まだほんのりと夢に浸かったままの瞳をこすりながら、ホールへと顔を出すと、ゆらりゆらりとナプキンを折るわたしのもとへと歩いてきた。
「カナコ、ボンベロは」
しっかりとした声が響く。髪の毛はほつれ、足取りもまだしゃんとはしていない。だが、その声のはっきりした様子から、彼女が驚異的な回復をしたことがわかった。ここへくる人間たちは、本当にちょっとやそっとのことじゃ死なないらしい。なにか変な手術でも受けたのだろうか。
「今は、材料の調達に」
最後の一枚を畳み終えて、十センチほどの高さになったその束を端によけて言った。緊張で声が少しばかり震えたが、ジュリアは気にも留めず、そう、と首を捻りながら言うと、わたしの隣のスツールへとよじ登った。
「せっかくボンにメルティ・リッチ作ってもらおうと思ったのに。お腹空いた」
拗ねた物言いが、なんだかおあずけをくらった子どもみたい。
なにを切り出したらよいものかと強張っていた顔が、間抜けに緩む。
「あの、マドレーヌなら、そこに」
カウンターのケーキスタンドに置かれた、シェル型のマドレーヌを指差した。二つの瞳が指先を追いかけてくる。と、ため息が聞こえた。
「もう、ボンベロったらわかってないわね」
女は別の食べ物だって食べたくなるときがあるのに、そう続けながら、やれやれ、と首を傾げるが、その横顔はほんのり緩んでいるようだった。
ハッ、ハッ、とダイナーの入り口で、番人のごとく眠っていた菊千代が彼女の足元に寄ってくる。ぶらり、足を投げ出していたジュリアは、それをやめると体、を斜めに倒して菊千代の頭を撫でた。それから、カウンターに身を乗り出して、はしたなくも苺を二、三粒手に取ると菊千代に放ってやった。ヴゥ、とうれしそうな唸り声を上げたのを確認すると、もう一度彼女はカウンターに身を乗り出した。
「ジュリアって、なんだかかわいい」
その様子が、まるでおとぎ話に出てくる女の子みたいで、くすり、笑って言うと、ジュリアは人差し指と親指でマドレーヌを摘まんだまま、わたしを見た。
きょとん、目がどんぐりみたいに丸い。
「カナコって、変ね」
「そう、かな?」
「そうよ」
彼女は肩をすくめてスツールに戻った。
「こんな場所で笑うなんて」
真顔ともなんともいえぬ顔で、マドレーヌを齧る。もぐ、もぐ、咀嚼をくりかえし、そのままぱくぱくっとすべて口に含むと、指先をぺろりと舐めた。
ゆらりゆらり、彼女の足が揺れている。いつもの編み上げブーツではなくて、このダイナーには不釣り合いの、平凡なスリッパ。そして、グリーンのワンピースの代わりに真っ白なシャツを身につけている。きっと、ボンベロのものだろう。それが彼女には大きすぎて、ワンピースみたいになっている。その姿は、なんだか、休みの日に遅い朝を迎えた女の人にしか見えない。
ジュリアは変って言うけれど、きっと、わたしが笑えたのは、ジュリアだからだ。
ジュークボックスの上、壁に掛けられた写真にちらりと目を向ける。ここで働いてきたであろうウェイトレスたちが、恨めしそうにこちらを見ている気がした。
「……ジュリアは、笑えなかった?」
わたしは唇を舐めて訊いた。
「ボンベロから聞いたの?」
彼女が前を向いたまま、ちらりと流し目を寄越してきた。
誰しも、自らの過去について第三者から勝手に話を訊いたとなれば、いい気持ちはしない。
「あの……ごめん、なさい」
なんだか咎められているようにも感じて、わたしは彼女の視線に思わず慄いて、ぎゅうっと反射的に視線を俯かせた。
「いいえ、別にいいわ」
が、彼女はあたかも往来で肩がぶつかってしまったときのように軽くそう言うと、またしても身を乗り出してマドレーヌに手を伸ばした。
ジュリアの食べ方は、とてもきれいだ。手づかみでマドレーヌにかぶりついていると言うのに、反対の手は下に添えられていて、食べかすがカウンターに零れ落ちることもない。それだけで、彼女がどんな人生を歩んでいたのか、少しだけ垣間見える。はじめて、彼女がここで、特等席のカウンターでマドレーヌを食べたときから、頭の隅でそう思っていた。
わたしは唇を噛みながらケーキスタンドのマドレーヌを見つめる。菊千代の荒い鼻息だけがホールに響いていた。
「私は、笑えなかった」
