エピローグ

 

 

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「おい、知ってるか。昨晩、向こうの浜辺に死体があがったらしいぜ。なんでも男女の死体で、顔や体はパンパンに膨らんでいたが、手をロープで繋いで離れないようにしてあったんだと」

 小さな港街で、とある事件が波紋を起こしていた。
「物騒な世の中ですねえ」
 今しがた、外から聞こえてくる話し声を聞いていた店主が、やってきた客にそう話しかける。この日はじめての客とまではいかないが、長らくそうしていたのだろう、レジに置かれた簡易イスから腰を持ち上げるさまはひどく重々しい。
 つぶやきに似た店主の言葉に、客は相づちを打ちながらボトルドウォーターとモモンの実をレジに置いた。
 頭からストールをかぶり、後ろには同じく紋様織の立派なシルクをかぶった女が寄り添っている。そうですね、とこぼれた声は、その頭に下りたストールのように耳あたりのよい声質であったが、年老いた店主はその声を聞いていたのかいないのか、さも気にしていない様子で男の持ってきた品を一瞥し淡々と値段を告げた。
「私の若いころには、そりゃ心中もはやったものですがねぇ、今は自由に生きられる時代でしょうに」
 男は店主が気づかぬさりげない仕草で瞳を伏せると、たおやかな動作でしかしすばやく懐を探る。紙幣を差し出した拍子に、はらり、ストールが落ちて、銀色の髪と同じく、うつしいプラチナの瞳があらわになった。
「まあ、あなたがたのような見た目よい方には、もしかすると関係のない話かもしれませんが」
 男はなにも答えず、カウンターの上に置かれた品をしまうと、かすかな微笑を残して店をあとにした。

