EPILOGUE

 楽園は地球上のどこを探しても見当たらない。どれだけ大きな地球儀や精緻な地図を用意したとしても。
 だが、きっと人々は知っているのだ。自らの楽園が、どこにあるのかを。

 懇親会が始まった。ホールから繋がった貴賓室で、三人のボスがテーブルについている。西の「無礼図」、南の「マリア」、そして、デルモニコの甥である、北の「コフィ」。本来ならば、もう一人、東の「マテバ」が来るはずであったが、ボンベロの予想通り、姿を現わすことはなかった。
 じりじりと鉄板の上で焼かれるような空気に、わたしは終始呼吸を乱しそうになって、何度も何度も彼らに内緒で深呼吸をする。
「そういえば、ここ数日エヴァの姿を見ていないのだが、なにか知っているか、ボンベロ」
 厳かに佇む三人のうち、コフィが繊維ひとつない奇妙な蜜柑を手にして、前菜をそれぞれの前にサーブしているボンベロに向けて言った。
「二日ほど前、重傷を負ってここへやってきたので、勝手ながらこちらで手当てを施しました」
「ほう、重傷とな。誰にやられたと?」
 コフィの穏やかな物言いの裏には、どこか形容しがたい圧のようなものがかけられているのがわかった。
「さあ、本人も見当がつかないようで」
 ボンベロの声もいつもより張り詰めている。ひとつでも言葉の選択を誤ったら、地獄が口を開けて彼を喰らうに違いない。卓の端にふんぞり返るように置かれたディーヴァが笑っているように見えて、不気味でならなかった。わたしは太ももの横でぎゅう、と拳を握っていた。
 そうか、コフィは蜜柑をひと房ちぎって、口に放り込む。
 すると、新たに動きがあった。
「エヴァくんは、今日はここに?」
 前菜が盛られたグラスの脚にそっと指先を添えて、麗しい仕草で無礼図がボンベロに視線を寄越す。
 ボンベロはどう答えるか迷う素振りを見せたが、小さく、ええまあ、と答えた。
「ならば、あとで挨拶をさせてくれ。久しぶりに彼女の顔が見たい」
「エヴァっていうと、あれかい、数年前に裏切り者を始末させたっていう」
 酷い猫背で、貪るように前菜に盛られた海老の頭をすすり、マリアが言うと、無礼図は肯定ととれる恍惚の笑みを浮かべた。
「一度、彼女の引き金を引く瞬間を見たが、たいそう美しかったよ。戦場のヴァルキュリアのように一切の迷いもなく生死を司る。あの瞳は実にいい」
 わたしはごくり、唾を飲み下した。喉がカラカラだったので、正直そうするのに苦労したが、喉にぐっと力を入れた。
「あたしゃ気にくわないね。あんなの、ただの小娘同然じゃないか。私は染まりませんってツラが一番癪に障る」
「まあそんなことを仰らずに。一度君も彼女の瞳を覗き込んでみるといい。まるで海さ。一見澄んでいるように見えて、底知れぬ闇を抱いている」
「ふうん、海ねえ。噂によりゃ、マテバんとこの雑巾男スキンに尻尾振ってたって? けど、死んだんだろう? あの男」
 なおも次々に飛び交う言葉。わたしはそれを追いかけることもままならない。ジュリアは今もこの貴賓室の外で、「なにかあったときのために」と銃をホルスターに差して菊千代とともに控えている。こことホールは天井から布で仕切られただけ。きっと、この会話が聞こえているに違いない。
 ボンベロは彼らの話を聞いているはずなのに、手元にじいっと視線を向けて、黙々と次の料理の支度をしていた。
 やがて、マリアと無礼図の話を静観していたコフィが口を開いた。
「ボンベロ。君も気をつけたほうがいい。あの女に目をつけられたら、いずれ死ぬ運命・・・・・・・だ」
 なんてことを……。わたしはその言葉にカッと頭に血が昇るのを感じた。
 が、ボンベロの鋭い視線に制されて、ぎゅっと唇を噛みしめるに踏みとどまった。
「心配は無用です、コフィ」
 ボンベロは言う。
「ほう。なぜ言い切れる?」
 コフィは興味津々に胸の前で指を打ち合わせた。マリアが眉を上げて、唇を舐めずりながらボンベロに視線を寄越す。と、ボンベロは言った。
「俺が、先に彼女を殺します」
 冷ややかで、それでいて深い、心臓の奥を抉るような低音が貴賓室に響いた。
 しん、と静まり返った貴賓室。手元から視線を離さなかったボンベロが、すうっと顔を上げて、コフィをまっすぐに見据える。
 彼のまなざしを見た瞬間、わたしは、堪らなく泣きたくなった。
 られる前に、る――そんなんじゃない。彼女がこれ以上の苦しみを背負うその前に、自分が彼女を忌まわしい鎖から解き放つ。ボンベロは、そのつもりなのだ。たとえ己がその枷を背負ったとしても、彼女を解放するのは自分だ・・・・・・・・・・・・、と。
 ボンベロは、ずっとずっと、どんな気持ちだったのだろう。彼女がスキンのことを口にするとき、彼女が彼を夢見るとき、彼を想い笑うとき、彼の名を愛しげに呼ぶとき、そして、ジュリアが彼を殺したとき。なにを思っていたのだろう。
 彼女がスキンを想い儚く目を細める姿の上に、ボンベロの真っ黒な瞳が浮かぶ。まっすぐに、まっすぐすぎるほどに彼女に一心に注がれる瞳が。そこには、いつだって淡い光が宿っていた。
 ああ、今にもここから二人を連れて逃げ出してしまいたい。
 だが――。
「それは、とても美しいね、ボンベロくん」
 静まり返った空気の中、無礼図が眉を上げ、色彩の薄まった瞳に愉しげな色を浮かべた。

