僕の心臓を動かせるのは君だけ

 厄介だな、とつくづく思う。目の前の女が机の上に載った小型の機械を弄るのを見ながら、ジェームズ・ボンドは小さく息をついた。
 ミディアムロングの髪の毛をざっくりと結い上げ、仕事だからとやや控えめなメイクだが、それは彼女にとても似合っているだろう。無垢な少女のようにあどけなさが残る横顔。真剣に物事に向き合う真っ直ぐなまなざしが、喉の奥をひどく疼かせる。
 そんな仕草を見せれば彼女は馬鹿にしないでと強気な態度で眉を顰めるだろうが、そんなところも無垢な女を彩るには良いアクセントにしかならない。あどけなさと妖艶さのバランスがとてもアンバランスで、それがなぜだかボンドの心を掴んでやまなかった。
 こんな女、別に好みでもなんでもなかったのに。
 またひとつ小さく息をつけば、今度こそ気づいたのか彼女がドライバーを握る手を置いた。
「そんなに見られると緊張する」
「君でも手元が狂うのか?」
「さあね。でも、なんだか気が散るからどっか行っててちょうだい」
 ――本当に、厄介だ。
 そう言って眉を少しだけ顰めると再び下を向いてしまった彼女にボンドは頬を緩める。一人掛けのチェアに体を埋め、胸の前で手をあわせながら指先をリズム良くトン、トン、と打ち合わせては真剣な横顔を変わらず眺めた。
 器用にもドライバーを弄りながら、難しそうな顔をして、唇を噛み締めたり、そこを舐めたり、忙しなく動く表情。途端に唇から目が離せなくなって腹の底に虫が沸く。
 見ていて飽きない、などと言ったら、それこそ嫌な顔をされるに違いない。それもそれで面白いのだが、揶揄いすぎると今度は寄り付かなくなるからと話題を変える。
「直りそうか」
「もちろん」
 わたしをだれだと思っているのとばかりの自信満々な顔つきに同じく笑みを浮かべる。
 任務で壊してしまった小型の無線機の修理をQでなく彼女に頼んだのは正解だった。
「それで、今度はどんなのがいいの」
 ほらきた――内心笑みが止まらない。
 優秀な彼女のことだ。盗聴器やら無線機やら、小型の機械を扱う事に殊長けている。以前勤めていた関係がITの基板を開発する会社であったこともあってか、Qのもとでその力を発揮しているようだ。Qが武器を開発する傍ら、任務に使用する電子機器は彼女が開発している。
 それだから、修理するだけでなく、いつもこうやって彼の求めることを言葉にする前に理解してくれてしまう。常に彼女の中で技術は進んでいるようで、彼女は修理の時以前の状態を保つなどという野暮なことはしない。もっと良い物を、もっと使いやすい物を彼女は開発したがっている。そういうところはQに似ているかもしれない。頭のいいスマートな人間は嫌いじゃない。
 彼女の要求に応えるように、浮かんだ提案をボンドは口にする。
「盗聴器と連動させて欲しいんだが、できるか」
「多分ね。切り替えは携帯でかまわない?」
「ああ」
「専用アプリを作ってあげる。007って名前にしようかしら」
 愉しげに笑って、アプリのアイコンを考えるのだと紙とペンを持ち出した彼女に、彼は堪らず笑みをこぼした。