 何事にも始まりがあるのと同様に、終わりがあるのは世の常である。そのようにして、彼らはすべてを終わらせるべく、カロスじゅうを旅していた。
 カロスには未だそのほとんどが謎に包まれている数多くの神話や伝説がある。イベルタルとゼルネアス、そしてジカルデの伝説はもちろんのこと、古く神話を伝承してきたセキタイの遺跡やヒャッコクの日時計、そして、フレア団による陰謀によりカロスが闇に包まれかけたのち、新たに発掘された石の瞳の乙女像。そのひとつひとつを辿り、手にした伝説を紐解くために彼らは各地を回った。
 本来ならば、カロス学会の権威であるプラターヌ博士や古く預言者の血を受け継ぐヒャッコクシティジムのゴジカに話を持ちかけてもよかったのだろう。あるいは、歴史学者たちの耳に入れれば、今世紀いや近代最大の発見となるかもしれない。それでも、彼は、彼らのみでこの伝説を伝説として終えようと鑑みていた。
 しかしながら、旅路ははるかに長く遠い。
「ここかい」
 その途中、ダイゴは彼女の生家へ立ち寄った。港から南にしばらく。深い森の中、ヤヤコマたちのさえずりが美しい、自然のただ中にそれはある。昔懐かしい丸太を並べ継ぎ接ぎした、それこそおとぎ話にでも出てきそうな木こりの家であった。
 その家屋を目の前にこくりとうなずき、先にドアを開けようとする彼女をダイゴは遮る。そうして彼女を自分の背に隠すと、彼はまず扉をノックした。
 コン、コン、と乾いた音が森に響き、途端ザザッと樹々が鳴る。再び、二度。完全に返事がないのを確認すると、ダイゴは扉を開け、そして、しばし瞑目し、かぶりを振った。
 不幸にも、家は荒らされていた。彼女が以前話してくれたとおり、盗賊たちに抵抗したであろう祖母の亡骸が無惨にも床に転がり、すでに腐敗が進んでいた。せめてもの救いは、その周りに供えられた花やきのみだっただろうか。
 この世には亡骸を好むポケモンもいるが、どうやらよほど辺りのポケモンたちの信頼を得ていたのだろう。一晩でも経つうちに餌となっていてもおかしくはなかったが、かえってポケモンたちは彼女を弔う形で周囲に花やきのみをたむけたのだ。
 言葉を失い、きつく両手を重ね、体を震わせる彼女の肩をダイゴは抱いた。そして、彼もまた目を背けてはならないその姿をしかと目に焼き付けた。
 やがて、日が落ち始める前に、彼らは祖母の体をできる限り綺麗にし、家の外へと埋めた。
「いちど、街へ戻ろうか、それとも……」
 すべてを終えたころには、空から注ぐ光が弱くなりつつあった。草木の露を輝かせ、苔むした小屋の形を映し出していたその木漏れ日も、いまや彼女の青白い肌を余計に蒼白に見せるのみ。
 手を合わせ、祖母に語りかけるのを終えた彼女にダイゴは静かに声をかけたが、彼女は、「つくえの下……」とつぶやくとふいと彼の言葉を遮り家に戻ってしまった。
 そして、追いかければ、おもむろに居間のテーブルをずらしそこに敷いてあった絨毯を巻き上げている彼女がいた。
「それは……」
「祖母が、最期に話してくれたんです。テーブルの下よ、と。そのときは、なにがなんだかわからなかった」
 けれど、今なら……。その言葉にダイゴは息を呑み、彼女の作業を手伝った。
 不自然に切られた床板を二枚、三枚と外していくと、あろうことに空洞があり、四方二十センチほどの小箱が出てきた。泥に汚れたいかにも古めかしい箱だ。ダイゴが手でその泥を払い、指で磨くと細やかなパールの散った生地が見えた。紐で閉じられた封を丁寧に開け、彼女は中身を確認した。
 そこには、一通の封筒が入っていた。
「おかあ、さま……」
 嗚咽をもらし、それを胸に体を震わせた彼女をダイゴは抱きしめた。小さな頭蓋を抱き、涙を懸命に堪え、眼を充血させた彼女のまぶたに口づけをした。
 手紙は、彼女の祖母――否、母からであった。
 長いあいだ、あなたを欺いていたことをお赦しください――重く悲しい物静かな謝罪により、手紙は始まりを告げた。
 彼女を捨てた母が本当は自分であったこと。父とは、この森で出会ったこと。憔悴し、しかし、何百年と生きながらえ、その命を終えることのできない哀れな父をいつしか愛し、子を成したこと。そして、生まれた子が彼女であったこと。
 すべてが幸せなひとときだった。かけがえのない日々であった。しかし、森での生活は赤子である我が子には易しくなく、やがて重い病に罹患してしまった。
 幼き命が途絶えようとしたとき、父は言った。
「私のルビーとダイヤを削り、食べさせよう」
 かつて愛した鉱国の姫がそうしたのと同じく、愛しい我が子にその身を捧げたのだ。愛ある犠牲の末、彼女は一命をとりとめ、やがて父は時を取り戻したように老衰し、命を終えた。彼女の体に呪いを遺して……。
 ――ごめんなさい、あなたの母と胸を張ることができず、長いあいだつらい思いをさせてごめんなさい。なにもかもを押しつけてしまい、ごめんなさい。
 謝罪に塗れた手紙であった。しかし、最後に、ひとつの言葉がにじんでいた。
 ――あいしているわ、私たちのかけがえのない子。
 彼女は瞳を懸命にダイゴの肩へ押しつけ、嗚咽をもらし、涙をこぼさず泣いた。
 真実はかくも優しく、そして、実に残酷である。悲劇なのか、それとも喜劇か。果たしてこれが感動の結末フィナーレなのか、ダイゴには判断しかねた。
 ただ、彼はかける言葉を失い彼女に寄り添う中で、ある答えを見つけ始めていた。