 それから、料理がどんどん運ばれて、東のボスマテバが池に浮かび上がった話になり、デルモニコの死の真相を巡り容赦ない腹の探り合いになっていった。
 スキンが秘密裏になにかを探っていたことを嗅ぎつけていた無礼図は、マテバの死に関してボンベロを疑った。知らないと言い張ったボンベロは無礼図に殺されかけ、そして、そこで貴賓室の外から声がかかった。
「無礼図さま、スキンから預かったものがあります」と。
 ジュリアの声だった。カナコ、小さく名前を呼ばれて、わたしはポケットに入れていたスキンのキャンディ缶を差し出した。
 そこには、指輪と、「コフィ」とだけ書かれた飴の包み紙があった。
 それから、激情したマリアはコフィを殺そうとしたが、無礼図に首をかき切られ、そして、コフィも、拳銃を漏斗代わりに、ディーヴァ・ウォッカを煽られながら死んでいった。
 リーダーは一人でないと美しくない、と無礼図が唯一のボスに名乗りを上げ、ボンベロとジュリアを自らのもとに誘った。だが、彼らはそれを断って、わたしは知りすぎたからと殺されそうになって。
 それから、
 それから……。

 

 固く閉ざされた扉の向こうから、激しい音が聞こえてくる。銃声と大地を揺るがすような轟音。
「ジュリア! ボンベロ!」
 必死に扉を叩くが、びくともしない。扉の向こうにはジュリアとボンベロと、そして菊千代がいるはずで、今なお無礼図たちと戦っている。
「開けてよ、開けてよッ」
 まだ、話したいことがたくさんあるのに。知りたいことだって、たくさんあるのに。
 ボンベロにメルティ・リッチの作り方を教わった。ジュリアは彼女が好きだったというケーキ屋の場所を教えてくれた。けれど、そんなんじゃ足りない。足りないのに!
 向こうから鍵を掛けられた扉は、激しい音の合間に、ギイ、ギイ、と鳴るだけ。なにが起きているのか、どんな状況なのかもわからない。
「独りにしないでよ! ねえ、ねえっ」
 このまま会えなくなるんじゃないかって、酷い恐怖に駆り立てられる。まだ、わたしは彼らになにも返せていない。それなのに、会えなくなるなんて。そんなのいやだ。
 激しい銃声と、バケツをひっくり返したような雨の音、ときおり、ジュリアとボンベロが互いを呼び合う声がする。
 早く、早く開け。わたしは必死に扉に縋りついた。激しい音と恐怖をかき消すために、わたしは静かに歌を口ずさんだ。懐かしい歌を。

