家に帰ると、シャワーを浴びてお気に入りのボディクリームで一日の疲れを労った。いつもならそれでベッドに入る。しかし、今日はなかなかそうすることができなかった。
シーツにくるまるとどうしても昨晩のことを思いだしてしまう。まるで映画のようなめくるめく快感、それから、この上ない安堵感。どうにも落ち着かず、私はダイニングテーブルに座りバラエティ番組を右から左へ流していた。
そういえば、キバナに連絡を返していない。と、思ったとき、ジーッとドアベルが鳴った。ぼうっとしながら玄関へ向かいドアスコープをのぞく。
キバナが立っていた。
「こんな時間に、どうしたの」
開けるかどうか迷ったが、いつものユニフォームではない、白いTシャツにジョガーパンツ姿がなんとも寒そうでおそるおそるドアを開く。
彼は黒縁眼鏡の下でニッと笑って、「映画、見ようぜ」と手に提げた袋を掲げた。そこには、サイコソーダの大きなペットボトルとコンロで作るポップコーンキットが入っていた。
「はあ、いつかこんなところ住んでみたい」
THE・ENDというクレジットとともに、エンドロールが流れ始める。そこには碧く澄んだ海と白い砂浜が広がり、風にヤシの木がそよいでいた。
「あぁ、なんか、こういうところ好きそうだよな」
「うん。なにもないけれど、むしろそれがいいっていうかさ。老後はこういうところでのんびり暮らしたいよねえ」
結局、彼を家に招き入れ、いつもの調子で映画を一本見終えてしまった。
今日の映画は、とあるサーファーとポケモンの友情を描いたヒューマンドラマ作品であり、ずっと二人で、「絶対おもしろい」「見るしかない」と言っていたものであった。その前評判もあってか、舞台となったホウエンのひたすらに美しい映像はさることながら、昔の無声映画のような役者たちの雰囲気と説得力ある演技、はたまた実際に映画の登場人物になりきってしまうようなストーリー演出に、気がつけばなにもかもを忘れて夢中になっていた。大ボトルのサイコソーダは半分に減り、山盛りのポップコーンもみごとに空っぽである。
「しかし、マジでいい映画だった」
「ほんとそれ」
三十二インチの液晶テレビの前に二人で並び、ソファーへとっぷり身を預けながら、はあ、と余韻に浸る。これも、いつもお決まりのパターンであった。最近はほぼキバナの家の特大サイズのソファーで、だったが。
二人がけのソファーだからか、キバナは背凭れに腕を投げだして、私を包み込むように座っている。
「こういう、ポケモン出てくるやつってほんとずるいよなぁ」
「だよねえ。あそこでマクノシタに出てこられたら、こっちの涙腺がもたないもん」
はあ、とため息をついているうちに、ムロの美しい景色は終わり、クレジットロールが始まった。画面が一面黒くなったそれを私たちは見つめながら滔々と語り続けた。
いつだか、映画は人生の旅のようだとキバナと話したことがある。幕開けとともに私たちをあらゆる場所やあらゆる世界へと連れ去ってしまう。いい映画であればあるほど、その旅は濃く、深く、本当に旅をしているような錯覚にさせ、私たちは元の世界へ戻ってくるのが難しくなる。だから、いろいろなところへ旅立ったあとに、エンドロールで旅を終えるのがいいのだ、と。ただ作品に携わった人間を紹介するのではなく、旅した場所や出会った人、さまざまな旅の思い出に浸るための時間。
「エンドロールが終わって、劇場の照明がやさしく点るのが好きなんだよなあ」
というキバナの言葉に、かつて私も大きく頷いた。
エンドロールの最中にいそいそと席を立つ人も多いが、絶対に最後まで旅の余韻に浸るのがいい。長すぎるくらいのエンドロールの果てに、ゆっくりと明るくなった劇場でふっと世界を目の当たりにする。少し冷ややかな温度だとか、暗くなったスクリーン、それから、動きだす人々。忙しない世界の中でじっと佇んでいるその瞬間が好きだった。キバナも、私も。
