「クアンタム」の情報は結局掴めぬまま、「アノニム」は完全に瓦解し、その傀儡であった「エルンスト」は政府からの一斉粛清が入り事実上の解散となった。後任は筆頭株主の投資家が受け継ぐらしいが、パリの平穏を脅かすテロ事件を計画した罪はなによりも重い。
あれから数か月経った今、世界はまた以前と同じ様相を取り戻している。一時はEU加盟諸国間での緊張が走ったがそれも長くは続かず、国際関係の亀裂の裏で人々による市民生活は変わらず連綿と紡がれていた。それが、世界の真理だ。
しかし彼らは知っている。光のすぐ裏には闇があることを。代わり映えのない平穏な日常の裏には、癒やすことのできない大きな傷痕が刻まれていることを。
雨もよいの空がブラインドの下がったガラス窓の向こうに広がっていた。何年も見慣れた景色だ。色彩の欠けた空からは今にも大粒の滴が降り出しそうで、かえってロンドンブリッジのふもとの喧騒がここまで届くような雰囲気であった。雨から我先に逃れようと、せっかちなドライバーたちで賑わう。ただすべては想像だ。室内はビル・タナーの腕時計を確認する衣擦れが聞こえてくるほど、静けさに包まれていた。静寂などというには、やさしさなどは欠片もない。情報機関特有の硬質な静けさだ。まるで鉄壁の中に詰め込まれたようだ。
これならば檻のほうがましかもしれない。むき出しのコンクリートではなく、白へとあらゆる壁が塗られているのは感謝すべきかどうだろうか。安寧の色と言われることもあるが、実際には真逆だろう。
ブラインドに指を引っ掛けていたボンドは、ひとつの足音を察知し、ゆっくりと指を外す。
「珍しいこともあったものね」
Mはボンドの姿を認めるやいなやそう言った。傍には背広姿の男が立っており、慇懃にタナーと握手を交わしている。MI6の提携医だ。主に被害者支援に担っている精神科医――名をブライスと言ったか。
「それほどでも」ボンドが軽い口調で返すと、Mは咎めるような視線を一瞬だけそちらへ向け、長テーブルの誕生日席に座った。一番最後へ入ってきた秘書がすかさずコーヒーを並べ、そしてだれよりも足早にミーティングルームを後にする。
「今日集まってもらったのはほかでもない、彼女の件についてよ」
Mと同年代だろうか。老生という言葉が似合うその男は、彼女から目配せを受けると深くしわの刻まれた口もとをまるで孫を迎えた祖父のようにゆるめて話をはじめる。
「患者はユリア・ルーニス、生まれはイギリス・ロンドンのケンジントンであり、当時医師として病院に従事していたルーニス夫妻の第一子として生をもうける。五歳のとき両親が交通事故で死亡、その後アメリカにいる父親の妹夫妻のもとで養育される」
カチ、と男のつけていた時計が鳴った。男は手首をさすり、それから言葉を継いだ。
「現地の大学院を卒業後、パリのエルンストからオファーを受け渡仏。育ての親である叔母夫妻は、彼女が二十歳のときにはすでに病気で他界しております」
「よくある話だな」
そう嘲笑したボンドをMの鋭い視線が諫めた。
「それで、経過観察のほうは」
ブライスが笑みを深めてうなずいた。
「極めて良好ですよ。ええ、順調すぎるほどに」
ただ、と声が低まる。
「それだけが順調ではないだけです」
眼前に数枚の資料が提示される。あらゆる検査の値は、数か月前、ヨーロッパの大企業で命を落としかけた女を示していた。だが、数字の羅列はものの数秒で塵に変わる。ボンドはほんの一瞬――そう、一瞬と表現するに等しいわずかな時間を割いただけで、Mの顔を見あおぐと指先を擦り合わせた。
「仕事に戻っても?」
Mはただひと言、ええとうなずいた。ボンドは、どうもと短く礼を告げてその場をあとにした。
雨が降りださなかったのは幸いかもしれない。湿った空気は面倒だ。雨音に気配を紛れさせるにはうってつけだが、視界が余計な水分で覆われるのは御免だ。
ボンドは諜報部のオフィスビルを出て倉庫へ向かうところであった。ちょうど車は返してしまったため、殊勝にもその長い脚を動かしてロンドンの街並みを歩く。
あの日、パリは晴れていた。だが、前日まで天候は雨であった。パリの雨は格別だという人間もいるが、どこにいても雨は雨だ。雨はすべてを消すから、最高であり最低でもある。
彼女は雨が降るたびにあの日を思い出すらしい。さてどのあの日なのかは、知るよしもない。
ボンドは革靴を鳴らし、車通りの多い通りを横断する。慣れたロンドンの街は、相変わらず騒がしい。落ち着くもなにもない、ただこれが現実だ。だが、彼だけの倉庫へあと二区画となったとき、平和な喧騒の中でボンドは足を止めた。
ベージュのトレンチコートにヒール靴。片手にコーヒーか、いやあれはカフェ・オ・レかカフェ・モカであろうベバレッジカップ。ゆるくウェーブを描いた髪が揺れる。睡たげな眼に色のない頬。ヌーディ・カラーのリップ。
どこにでもいるような女だ。立ち向かう人間のその波に埋もれてしまうであろう、変哲のない女。
彼が行く先を自ら照らすとき、彼女の姿はそこにはない。誰一人とて存在しないのだ。自分一人で十分だと誓った。
自分の前に開かれた道に、彼女の姿はいらない。
――それだのに。
前から歩いてくる彼女のヘーゼルの瞳が、不意にこちらを向いた。縁どるまつ毛が揺れ、確かに彼女の瞳の中に男はいたのだ。だが、それもコンマ数秒の戯れだった。
ヒールがアスファルトを蹴る。人々がボンドを追い抜かし、そして彼女はすれ違う。
彼女のまとうコロンの香りがした。雨に濡れた花のようなにおいだ。たったそれだけ、そうそれだけを残し彼女は、ゆくべき道を進んでいく。
耳朶をなぞるのは頼りない足音だ。遠ざかるその音を聞きながら、ボンドは鼻で笑う。人が去り、開けた道のなんと清々しいこと。そうだ、そのほうがいい。
人間の感情を紐解くよりも、暗号を解くほうがよほど楽なのだから。
歩き出したボンドは指先を静かに擦り合わせた。

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