 どれくらいそうしていたかもわからない。やがて音が止み、扉が開いた。
「ジュリア、ボンベロ……」
 びしょ濡れのジュリアとボンベロが姿を現した。
「ごめん、遅くなっちゃった」
 ジュリアが笑う隣で、ボンベロは呆れ顔を見せている。菊千代はハッハッと相変わらず、荒い吐息を吐き出していた。いつもの光景のように見えた。だが、彼らの後ろに広がるホールはぐしゃぐしゃだった。そして、彼らの姿も。
「よかった、みんな、無事で、よかった……」
 とにかく、彼らが生きていたことに、緊張の糸が途切れて涙が浮かび上がる。そのままジュリアに抱き着くと、彼女はそっと片腕を背中に回してくれた。反対の腕は、あの深緑のワンピースから伸びた白い腕は、青紫に変色していた。
 そんなひとときもつかの間、
「ぐずぐずしている暇はない。行くぞ」
 ボンベロに腕を掴まれ、体が離れた。
 本当に、あっと言う間もなくて、薄っすらと口元に微笑みをたたえるジュリアの姿を目にしたと思うと、どんどん遠ざかっていった。
 背を向けてジュリアが銃を撃つ。カシャン、カートリッジが落ちる音がする。
 ボンベロはわたしの腕を引いて進んでいった。安心しろ、あいつも来る、不安げに何度もふり返るわたしを彼は宥める。たしかに、すぐに彼女の姿が後ろに見えた。わたしたちを追いかけてきたみたい。菊千代も一緒だった。
 だが、奥まで辿り着いたとき、後ろでいっそう激しい銃声が轟いて、わたしとボンベロは、突如通路の壁に打ちつけられた。
「ボン、行って!」
 衝撃から覚めて目を開くと、ジュリアがお腹を押さえながら、後方に銃を構えているところだった。わたしたちを庇ったのだ。
「ジュリア!」
 咄嗟に手を伸ばす。
「ッ、行くぞ!」
 が、ボンベロに羽交い締めにされて、それはかなわない。
「待って、ジュリアが!」
「カナコ、お前が行ってなんになる?」
「でも……っ、ジュリアがっ」
 必死に叫ぶ。ボンベロの腕を振りほどこうとする。
 スキンのどこが好きだったの、とか、ボンベロのことはどう思っているの、だとか。まだまだ聞きたいことはたくさんあるのに。
 伸ばした手は、届かない。
「ジュリア、頼んだぞ」
 壁に体を預け、ずるずると伝い歩くジュリアに、ボンベロは言った。わたしが飛び出していかぬよう、すごい力で押さえながら。
 酷いだろう痛みに顔を歪めながら、ジュリアがこっくり頷くのが見えた。
「ジュリア、ジュリアッ」
 彼女は壁に背を預けたまま、ずるりと床にへたり込む。ボンベロは、わたしを倉庫の中へ引き摺っていく。
 いやだ、いやだいやだいやだ!
 ジュリアが、ジュリアが! ジュリアがまだそこにいるのに! 待ってよ、待って――
「カナコ」
 ジュリアがわたしを呼んだ。
「あなたに、出会えてよかった」
 あの、鈴のなるような愛らしい声で。水や血で流され露わになった彼女のほんとうの瞳に、あの草原で風に吹かれる少女のようにあどけない笑みを浮かべながら。
「いま、そんなこと言わないでよ!」
 いつか、笑いながら一緒にご飯食べられるよね? ボンベロに呆れられながら、だらだらとくだらないことを話したり、いろんなものを一緒に見たり、聞いたり、お気に入りの靴を履いてどこかへ出かけたり、できるよね?
 料理だって、一緒に練習するんだよね?
「ジュリア!」
 わたしは叫ぶ。
「約束、したからね! 絶対、絶対だから!」
 ジュリアの手が上がる。血塗れの小さな手が。いつもあのやさしい笑みをたたえる口元が、ぐっと深く、弧を描いた。
 そして、すかさず、わたしの体はボンベロによって、倉庫の奥へ奥へと押しやられた。

 視界が流れ、これまでのことが走馬灯のように駆け巡っていく。
 はじめて見たときから、彼女はわたしの光だった。薄暗く、むせ返るほど闇の香りに満ちたこのダイナーで、やさしくわたしの視線を奪っていく、まるで月の光。鬱蒼とした世界で、自分の足先だけを見て生きてきたわたしには、それすらも眩しくて。
 それでも、彼女は、わたしに笑いかけてくれた。あのあどけなくて、無邪気で、ジュリアらしい笑みで。
 ずっとずっと、どこにいていいかなんて、わからなかった。
 どこにいるべきなのかも、どこにいたいのかも。でも、ここへ来て、わたしはたしかに光を見つけた。
 胸に宿った、いつまでも消えない、あたたかな燈光を。