エンドロールが終わるまでソファーの前に居るのが、私たちの映画鑑賞であった。きちんと最後まで見終えるまでは映画を止めないこと。そして、できるかぎりトイレに立たないこと。映画館ではないから、おしゃべりはしていいこと。そうして感想を述べ合いながら、すべてが終わったあとにソファーへぐてんと身を投げだす。
今日もそうなるのだろうと思っていた。
エンディング曲のピークが過ぎ、確実に終盤へ近づいてだんだんと言葉が少なくなる。べつに合図をしたわけでもなく、どこからともなくそうなった。
背凭れに置かれていたキバナの手が、私の髪に触れてそっと指を通す。何回も、何回も。やがて、映画が幕を閉じても、私たちはひと言もしゃべらずただソファーに座っていた。
髪を梳く手が心地よい。だが、それ以上に今にも心臓がはじけてしまいそうだった。こんな展開、初めてではない。だれかの家に行って、ソファーでテレビを見ているといつしか自然とそういう空気になって、ベッドに行く。彼氏になりそうな男と、あるいは、かつての彼氏と何回かこういうことはあった。それでも、キバナの手はなによりも特別なように思えた。
じっと前を見つめたまま、時が過ぎていく。DVDのメニュー画面にはムロの軽快な波が幾重にも重なり、大きく飛沫を上げている。高揚感を誘う音楽と、慌ただしく動く世界のただ中で、キバナと私は静かに佇んでいた。
やがて無言にこらえきれなくなり、おそるおそる右をうかがい見る。
碧い瞳が私を映していた。声もなく視線が絡み合い、そして見事に絡めとられ離れられなくなる。キバナの整った顔が近づいてくる。限りなくスローモーションで、まるで、永遠の時を刻むように、厳かにしめやかに、そして、あでやかに。
動けぬまま唇が重なり、旅の余韻に舞い戻りながら私たちはソファーに身をうずめた。
――また、しちゃった。
背を向けて安らかに寝息を立てるキバナの隣で、その逞しい背中を見つめる。隆起した肩、引き締まった腕、すべらかな肌に羽が生えてまるで彫刻みたいに美しい。
目でそれを撫でるだけで喉の奥が疼き、まぶたの裏がじんと熱くなる。
――なにがだめなの
頭の中で、ルリナが言った。
「だめじゃ、ない……」
この人のこういうところを見るのが、なぜか幸せだった。今まで見たことなかったが、これをほかのだれかが見るのだとしたら、それはすごく嫌だと思った。
勇ましく山を描く肩へ手を伸ばす。そっと指先で触れて、彼の形を模っていく。
「くすぐったい」
声がして、ハッと手を引っ込める。キバナはゆっくりと寝返りを打った。
「起きてたの」
「ん、今ので起きた」
「ごめん」
「いいぜ、気にしない」
少しだけとろんとした瞳があどけない。シングルサイズのベッドは二人で眠るには窮屈だった。からだはほぼぴったりくっつき、すぐ目の前に整った顔がある。長いまつ毛の根本まで見えるようなそんな距離だ。
じっと見つめあったあと、私はキバナの額に指を伸ばした。
秀でた鼻梁に、スッと丘陵を形づくる鼻すじ、眼窩は深く、頬骨は高くせりあがっていた。なだらかに輪郭を下り、それから、尖ったあごと薄い唇をなぞる。
「なんだよ」
ふっと細まったまなじりに、胸がきゅうと締めつけられる。
「キバナはさ」
「うん」
「わたしのこと、好き?」
気を抜けば泣いてしまいそうだった。不安と、惧れと、それから切なさと愛しさに。そんな私に、彼は頬を緩めてやさしく微笑った。
「あたりまえだろ。出会ったころから、ずっと、好きだったぜ」
なにかが確実に溶けだして、私はキバナの胸に自分の顔を押しつけた。
「オレさまじゃ、だめか」
キバナが言う。
「だめじゃ、ない。だめじゃないよ」
そうだ、一体、なにがだめだというのだ。だって、私たち、最高の組み合わせじゃないか。
そうして、しっぽり落ち着いた私たちは以前と変わらぬ生活を続けていた。
