小さいころから、護るべきものはすべて護ってきたように思う。手にしたいものも手にしてきたし、それを自分のものにするために、努力も惜しまなかった。だが、世の中にはどうにもならないものが多々存在する。手を伸ばし、その手の中に掴んだはずなのに、あっけなくすり抜けていくものが。
愛しき存在とのたしかな愛を手に入れながら、その愛が粉々になり見えない形となって同化した男と、いったいどちらが悲劇的なのだろう。ダイゴには同等、いや、はるかに自分のほうが不憫で情けなく思えた。
「おや、やけに酷い顔をしているじゃないか」
この日、久しぶりにミクリと会う約束をしていた。いつもどおり、ルネのカフェテラスで待ち合わせをして、時間よりも早く落ち合う。
光の中からやってきた彼に、ダイゴは自嘲気味に笑って、「まあ座りなよ」と促した。
「リーグはどうだい」
「変わりがあるように見えるかい」
ダイゴの前に着座して、店員にいつも通りのメニューを頼んだミクリは優雅に足を組んでふっと息をもらす。もちろんその答えは予想していたので、ダイゴは肩をすくめただけだった。
「それで、君から呼び出してくるなんてめずらしいじゃないか、ダイゴ」
「そうかな」
ダイゴはぬるくなったコーヒーを口につけて、視線を逃がす。相変わらず白亜の街はうつくしく、それでいて痛いほどに目映かった。
「前回会ったときのことを覚えているかい」
ややあって切り出すと、ミクリは長い睫毛を揺らしてダイゴを見た。
「もちろん。まだ一か月も経っていないじゃないか。そこまで老いぼれてはいないよ」
一か月、その言葉を聞いてダイゴは大きく息を吐き出した。
「そうか、一か月経っていないのか」
瞳を伏せて、いつもよりおぼつかぬ手つきでカップのはらをなぞる。明らかに憔悴した友の姿にミクリは片眉を上げた。
「まるで、なにかにとり憑かれたようだね。そうだな、あのおとぎ話にでも」
ダイゴはそれを聞いて、声を上げて笑った。
「そうか、とり憑かれている。とり憑かれたのか、ボクは。実に的を射た表現だよ。さすがはミクリだ」
その笑い声が悲痛なものに変わっていき、ダイゴは自分でなにに笑っているのか、ほとんどわからなくなっていた。しかし、どうして笑わずにいられよう。
いよいよ目の前の男の顔から色がなくなり、「ダイゴ」と訝る声が突きつけられた。
「なにがあったのか話してくれるかい」
ダイゴはまたひとつ鼻で笑いながら、かぶりを振った。
「なにも、なにもないんだよ」
「ふざけてないで……」
ミクリの声が止んだ。
「ダイゴ、君……」
目の奥が痛い、喉がカラカラする。指先は枯れ、チリチリと鈍く痺れが走っていた。
頬に伝った想いを止めることなく、ダイゴは微かに震える手で目元を覆う。
「なにも、ボクはできなかった。ボクはなにも護ることができなかったんだ」
そして、その手にはなにも残らず、消えていった。
指の間から射し込む光は眩しい。だが、なにもかもが輪郭を失って、白い亡霊のように滲んでいた。
ありがとう――その一言を残して彼女がいなくなってから、二日が経っていた。
今でも、あの日のことを思い出す。
彼女の皮膚の間から溢れ、咲き誇るようにこぼれる真っ赤な果実。あれ以上にうつくしい宝石をダイゴは見たことがなかった。そして、あれほどにそのルビーを食してしまいたい、と強い衝動に駆られることも、そのときが初めてであった。
だが、彼女はふつうの人間であった。ただ、楽しいことに笑い、悲しいことに泣き、忍び寄る恐怖に体を震わせる、ただの一人の女だったのだ。
ダイゴがカイナの浜辺で彼女の血を含んだとき、たしかに彼女の血はその形状を保っていた。舌に染みる、苦く酸味のある鉄の味。それでいて、この上なく甘い彼女の味をよく憶えている。ルビーではない、自分に流れるものと同じ、ほかでもない血の味を。
一抹の光であった。ダイゴの唾液という不純物が、その血の結晶化を食い止めうるものだと、半ば確信していた。――そうだ、自分は彼女を助けられたはずなのに!