 彼らは次の日、とある場所に向かっていた。本来ならば旅を続け、再び石の瞳の乙女アイラのもとへ向かうはずであった。しかし、実際にはそれとは反対のある古き都へ降り立った。彼女と出会う前、カロスで新たなメガストーンの採掘の際に立ち寄った場所だ。
 森の奥深く、ひとつ洞窟を抜けた先にその場所は存在する。地図にも載っていない、いわゆる秘境と呼ばれるにふさわしい土地だ。
 ポケモンたちがさえずり、湖面が静かに揺れる。その緑豊かな悠然とした自然の中に、古びた、しかしうつくしい城が存在する。
 ダイゴは彼女の手を強く握り、その城の門を叩いた。背負った鞄にはあるものを携えて。ややもしないうちに彼らの存在を認めたのか、門はひとりでに開いた。彼らは城へ足を踏み入れた。
 広大な庭を真っすぐ突っ切ろうとしたところで、一匹のヤヤコマが頭上を舞い彼らの先導となった。そうして中世の趣を残した城の中を進み、二階の或る部屋にいざなわれた。
「ダイゴおにいさま、お待ちしておりました」
 そこにいたのは、この城の姫君だ。以前と同じく薄紅のドレスに豊かなシルバーブロンドを携え、やわく瞳を細めて彼らを迎え入れた。お待ちしておりました、その言葉にダイゴは引っかかったが、使いのヤヤコマに連れられるがまま、隣の愛しい人の背を支えて歩み寄った。
「これを、返しに参りました」
 恭しく膝を折り、彼が差し出したのは一冊の書物であった。
 まあ、と姫君は頬をほころばせ、彼の手からその本を自らのもとへ取り戻す。
「しかし、もうよろしいのですか?」
 愛おしげに表紙を撫でながら、彼女は言った。
 ピンクダイヤのような淡い色彩の瞳がダイゴを見下ろして、彼は密かに唾を呑む。
「……ええ。もう、よいのです」
 そして、彼は穏やかに覚悟を告白したあと、隣に同じく腰を折った彼女の手を強く握りしめた。
 カロスの隠されたもうひとつの伝説は、今、彼の手の中にある。なおも息づき、その伝説を鮮やかなものに変えて。それが彼の――彼と彼女の出した答えだった。
 彼女と出会ってから、彼は永らくその呪いを解く方法を探してきた。そして、カイナの浜辺では実際にその道標を見いだした。その血を液状のまま口にすることで、つまり、異物、たとえば他者の細胞などを混在させれば体液の結晶化を防ぐことができるのではないか。おそらく、彼の信頼のおける、そして、彼が最も自信を持つチームを集めれば、研究の末呪いを解くことができたかもしれない。
 しかし、彼はそうしなかった。
 なぜなら、彼女の身に遺されたそれが、果たして本当に呪いだったのかわからなくなっていたからだ。我が子を守るために施した愛の代償は大きかったかもしれない。彼女がこれまで思い悩み、苦しみ、嘆いてきた事実は消えることはない。それでも、彼女の中には母と父の愛が今もなお息づいている。
 姫君はダイゴの答えに微笑むと、そばに控えていた侍女に書物を手渡した。
「ダイゴおにいさまなら、そうしてくださると思いましたわ」
 そうしてくださる・・・・・・・・? ダイゴが訝るうちに、姫は玉座から立ち上がり隣の彼女に近寄ると、「お顔を見せてくださるかしら」とひと言添えて、頭に被っていたストールをほどいた。
「とても、きれいな瞳だわ。それに、聡明な額、神秘の頬……」
 手を握る力がかすかに強くなったのがわかった。ダイゴは強くそれを握り返し、姫と彼女の間に入ろうかと上体を捻る。しかし、彼女が小さくかぶりを振りそれを遮った。
「わたくしたちの大事な姫君を守ってくださり、ありがとう」
 姫君の白い指先が彼女の髪を撫で、頬をすべり下りる。あどけない純真さの中で、たおやかで洗練されたうつくしさが香る。そうして、彼らが息を呑んでいるうちに、姫君はふたたび微笑み、光に身を包んだ。
「まさか」
 ダイゴの瞳には、かの伝説のポケモンであり、鉱国の姫君であるディアンシーの姿が映っていた。
 彼らを導いてきたヤヤコマが空から再度舞い降りその肩にとまる。そして光に包まれ、その姿はメレシーに変わった。
「われわれは永らくこの時を待ち望んでいました。ふたたび、我が姫君にお会いできることを」
 すべての点が繋がった。なぜ、彼が新たなメガストーンを探し迷い込んだこの土地で、あの隠された伝説の書物を受け取ったのか。そして、期せずして彼女と手をとりあい、今、再びこの地を訪れ、ディアンシーに出会ったのか。
「これは、偶然ですか、それとも」
 厳しい視線で射抜くダイゴに、ディアンシーはおのれのダイヤを煌めかせ、かぶりを振る。
とある・・・うわさが街で広がっていると聞き、われわれはあなたを守りたかった。そして、先代の過ちを謝りたかったのです」
 きらめきのベールを纏いながら、小さな両の手を合わせ、瞑目する。まさか、本当に伝説がここまで息絶えていなかったとは、ダイゴには信じがたかった。しかし、これまでの必然に近い、偶然の連続の答えを彼はたしかに手にした気がした。
 繋がっていた手がゆっくりと離れ、彼女が洋服の下に隠していたペンダントを取り出す。ロケット状になったチャームにはヘーゼルの瞳からこぼれたダイヤが大事にしまわれていた。
「これを、お返しします」
 至高の輝きを持つそれがいっそう強い光を放つ。そして、共鳴するようにディアンシーの体もまた発光し始めた。
 ダイゴは目を疑った。
 おのれの内なる力を解放し、さらなる高みへ導く……。そう、メガシンカの光。
「われわれの姫君を守ってくださり、感謝いたします」
 進化を超えた進化であるメガシンカには、元来キーストーンとメガストーンが必要なはずであった。そして、そこには絆という深い繋がりが――。
 メガディアンシーとなったその姿の、なんと神々しいこと。思いがけず目を奪われているうちに、姫君はふいと彼らの頭上を舞いベールを降らせた。
 心の裡が満たされていく感覚。ふと隣を見ると、彼女も青白い頬をかすかに桃色に染めて、ダイゴを見つめ返していた。
「ここまで純度の高いダイヤは、これまでその呪いを受けた者が、なにがあろうとも涙を流さずにいてくれたおかげ。そして、真に想いを募らせ、愛情を育んだ証なのです」
 やはり、呪いであり呪いではなかったのだ。
 彼女の体に息づくのは愛の結晶であり、彼女が愛されるべく生まれてきた証であった。生まれながらの罪でも、償わなければならない罰でもなく、彼女を守るただひとつの愛。彼女が苦しんできた歳月を思うと胸が張り裂けるが、それでもなお彼女が生きてきた、この世に生を受けたことを福音だと言えるのは、この上ない歓びであった。
「大いなる祝福を」
 メガディアンシーが空から舞い降り、彼女の頬へキスをする。
「わたくしたちは、先祖が犯した過ちを忘れません。永らく苦しめてしまったことを心よりお詫びします」
 彼女が小さくかぶりを振った。
「しかし、あなたたちの姫君をわたしの父は……」
 淡い桜色のダイヤが、水面に揺らぐ。
「それでも、あなたがたは姫君を守り続けてくれました。その体ゆえ戦に身を投じねばならず、また賊に追われ、幾千の血を流せど、その血に息づく姫を何年も、何十年も、何百年も……。わたくしたちは、あなたたち人間に感謝します」
 そして、メガディアンシーが彼女の額に触れると同時に、双眸から雫がこぼれ落ちた。七色に光を反射する至高のダイヤではなく、頬を濡らし、彼女の想いを地に染み込ませる。
 ――まるで慈雨。
「そのダイヤはあなたのものとして、大事にとっておいてください。あなたこそが、彼らのそして我が姫の宝。想いの結晶なのです」