やがて、沈黙を破ったのはジュリアだった。
恐る恐る横を向くと、先ほどと同じように指先を色っぽく舐めとって、頬杖をついた。
「はじめて引き金を引いた瞬間の音が、手の衝撃が、いつも私を追いかけてきた。見開かれた目も、飛び散った血も。眠りにつけばいつも悪夢に襲われた。それでも、生きるために、殺し続けなくてはならなかった」
ほんの数日前まで、華やかなキャンパスで日々を過ごしていた女の子が、突如拳銃を握り、暗黒の世界に足を踏み入れるなんて、どんな気持ちだったのだろう。殺しを赦してもらうために、殺し続けなければならなかった、なんて。
組織の裏切り者を排除した功績を認められたジュリアは、コフィによって組織に迎えられ、そして、人形のように組織の仕事をこなしていくようになった――ボンベロの言葉が反芻する。
殺しに殺しを重ねる、終わりのない負の連鎖。だが、ジュリアにとってはそれが生きる術だった。そして、ボンベロはそれがジュリアの才能だと言った。
「しばらくは、本当に頭がおかしくなっていたんだと思うの。なにを食べても砂利みたいにしか感じられないし、飲み物さえ摂ることもできなかった。狂ったように仕事をこなす傍ら、まるで死の泉から這い出た亡者のように虚ろで、確実に憔悴していっていた」
ぼう、ともたげられた視線の先には、浮かび上がるこの店の名前。
「そんなとき、コフィに内緒でデルモニコに連れてこられたのが、ここだった」
「デルモニコ……」わたしは小さく繰り返す。
「組織の前のボスよ」
そうだ、数日後にそのデルモニコの一周忌が行われるんだったっけ。ぼんやりと頭の隅で考える。ジュリアは、ゆるりと睫毛を揺らして続けた。
「ここの主人は、人相は悪いが作る飯は旨い、そう言って私をここへ置いていったの。朝早く、開店前で明らかに不機嫌な主人の前にね」
その様子が目に浮かぶ。真面目な話なのに、わたしは思わず吹き出してしまった。
しまった、慌てて手で口を覆うが、決して咎められることはなく、それどころか、ジュリアも心なしか頬を緩めているようだった。ここに、ボンベロがいなくてよかった。
「なにが食いたい、そうボンベロに訊かれた。本当はなんにもいらなかったのに、ボスが連れてきてくれた手前、答えないわけにはいかなくて。目の前の主人は、包丁を手に今すぐにでも人を殺しそうな雰囲気を醸しだしているし」
DINERの文字は、目映い光を放っている。白とピンクの、はっきりとした色彩。はじめは不気味だと思って仕方がなかったが、今では少しだけ、温かく感じる。
「それで、答えたのがマドレーヌだったの」
ジュリアは言った。
真っ当に生きていたころを忘れないために、あいつはマドレーヌを食べる。ボンベロの言葉がまたしても掠めていく。
「昔から、ケーキ屋さんに行くと必ず母に買ってもらっていたの、好きだった」
目を細めて、きれいな焼き目の菓子を見つめるジュリアをわたしは見守る。
「ボンベロのマドレーヌは、そのときの味そのままだった。ふわっとバターと卵の香りが口に広がって、しゅっと溶けてしまいそうなほど、しっとりやわらかい。私、気がついたらボンベロの前で泣いていたわ」
マドレーヌに視線を送るジュリアの向こうに、泣きじゃくる女の子の姿が見えた。この極彩色の不気味なダイナーで、小さな体を震わせて、皿の上のフルーツを、焼き菓子を必死で口に詰め込む、女の子の姿が。
「多分、涙とか、鼻水とか、マドレーヌのかすだとか、すごく汚かったと思う。ボンベロは怒りもせず、それどころかくすりとも笑わなくて、ただ私を見下ろしていた。けれど、泣くのを許してくれているように見えた」
泣きじゃくる女の子を前に、白いコック服のボンベロが、感情を削ぎ落とした顔で立っている。長く垂らした前髪の下、黒々とした瞳を彼女に向けながら。
そうか、ボンベロはそのころから。
「それから、ここへ来るようになったの。笑えるようになったのは、それからね」
彼女は纏わりつく湿った空気を振り払うように、ん、と伸びをした。
「ジュリアが、ここに来てくれるようになって、よかった」
不意にわたしはそう口にしていた。
天に伸ばした腕をそのままに、ジュリアが視線だけをわたしに寄越した。
「だって、わたしがジュリアと出会えたから」