「この排気口は、数ブロック先まで続いている。行き止まりに梯子があるはずだ」
 ボンベロが傷だらけの体で棚を押し倒して、それを踏み台にゴミ箱の口のような排気口の蓋を外した。
「ボンベロは? ジュリアは?」
「俺たちは、あとから追いかける」
 この間にも、容赦なく雨は降りしきり、銃声が鳴り響いていた。誰かが床に落ちる音が聞こえ、菊千代が唸る声がする。
 いやだ、一緒に行く。一緒に来て、と抵抗するわたしに、ボンベロは首から銀色のペンダントを取ると、わたしに差し出した。
「ここに、口座と暗証番号が書かれたものが入っている。これで、店でも開け。ジュリアと食いに行く」
 こんな状況なのに、彼の声はいつものように落ち着いていて、まるで迷子の子どもを諭すようだった。けれど、ほのかに弾んだ息が、顔にはりつく髪や、どろどろになったコックコートが、赤い痕が、ここまでに起きた惨状を物語っていた。
「でも……」
 ペンダントを見つめるわたしに、ボンベロは言った。
「ジュリアと、約束したんだろ」
 彼の後ろで、通路の壁に体を預けるジュリアの瞳は、ほとんど閉じかかっていた。それでも右手に銃を構えて、引き金を引いている。一発、二発、鋭い音が鳴り、その前には菊千代が彼女を守らんと牙を向けている。
 なんで来てくれないの。なんで、なんで?
 今すぐにでも、彼女のそばに駆け寄って、銃を捨ててこちらへ連れてきたい。
 けれど――目の前に差し出されたペンダントが、ゆらり揺れる。
「お前が逃げてきたものは、逃げれば逃げるほど、追いかけてくる。自分と、よく向き合え。もう、誰もお前を必要としていないことはない」
 ボンベロは、わたしをまっすぐに見て言った。
 ――カナコはすごいわ
 ――いつか、カナコに料理を教えてもらおうかしら
 脳裏にジュリアの声が蘇る。ぶわっと熱いなにかが体中を駆け巡って、目の奥が溶けだしそうになる。
「ボンベロも?」
「……いらないことはない」
 小さくなった声に、わたしはぐっと口元に力を込めた。
 そして、ゆっくりと、手を伸ばした。
 震える手で、ボンベロの手にかかったペンダントを受け取る。思っていたよりも重たくて、自分の首に掛けると、温かかった。
「わたし、ボンベロよりうまくなるから。ジュリアにだって、たくさん、たくさん、料理教えるから」
 もう目の前は揺らいで、ボンベロの顔もはっきり見えない。震えが止まらない。それでも、わたしは声を絞り出した。彼女にも、届くように。
 ボンベロは、ふっと笑った。
「言っておくが、あいつの不器用さは尋常じゃない」
「大丈夫。わたし、ボンベロよりは、忍耐強いから」
 期待している、そう言うと、彼はわたしを棚の上へと押し上げた。
 ぽかんと口を開けた排気口は、まるでここがあの極彩色豊かなダイナーであることを感じさせない、現実じみた出で立ちだった。
 すべてが、終わる。そう思った。ほんとうは、終えたくない――後ろ髪を引かれるが、ぐっと唇を噛みしめると、吸い込まれるような黒に手を浸した。
 そして、最後にふり返った。

「ボンベロは、ずっと、ずっと、ジュリアを見ていたんだよね」

 壊れた振り子のようで見ていられない、そう彼は言ったけれど、彼女がこの世界に足を踏み入れ、彼の前に現れ涙を見せたときから、やがて一人の男を愛することになっても、ずっと、ずっと。
 ボンベロはふっと笑った。
「さあな」
 普通の、どこにでもいる男のひとがするように目をほんのり細めて、唇を薄くする。ジュリアと一緒にいるときにふと見せるやさしい顔。ぼやけた視界でも、よくわかる。
 やっぱり。
 目の両端からついに涙が溢れだした。こらえきれずしゃくり上げると、呆れた声で、早く行け、と促された。
「ジュリアと、いつか絶対、一緒に来てね。一人じゃ、ダメだからね」
 もうまともにしゃべれなかった。それでもなんとかボンベロに言うと、彼は、「ああ」と、たしかに頷いた。
 そしてボンベロはわたしを排気口へと押し込んだ。

 管の中は真っ暗で、自分の手元すらも見えない。湿ったいやな匂いが肺を満たし、喉の奥からなにかがいまにも溢れてわたしを飲み込もうとする。必死に呼吸を繰り返して、手探りで這っていく。

「ジュリア!」
 ボンベロの叫ぶ声が聞こえる。
「ボンベロ……」
 大好きな、ジュリアの声も。
「ど、して……」
「俺が、お前を置いていくわけないだろう」
 どうか、彼の腕の中で、彼女が笑っていられますように。
 わたしは願う。
「ひとりじゃ……ないのね……」
「ああ。俺は、お前のそばにいる」
 あの人がしてあげられなかったぶんも、ずっと、ずっと。
「ボンベロ」
「ジュリア」
 二人がささやき合う声が、遠ざかっていく。

 目の前は真っ暗でなにも見えない。顔中、汗だか涙だか、鼻水だかわからないほどどろどろで、気持ち悪い。頭が、胸が、心が、全部全部、ジン、ジン、と殴りつけられるように痛い。
 それでも、わたしは進む。
 いつか二人が、わたしの店へとやってくることを思い浮かべながら。
 ふらり、ドア口に姿を現して笑うのだ。ジュリアは屈託のない笑みで、ボンベロはやれやれ、といった微かな笑みで。

 ――いつか、絶対に。

 

 後ろで、激しい音が響いた。