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「それで、しばらく消息不明ののち、ようやく帰ってきたと思ったら今度は本を執筆するだって? それも、おとぎ話を」
 目映い白亜の街並みに、エメラルドを溶かした艶美な色彩が揺れている。
 歴史の眠る神秘の都、ルネ。そのとある一軒のカフェテラスで、ホウエンリーグチャンピオンのミクリが、やれやれといった様子も隠さず長い脚を組み紅茶へ手を伸ばした。
「そう。ひとは伝えたいことがあると、どうしても筆をとらずにいられなくなるというのは、本当だったみたいだ」
 なにも上手くはない、そう言いたげに茶を飲む竹馬の友に、ダイゴは笑ってウェイターに自分用のアイスコーヒーを頼む。
 天から注ぐ陽射しをはね返し、白いルネの建物たちは陶器の輝きを放っていた。ひどく眩しいが、どこか、なにもかもを受け入れてくれる純真さがあった。
「内容は」
 黒いベストと白シャツの背を見送ってミクリが訊ねる。
「まだ内緒、と言っておきたいところだけど、君には特別に話そうか」
「そう言いつつ、実際には話したくてうずうずしているんだろう」
 ルネの街によく似合う白い肌と、鮮やかなエメラルドグリーンの色彩を優雅に調和させて、完璧な物知り顔を浮かべた彼にダイゴは降参の構えを示す。
「まったく、君には敵わないね、ミクリ」
「当たり前さ。何年、君の友人をやっていると思うんだい」
 いつもの、とりとめもないやりとりであった。時間が悠然とした川の流れとなって、やがてうつくしい湖畔に注ぐ。
 否、このルネの都に揺蕩う青く澄んだ海水のような……。
「それで?」
 先を促す視線に、ダイゴはゆるむ頬を元に戻すこともせず、続ける。
「そうだな、とある国の愛の物語としておこうか」
 そこで、アイスコーヒーがやってきた。恭しくコースターを敷き、濃い琥珀色のグラスを置いたウェイターにダイゴは律儀にも礼を言う。シロップとミルクの入った小さなピッチャー付きだ。
「愛だとか恋だとか、そんなものをささやくのがあれほど苦手だった男が、まさかそこにたどり着くとはね」
 しかし、その二つのどちらも使わずに、ダイゴは冷えたグラスを手にとりストローで一度ぐるりとかき混ぜる。
「ひどい言われようだな。まあ、それはボクもそう思うよ」
 ミクリという男は、おそらく自分よりもツワブキダイゴという男を知っている。時として喜ばしいほど、はたまた、恐ろしいほどに。
 ダイゴは小さく肩をすくめるとようやくコーヒーへ口をつけた。

