つめている。いや、睨んでいるといったほうが正解かもしれない。あのとろんとした瞳が薄っすら細められていた。
「どうして、カナコなの?」
エヴァは言った。
「……なにが、ですか」
「とぼけないで。彼は、スキンは、カナコがいいの?」
ストレートな言葉に、わたしはごくりと唾を飲む。
死刑宣告だ、咄嗟に思った。
「それは……ちがうと思います」
明確な答えはわからないけれど、どうにか用意していた言葉を紡ぐ。
「あの人は、わたしに同情しているだけ、なんだと思います」
そう、きっと気遣いも、甘い飴玉も、彼のやさしさを示す以外のなにものでもない。
「同情?」
眉をひそめた彼女に、こっくりと頷く。
「わたしは、要らない子だから」
幼きあの日、出ていった母の背中が脳裏に浮かぶ。その手に繋がれていたのは、姉の手だけ。どうして、思う間に背中が霞んでいく。
そして、ふと思った。もしかすると、スキンはきっとわたしの中に自分を見いだしているんじゃないかって。
沈む気持ちに視線を落とす。床についた白い模様を、ひとつ、ふたつ、と数える。
「カナコ」と粒の揃った声がわたしの視線を呼びとめた。
「あなたはスキンをどう思っているの」
「どうって……」
言葉を詰まらせる。喉が塞がった感じがして、気持ち悪い。
「……どうにも、思いません」
挙句、わたしはただ、そう小さく口にした。
やさしいとは思う。不思議な人だ、とも。だが、それ以上はない。それ以上はよくわからないと言ったほうがいいかもしれない。ここに来てからというもの、いや、もしかするとそれよりも前からずっと、それほどの感情を抱くことができないのだ。まだ、彼女のほうが、わたしになんらかの気持ちを与えてくれるのではないか、そう思うほどに。
ここで、死ぬのだろうか。わたしは、ぎゅう、と指先を握る。
「そう。それなら、よかったわ」
だが、握った手のひらとはうらはらに、落とされたのはあっけらかんとした声だった。
それとほぼ同時に、ふっと甘い香りが鼻を掠めて、わたしは視線を上げた。死刑囚には不釣り合いの花の香り。グリーンのワンピースが視界を横切る。彼女が二個先の自分の特等席に、ふわりとよじ登るのをわたしは呆然と眺めた。
「ボン、なにか食べるものある?」
無口な王に投げかける。
ボンベロは黙ったままだったが、そばに置いた真っ白な布巾で手を拭うと調理場へと戻った。
ほどなくして、じゅっ、と今にもよだれが溢れそうないい音がしだす。
わたしはどうしたらいいかもわからなくて、また木偶の坊みたいに立ち尽くしていた。
「スキンは私の希望なの」
ボンベロが奏でる音をバックミュージックに、カウンターテーブルに頬杖をつきながらエヴァが言った。
「希望……?」
「そう、彼は私にとって、この世界で生きる、光」
エヴァは、目の前に掲げられたネオンの瞬きを眺めている。昼夜関係なく、妖しく光り続けている、DINERの文字。
「私は、スキンに出会えたから、今生きていることを後悔していないわ。そして、これからもきっと」
まるで、それまでは後悔していたとでも言うような言い方だと思った。
殺し屋がいつから殺し屋だったのか。生まれながらにそうなることを運命づけられていたのか。それとも、殺し屋たちにも穏やかな過去があったのか。わたしには見当もつかない。
そのネオンの向こうに、彼女はなにを見ているのだろう。その横顔を眺める。
「カナコ」
不意に呼ばれて、とくりと心臓が高鳴った。
「私ね、いつかスキンと二人で、温かなシーツに包まって朝を迎えるのが夢なの」
素敵でしょう? と、彼女はこちらを向いた。エヴァと呼ぶには幼すぎるくらいの、やわらかく無邪気な笑みで。ジュリア、その名がストンと胸に収まる。
なぜ、そんな顔で笑うのだろう。なぜ、そんなふうに笑えるのだろう。
あんな扱いを受けておきながら、それでも無垢にスキンを愛する彼女は、わたしには鈍く目映い。
ここは、極彩色の不気味なダイナー。
じゅう、じゅう、とパティが焼ける音だけが響いていた。

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