episode.1

 鶏肉はぶつ切り。塩コショウをふって冷蔵庫へ。トマトは一センチほどのサイの目に、ニンニクとしょうがはすりおろして、野菜カゴに転がっていたタマネギはみじん切りに。とにかく切る、切る、切る。
 料理はいいよなぁ、なにも考えなくていいから。考えるにしたって、今目の前にあるタマネギをどれだけ早くまた細かく切れるかとか、先に炒めているクミンシードとパクチーが焦げていないかとか、あとは、どうやったら目が痛くならないんだっけ、とか。少なくとも、ほかのことは考えなくてすむ。
 パワハラ紛いの上司、妻子持ちの男と不倫している同僚、口を開けば「結婚は」とうるさい母親。あとは、五年付き合った彼女を放って、年下の女の子と子どもを作ってさっさと結婚した男。
 じゅうじゅう、音が鳴る。トントントントン、均一なリズムを刻む。
「痛ぁ……」
 ああ、ツンとする。これだよこれ。タマネギはこうでなくちゃ。じわじわ視界に膜が張って、やがて溺死寸前。
 双眸からあふれ、頬を伝っていく滴をそのままに無我夢中で包丁を握る。

「ごめん、おれと別れてくれ」
 それが、久々に会った恋人からの第一声だった。
 猫の手も借りたいほど忙しい繁忙期を終えて、三ヶ月ぶりのデート。いつもより入念にメイクを直して、髪の毛も巻いて、きれいめなスーツワンピで会社を飛び出たわたしは、待ち合わせのカフェについた途端、冷水を浴びせられた気分だった。
 五年付き合ったはずの恋人の隣には、ついこのあいだセーラー服を脱ぎましたキャピッみたいな女の子。
 訊いたら本当にこの三月に高校を卒業した十八歳だと言うから、度肝を抜かれたのは言うまでもない。
「待って、わけがわからないんだけど」
 わたしが言うと、男はぐっと口もとを引き締めて隣の女の子の手を握った。
「子どもができたんだ。今、三ヶ月。もうご両親にも挨拶を済ませたし、明日、籍も入れる」
 はじめはしおらしく俯いていたその子が、男の言葉に薄くはにかむ。ここだけ見ればなんて純愛。来月公開のラブストーリーですか、という感じだった。
 カントリー風のカフェにはしっとりとした洋楽が流れ、やれ愛しい人のために曲を作っただとか、星の輝きがどうだこうだと男性シンガーが甘く歌い上げる。
 カトラリーがぶつかる音にコーヒーメーカーの鳴き声、あとは、和やかなおしゃべり。なんて穏やかな世界。だれもが憧れるような、あたたかく、平和な……。
「おれと、別れてくれ」
 明日籍を入れるって? 両親にもご挨拶が済んだって?
 それよりも、妊娠三ヶ月って? なんだそりゃ。
「おしあわせに」
 怒涛のツッコミが全身を駆け巡ったが、わたしの唇から飛び出たのはそれだけだった。