 かくして、旅は突然の終わりを告げることとなった。
 伝説は伝説に終わり、世界は平静を取り戻す。ダイゴの日常もまた、同じくして穏やかなものへと戻るはずであった。しかしながら、ひとつの場所に留まっていることのない彼の性分が、ただそれを甘受するのみであるはずもなく、彼は今まさに再び、自ら忙しない日々に足を踏み入れるところだった。
「それでも、この手で残していかなくてはならないものって、あるだろう?」
 さわやかな苦味を喉に流しながら、ダイゴはこの日身に纏った白いシャツを大胆に太陽へ晒す。
「なるほど、これはまた大仰な使命感のようだね」
「ああ。おそらく、ボクにしかできないことだから」
 すがすがしい心地だ。日常の中で、非日常の、しかし存分に羽を伸ばせる場所といったら、もはや洞窟をのぞいてルネ以外――とくにこの男の前以外にはこのホウエンに存在しない。ジャケットも羽織らず、ただ、ひとりの、一個の人間として、映画の中のようなうつくしい情景に身を投じる。彼が心の裡を吐露したのも、このルネの街並みや、そこに鮮やかに映し出されたエメラルドや、太陽の光のせいだろう。
 これまで身につけた重たい鎧を脱ぎ去って、そしてまたひとつ、またひとつと背に背負って行く。真白の、純白のシルクの上に。
 ミクリは眩しさに目を細めて、ふっと笑んだ。
「あのツワブキダイゴが、伝記でも、はたまた石の学術書でもなく、まさか絵本をしたためるとはね」
「いくつになっても、新しいことに挑戦するのは悪くないね。今からワクワクしているよ」
「どうやら、この調子で我らが御曹司さまは、いたいけな子どもや親たちの心までも手にしたいようだ」
 人聞きの悪い、ダイゴは左手をテーブルの上に置き、指をとんと打ちつける。その指には、常とちがう華奢なリングがはめられていた。彼の髪と瞳によく似た、うつくしいプラチナ。そしてひと粒のダイヤが。
 それに気づいてか否か、ミクリは優雅な仕草で紅茶を口へ運んで、笑みを深める。
「ところで、ダイゴ。君、絵は描けたかい。私の記憶だと……」
 ダイゴはとうとう目を回した。
「本当に食えない男だよ、君は」

 とある男の「罪と罰」を伝う伝説は、形を変え、これからもなお、人びとの心に息づき続けるだろう。