カウンターの上、体の前で手を組んでそうっと指を擦り合わせる。かさついた指先、爪には以前はなかったくぼみが。だが、不思議とそれがしっくりくる。
腕をすとん、と下ろすと、ジュリアはあからさまに、はあ、とため息をついてみせた。
「カナコって、馬鹿なんだか頭がいいんだか、本当にわからないわ」
目をぐるりと回したあとに、彼女はじいっと見つめてくる。
はじめてまっすぐに見据えた彼女の瞳は、海みたいだった。どこまでも広くて、そっとわたしを包み込んでくれる。
自分を信じなくなったら、誰もわたしを信じなくなって、ずっと透明人間になったみたいだった。どこにいていいかもわからなかった。けれど、
「ジュリアのそばにいると、わたし、心地いいの」
わたしは言った。
彼女に出会った瞬間から、なぜだかわからないけれど彼女はわたしを認めてくれているような気がしていた。そして、わたしは彼女に認められたいと思っていた。
「本当、殺し屋になに言ってるんだか」と、呆れるジュリアに、わたしはゆっくりと息を吸う。
「……スキンのこと、ごめんなさい」
ぎゅっと親指を手のひらの中にしまいこんで、わたしは胸を占めていたことを吐露した。
「ボンベロから訊いたの。わたし、なにも知らずに、スキンのスフレからコインを抜いてしまった」
無知は時として罪だ。唇を噛みしめて、瞳を伏せる。厳しい言葉を待ち受けるも、ジュリアはなにも言わない。
ゆっくりと息を吐き出すと、わたしは制服のポケットからあるものを取り出した。
「これ、あなたに」
スキンからもらったキャンディ缶だ。
ボンベロは、彼女はすべてわかっている、と言った。だから余計なことを口にするな、と。だが、言わないと、こうしないと気が済まなかったのだ。
ジュリアの瞳が揺らぎ、やがて、ゆっくりと指先が伸びてきた。
「スキン……」
愛おしそうに、彼女はキャンディ缶を手にした。大きなダイアモンドを手にしたみたいに、するりとそれをなぞる。だが、缶を開いたあと、中身を一瞥した彼女は、あろうことかそれをわたしに突き返してきた。
「え……?」
ジュリアはふっと目元を緩めた。
「スキンがカナコにあげたのだから、これはカナコが持っているべきよ」
わたしは、受け取るか迷った。わたしが持っていても、スキンの思い出にうまく浸ることはできない。それなら、ジュリアに持っていてほしかった。こんな飴玉でも、スキンの遺したものだったから。
痺れを切らしたのか、ジュリアはわたしの手を掴むと手のひらに缶を握らせた。
「スキンは、わけがあってあなたに渡したのよ」
「そんなこと、言われても」
「言っておくけどね」
ジュリアは言った。
「カナコ、スキンを殺したのは、私よ」
わたしは驚いてジュリアを見た。
すぐ隣、ダイナーの不気味なネオンがまっすぐに届く場所で、彼女は聖母のような笑みを浮かべている。恍惚で、慈愛に満ちたりた、この世に不幸なんてないって顔。
「カナコが彼を死なせてしまったのだと思うのなら、それはとんだ自意識過剰ね」
「でもっ」
声を荒らげたわたしの顎をジュリアが掴む。
「それ以上言うと、その口を塞ぐから」
すっと細められた瞳に、わたしはごくりと唾を飲み下した。
「スキンは、私の中で永遠になった。ほかの誰に穢されることもなく」
彼女は言った。少しだけ瞳を湿らせて、女のわたしでもうっとりしてしまいそうな美しい表情を湛えて。
あれほどあどけない乙女の顔で、スキンとの「夢」を語った彼女なのに、いまはもう、そのあどけなさを脱ぎ去って、熟した女性の顔そのものだった。
殺し屋にとって、殺すことの意味とは。そして、生かすことの意味とは。
わからない。
それでも、わたしはわかりたいと思った。ジュリアのことを、そして、そう思うわたしのことを。
――ころして
――ああ
――殺してやる。俺が、お前を
彼女がボンベロの腕の中で小さく揺れる光景が思い浮かぶ。
「ボンベロ、遅いわね。このままじゃマドレーヌ食べ切っちゃう」
彼女はまたしてもカウンターに身を乗り出して、マドレーヌに手を伸ばす。その横顔は、もうすでにあのジュリアらしいあどけなさの残るものだった。
わたしは胸の内に宿る燈火に、キャンディ缶をぎゅうっと握りしめていた。