「作りすぎた」
 目の前には二リットルは入るだろうホーロー鍋がどんと構えている。中には湯気のたつカレー。タマネギとスパイスをたっぷり使った特製チキンカレーだ。じっくり煮込んだそれはとてつもないいい香りを放っている。うん、今日も完璧。
 じゃ、なくて。部屋を見渡して、ため息をつく。
「ウチは四人家族か?」
 東京二十三区。中でもベッドタウンとうわさの閑静な住宅地に構えた居は1LDK。室内には人気のお笑い芸人が、がやがやとしゃべる声が響いている。
 三十二インチのテレビの前にはちょっと奮発して買ったローテーブルや、横になるとジャストフィットするふたりがけのソファ。座り心地ももちろんよく、映画を観るときなんかは最高だ。――って、だから、そうじゃない。
 この生活感溢れた1LDKにはわたし以外だれもいない。そうだ、わたししかいない。場違いな騒がしさを耳に流しながら、虚しくコンロの鍋に視線を戻す。
「明らかに作りすぎ」
 おそらく一週間はもつだろうカレーの量に盛大なため息がこぼれた。
 いつもこうだ、むしゃくしゃしたとき、わたしは一心不乱にキッチンに向かってしまう。料理が好きだというより、もはや病的なものに近い。
 仕事で失敗した日にはカレーを作りすぎた。上司に怒られた日にもカレー、独身仲間の友だちが内緒で彼氏を作ってスピード婚した日もカレーを作りすぎて、そして、今回もまた、カレーを作りすぎた。
 雨の日にも、風の日にも、雪の日にも、大量の野菜を刻み大鍋をかき混ぜる。そんな人生だった。
「明日もカレー、明後日もカレー。さすがにニンニク入っているから、会社には持っていけないし」
 ぶつぶつと呪文のように唱えて、またひとつため息をつく。
 数年前はいくら作りすぎても食べに来てくれるひとがいたけれど、そんな存在もとうにすり抜けていった。いや、本当は何時間か前までは存在していたのだが、もはやそれすらもはるか昔のことのように感じる。
 カフェを出て、気がついたらスーパーにいて、スパイスと鶏肉とタマネギを買い込んだあとはキッチンに籠城していた。その結果がこれだ。
 やっちゃったなぁ、と赤いホーロー鍋をかき混ぜながら肩を落として唇を突き出す。
 でも、料理はいい。いくら冷めても、温めれば変わらずおいしく食べられる。
 一週間はカレーざんまいね、と諦めて蓋を閉めると、
「学生時代憧れていたこと」
 と、テレビからのんきな声が聞こえてきた。
「いやぁ、浪人時代ひとり暮らしはじめたとき、夢見ましたよね。管理人のものごっつきれいなお姉さんが夜コンコンってドア叩いてきて、カレー作りすぎちゃったけど、いる? って言ってくるんですよ」
 いやいやいや、大御所芸人がオーバーリアクションで割って入る。
「おまえそれ漫画の読みすぎやで。もしかして隣は穴を開けてくるサラリーマンか?」
 どっと笑いが沸く。
 そうだ、そんなの漫画の世界だ。作りすぎてしまったカレーを、冷めないうちにおすそ分けできるご近所さんがいればよかったのに。あいにく、同じ階唯一の隣は空室だし、下の住人とは顔も合わせたことがない。
 悲しきかな、東京って街の淡白さと住み良さ。ひとりでに肩をすくめる。
 ピンポン、そこでインターホンが鳴った。コンロの上の電気を落として、はいはーい、とぱたぱたスリッパをはためかせながら玄関へ向かう。
「どちらさま?」サンダルを突っ掛けて、外も確認せずにドアを開ける。
「うおっ」
 そこには、帽子をかぶった二十歳くらいの男の子が立っていた。
「あ、ごめんなさい。宅急便とかかと思って」
 いつもの悪いくせだ。勢いよくドアを開けてしまう。
 インターホンに出てくれると思っていたのだろう、驚いて一歩退いたその子に謝ると、彼は額を掻いて、いや、と頭を軽く下げた。
「むしろ、こっちこそ。スミマセン、ええと、こんな時間に?」
 時刻は午後九時半、まあたしかにそうだろう。配達員にしては、銀行強盗かというくらい黒ずくめの服装だから怪しすぎるし、一体どうしたのか。
 はあ、と釈然としない調子で、どこか弟っぽい顔を見上げていると、彼は、「これ」と手に持った紙袋を差し出してきた。
「これ?」
「今日から隣に越してきた猪野って言います」
 紙袋には有名なタオル店のロゴ。ここのタオルやわらかくて結構好きなんだよなぁ、咄嗟に思う。引っ越しのあいさつなんて若い子だけど気が利くものだ。
 それを見つめて、次は彼の顔を見つめて。
「引っ越し?」
「そっす」
「引っ越し……」
 全然、知らなかった。でも、そういえば、帰ってくるときにトラックを見たような見ていないような。わからない。
 なにはともあれ、新たな隣人にわたしは頭を下げた。
「わざわざ、ありがとうございます」
「いえ、たいしたもんじゃないんですケド」
 彼もぺこり。紙袋を受けとったところで彼の動きがとまる。
 はて、いったいどうしたものか。首を傾げると、ぎゅるる。響いたのはそんなかわいい音だった。
 思わず顔を上げた先、すっきりした彼の目がやわく見開く。
「……すんません。その、めっちゃいい匂いがするなぁ、と思ったら、つい」
 ハッとして羽織っていたカーディガンの裾を鼻に寄せると、かすかなクミンの香り。
 なるほど。
 うおおやっちまった、そんなふうに帽子を眉のところまでずり下げて、またもや額を掻く。大きな男の子が、ポリポリ、そんなふうに。なんだか犬みたい。
「あの」
 気がついたら、わたしは声をかけていた。
「カレー、作りすぎちゃったんですけど、食べます?」
 男の子の目が素早く二回、ぱち、ぱち、瞬く。
 そして、今度は耳の裏を掻いて、「……食べます」と小さくこうべを垂れた。

 

「いやいやいや、あるかもしれないじゃないですか。人生なんてなにが起こるかわかりませんしね。今でも僕はご近所さんとのランデヴーを夢見てますよ」
「アカン。ええ加減目ぇ覚まし」
 それは、お笑い芸人ののんきな声だ。