もしもあの夜、彼女を抱きしめて眠りについていたとすれば、自分たちは最も幸福な男女の一対になり得ていたのか。もしも、あの夜彼女をこの手にかけてしまえば、彼女はもう二度と苦しまずにすんだのか。
月の隠れた宵闇に儚く浮かぶ横顔を、ほどけていく祈りを、ダイゴは忘れもしない。
彼女が罪を犯したというのならば、彼女が罰を背負わなければならないというのなら、なぜ、彼女を欲しいと思った欲深き自分がのうのうと生きていられよう。
護ってやりたかった。護ってやれると、心のどこかで驕っていた。
そして、彼女もまた自分の手をとってくれると信じていたのだ。
「ミクリ、君は今まで手に入らないものがあったかい」
白亜のテーブルを長い指で打ち付ける友に問う。
「ダイゴ、私は君とはちがって、手に入らないものばかりだったよ」
自嘲、あるいは、悲憤の笑みを浮かべてミクリは言う。ダイゴはすぐさま、すまない、と謝ったが、ミクリはただ口元を緩めただけで、常のたおやかな仕草で紅茶を飲んだ。
「だが、さまざまなものを諦めてきた中で、ふしぎと悔いているものはないと気がついたのさ。それも、最近のことだが」
音も立てずに、彼はカップを置く。
その顔は、長きにわたって見続けたどの表情よりも優しく、それでいて、儚いものだった。ダイゴは今度こそはっきりとその視界にミクリを映した。
「私は他人が思うよりはるかにいろんなものを失ってきた。けれど、そのぶん大きなものを得てきたつもりだよ」
「君は、欲が少ないな」
「さあ、どうだろうね。これでいて、この私という人間は実に欲深い生き物だよ。だが、それだからこそうつくしい。足掻いて、足掻いて、泥水を啜るようなことがあっても、また立ち上がる。そんな人間の生き様が、私はどうしようもなく好きなのさ」
ミクリははっきりと目の前の男を見据えた。その光を失いかけたはがね色の瞳を見つめ、ふっと不適な笑みをたたえる。
そうして、唯一無二である親友の腕を引っ張り上げ、その背を押すのだ。
「らしくないじゃないか、ダイゴ」
唇を噛み締めたダイゴに、ミクリは容赦なく笑みを深める。
「君は欲しいものがあれば、どんな苦労も、努力も惜しまなかっただろう」
ダイゴはルネを飛び発ち、ホウエンじゅうを巡った。デパートに立ち寄ったミナモから、ヒワマキやキンセツ、それから、シダケにカナズミまで。彼女が行きそうなところなら、すべてを探し回った。だが、彼女の姿はどこにもなかった。
一人が怖いくせに、とダイゴは苦虫を噛む。
だれよりも愛されたいはずなのに、なぜこの手を離すのか。彼女のためなら、どんな罰でも甘んじて受け容れようと思っていた。たとえこの身を裂かれようとも、一生解くことのできない呪いを受けようとも、彼女のためならば、ダイゴはなんだってできた。だが、こんな罰はとうてい受け容れられそうになかった。
シダケの別荘へ一度帰り、ダイゴは書斎の本棚からあの古文書を取り出した。呪いに関する文書がないか、くまなく探した。
なぜ、書物として伝えられながら、俗世には広がっていないのか。ダイゴはずっと気がかりだった。ディアンシーとメレシーに関する書物ならば、以前読んだことがある。だが、そこにはそのようなことはひと言も書かれていなかった。
ダイゴは古文書に目を通しながら、関連する文献を父の本棚から抜きとる。あらゆるポケモン、あらゆる鉱石、あるいは伝説に関する本や論文、出来る限りのものを必死で探した。だが、やがて喉の奥が焼け、腹から胃液が迫り上げてくると、乱雑にそれらを閉じて頭を掻き乱した。
なぜ、カロスの姫君はこんなものを渡したのだろう。厚いポケモンの皮でもって綴じられた本の表面は、気味が悪いほどざらりと指のはらを撫でる。なぜだ、男と姫の絵をそっと指先でたどり、ダイゴは瞑目する。
なぜ、あの姫君は自分にこんなものを託したのだろう。