 初めて彼女を見たときの、あの強烈な衝動はなんだったのだろうと今でもふしぎに思う。敵対する組織に加担していた者となればすぐさま抹消することが最優先のはずだった。だが、なにも知らずに捕らえられ、傷だらけの彼女はまるで雛鳥だった。親の顔も知らず、別の巣に連れてこられたまるでカッコー。組織に加担しているとも知らず、有能な機械を開発した存在。使える、と思ったのも確かだ。だがしかし、それだけではなかったのも事実だった。
 気怠げにこちらを見上げるまなざしと、やけに青白い肌。多くを語らぬ唇。生きることを兎角求めていない女の姿。生きることに縋らないその姿こそが、やけに妖艶さを際立たせていたと言っていいだろう。色気があるとかそういうわけではないのに、彼の中のなにかを掻き乱した。
 染めてやりたい。
 縋り付けさせたい。
 ――おかしな話だ。今でもそう思う。
「ユリア」
「ありがとう、007」
 カフェの高いスツールに腰掛ける彼女の元へカフェラテを持って戻る。自分用にはマティーニを。
 スーツ姿の男とシンプルな紺色のワンピース姿の女のシルエットが向こうのガラスに写る。
「ジェームズ」と彼女の瞳をじい、と見つめながらボンドは口にした。
「貴方の名前がどうしたの」
「あまり外でコードネームを呼ばれると、いつ狙われるかわからないからな」
「確かに、それは困っちゃうわね」
 だから、ジェームズと呼べ、なんていうのは口にして出さないが、彼女が口元でジェームズと何度か囁いたのを見て彼は目を細める。
「次の任務はいつ?」
「さあ、しばらくは休暇を言い渡されてる」
「それって、解雇ではなくて?」
「笑えない冗談だな」
 ユリアは薄く笑みを浮かべて、カフェラテに口を付けた。
「でも、それならゆっくり開発できるから安心だわ」
「本当に、仕事熱心で感心するよ」
「貴方ほどではないけれどね」
「それは光栄だな。僕ほどの≪仕事愛≫に満ちた人間はいないだろうからね」
 よく言う、と尖るヌーディカラーの唇の動きに視線を奪われ、誤魔化すように自分もマティーニを口に含んだ。
「そういえば、君がここに来てもう二年だな」
 あら、と彼女は眉をあげた。
 彼女を、ユリアをあの場から救い出して、二年。それを記憶していた自分にも驚きだが、まだ二年という歳月にもなんとも言えない違和感があった。
 二年、特別な事があったというわけでもないのに――否、それはうそかもしれない。この女は深く自分の中に入り込んでしまっていた。
 染めたいと思ったのは自分なのに。気怠げな眼差しをカフェラテに落とすその横顔に、どうしようもなく魅せられてしまっている。
 自分は休暇のはずだから、ロンドンにとどまる必要もないのだ。昔ならばとっとと南の島へでも飛んでいっていた。それなのに。
 無線機の修理すら急ぐわけでもない。それでも顔を出した理由など明白だった。だが、自分の中に残る無駄な矜持がそれを邪魔する。ああ、調子が狂って堪らない。
「もうそんなに経ったのね」としみじみ唇を濡らす彼女に、「お祝いでもしようか」と言う。そうね、なにをしてくれる?と返ってきた言葉に、「では、思い切り甘やかしてあげようか」喉を鳴らせば彼女は、「見返りが怖いから、やっぱりやめとく」とあからさまに目を回した。
 昼下がりのカフェは静かだ。それこそ、時など忘れてしまったように。
「もし、あの時君を逃がしていたら、君はどうしていた?」
 ――そう、選択肢などいくらでもあったはずだ。
 自分の中の混沌を鎮めるようにして問い掛けると、ユリアは下唇を一瞬噛んだあと、「わからない」肩をすくめる。
「わたし、あの時貴方に殺されると思っていたから」
 僕も、そう思っていたとボンドご告げれば、ユリアはカフェラテに口を付けたあと、そっとそれを置いて両手で包みこむ。その手は白くて細い。かつては殺しなど知らない女の手だった。今ではもう、その手を自分が黒く染めてしまった。そう思うと、どうしようもない悦びがこみ上げる。
 選択肢は一つではなかったはずなのに、どうして自分はあの日この道を選んだのか。彼女を逃して普通の女として生かす手も、それこそ、殺してしまうことも容易くできたというのに。
 でも、とユリアは続ける。

「不思議なの。貴方に殺されるならいいかなって、思ったのよね」

 切り捨てられるもの以外、持つつもりなどなかった。背負うなど真っ平御免だった。それだというのに――本当に、つくづく、厄介だ。
 今、生きているのは奇跡ね、と綺麗に笑った横顔がどうしようもなく心臓を痛めつけて、ボンドは一息にマティーニを飲み干した。おぼえたのは、燃えるような喉の渇きだった。