ダイゴは居ても立っても居られなくなり、別荘に残った彼女の欠片を探し始めた。こんなにも大きなお風呂は初めてだと驚いたバスルーム、裸足になってするりとフローリングの感触を味わった廊下、狩りでも始まりそうな手捌きで包丁を握ったキッチン、映画みたいだと笑い合ったダイニング。それから、寄り添い、いつまでも互いの存在を感じ合ったリビング。そこかしこに彼女の片鱗が落ちていた。そして、あらゆるその破片が刃となりダイゴの胸を貫いた。
行くあてなど、頼る縁などないはずなのに、どこに行こうというのか。
カロスへ帰る船ならば、二日後にカナズミより発つ船がある。だが、身分証を持たぬ彼女が公的機関を使うわけがない。
「くそっ」
ダイゴはリビングのテーブルの上に散らかったカップや皿をすべてなぎ払った。けたたましい音を立てて、なにもかもが崩れ去った。荒く肩で息を繰り返し、ソファに重々しく座り込み、彼は額をかかえる。
――太陽のしたを、ほかの子と同じように歩きたい
あの、すずらんの音色が脳裡に反芻する。
歩ける、歩けるんだ。歩いていいんだよ、きみは。頬を染めてはにかむ彼女の姿が思い出されて、ダイゴは拳を握りしめる。ただの女の子だった。少なくとも彼の前では、唯一無二の存在でありながら、どこにでもいるようなありふれた女の子だったのだ。
握りしめた拳を太腿に振り下ろす。強く握りすぎて、もはや彼の手は色を失っていた。
――あさが、こわい
夜風に紛れる声が、ダイゴの耳の裏を撫でる。
そこで、彼はハッとした。
最後の夜、彼女が捧げた美しくも儚く、そして残酷な祈り。その悲痛な四文字が全身を駆け巡る。まさか――。いや、そうなのだ。
開け放たれた窓からは、月明かりが射し込んでいる。ルネにいた時は目映いほどの白日が広がっていたのに、すでに夜も更けていた。夜風が青く甘い花の香りを運んでくる。道端に咲くような可憐な小花の香りだ。
ダイゴは最後の望みを胸に抱き、夜空へと飛び発った。
帳の下りたカイナの町はひどく静かだった。傾いた月が濃藍の海を薄らかに染め上げている。ひとつ、ふたつ、と潮騒が耳を撫でては、キャモメの声がときおり落ちてくる。
活気ある町の夜というのは、どこか神秘的でもあった。しっとりとした、そう、あまりに静謐としたその空気を浴びながら、ダイゴは一〇九番水道へと下りる。昼間はあれほど賑やかで、人々がひしめき合っていたのに、銀色に光る砂浜にはもはやだれもいない。――否、彼女以外は。
月夜に浮かび上がるその姿を認めたとき、ダイゴの心臓は震えた。心臓だけではない、手が、脚が、唇が、双眸が、すべて小刻みに震えたのだ。指先に血潮が巡り、熱が溶けてじわりと痺れる。たまらず、水面から顔を出したときのように大きく息を吸うと、ダイゴは靴を脱ぎ捨て、桃色のぬいぐるみを抱いて浅瀬に立ち尽くす彼女のもとへと水を蹴った。
膝ほどまで海に浸かったところで、ダイゴは彼女の名を囁き、その腕を掴む。頭にかけていたストールが肩に落ち、彼女の金褐色の瞳が彼を貫いた。
「ダイゴさん」
その名を紡ぐ唇の真っ赤な色に、ダイゴは堪えきれなくなり、彼女を掻き抱いた。
その拍子にエネコ人形が彼女の腕から飛び出し、水面に揺曳する。濡羽色の髪が、風とともに彼の頬をくすぐる。どれほど海に浸かっていたのだろう、体はひどく冷たかった。その存在を確かめるように、ダイゴは腕の力を強くした。
「君がいくなら、ボクも一緒にいく」
彼女のあえかな吐息がダイゴの胸元に溶ける。どくり、どくり、鼓動が重なり、彼らは一つになる。
「ボクは、ボクはずっと君のそばにいる」
腕の中の彼女が小さく震えた。その体が消えぬようしかと抱きながら、ダイゴは彼女の髪を頬で掻きわけて彼女の額を探り当てる。そうして、何度も、何度も彼女の名を囁き、頬擦りをし、そこへ口づけを落とすと、彼女の体を少し離し、その小さな唇へと口付けた。
決して、傷つけることなく、まるで硝子細工に触れるように繊細な唇で。そして、溶けてしまうほどの熱をもって。
やがて、彼女の双眸からこぼれた大きなしずくを、ダイゴは指先ですくい、二人の手の中に閉じ込める。
水を吸ったエネコ人形が波間に沈んでいる。
――間もなく、夜が明けることだろう。……