朝起きて、ごはんを食べて会社に行き、アーマーガアのごとくあくせくと働いては、ワイルドエリアでキャンプをしたり、映画を見たり、はたまたキバナのポケモンたちが汚してしまった家の壁を二人で塗り直したり。
変わったことを挙げるなら、夜寝るときに隣にキバナがいることが増えたことと、彼から、「ほかの男とは飲むな」というお達しをくらったことだろうか。後者に関しては、ここ数年、もとよりキバナを中心に生活が回っていたようなものなので、実際にはさほど変化を感じていないのだが。
「そうなると思った」
ルリナに報告すると、彼女はさも当然のようにそう言った。
「やめてよ、なんだか友達だった数年間が水の泡になるみたいじゃない」
「別名、ムダな足掻きっていうね」
「待って。ルリナはキバナの気持ち、知ってたの?」
だれもがうっとりするような完璧な笑みで、ルリナは笑った。
「そりゃあ、だれが紹介したと思ってるの」
キバナとはルリナを通じて知り合った。何年か前、ガラルリーグのスポンサー企業のパーティで、ルリナに連れられて参加したときだ。彼女がスポンサーのおじさんに捕まり、一人ブルスケッタを頬張っているところにキバナがやってきた。
「それ、ウマい?」その言葉と、声を今でも鮮明に覚えている。そして、あとからジムリーダーのキバナだと紹介をうけた。
やられた。はあと盛大なため息をついて頭を抱えると、ルリナはくすくす肩を揺らしながら珍しくエールビールを頼んだ。
「私、すっごい最低な女じゃない?」
キバナと知り合ってから、それなりにちがう人と付き合った。それを、キバナに相談したこともある。キバナの気持ちを土足で踏みにじるような行為ばかりしてきたわけだ。それだけでなく、簡単に呼びだしては酔いつぶれたり、延々と私のコスメやスイーツ談義に付き合わせたり。
「今さら気がついたの」
とルリナは言う。
「ひどい」
むしゃくしゃしてカクテルを煽ると、ルリナはカウンターに頬杖をついて、こちらを向いてふっと口元を緩めた。
「そんな飾らないところが、彼もあたしも好きなんじゃない」
「ルリナぁ」
スン、と鼻をすする私に、ルリナはにべもなく、「汚い」と言った。
キバナと付き合い始めて一ヶ月、仕事から帰った私をエプロン姿の彼が待ち受けた。
「遅かったな」
「いや、なんでいるの」
「ん? 仕事が早く終わったから?」
「へえ、そろそろスポンサー集めとかで忙しい時期なのにめずらしい。じゃ、なくて、なんでキバナが料理してるのよ」
パンプスを玄関ラグの上で脱いで、スリッパを引っ掛ける。キッチンからはじゅうじゅうといい音と、香ばしい匂いが漂ってきていた。
「たまにはいいだろ、こういうのも」
「キバナの料理はおいしいから、大好きだけどさぁ。でも、彼女の立場なくなるよ」
フライ返し片手にポーズを決めるキバナは、さながら調理器具メーカーのモデルである。むうと唇をとがらせてジャケットを脱ぐと、彼はサッとそれを奪った。
「いいんだよ。おまえはオレさまにとことん甘やかされていれば」
「今までもずっと甘やかしてもらったけど」
「それじゃ、足んねぇの。オレさまの彼女は大変だぜ?」
慣れた手つきでハンガーへかける。私の家というより、もはや彼が長年住んできた家のようだ。下手したら私よりも、洗剤やなくなったリモコンの場所を知っているかもしれない。とはいえ、単身者用のフラットだから彼には窮屈だろうが。
「キバナの彼女かあ」
手を洗ってから、ただいまとおかえりのハグをして呟く。
「不満か?」
彼は私をコオリッポの親子のように抱きながらキッチンへ移動した。
「ぜんぜん。むしろ、満たされすぎてこまっちゃう、みたいな?」
「いいこと言ってくれるねェ」
キスを交わして、微笑み合う。なんだかこそばゆい。だが、幸せだ。こんな幸せを知らなかったことが、信じられないほど。
ただ漠然と、自分は恋愛不適合者なのではないかと案じていた人生が、彼によってバラ色に塗りつぶされていく。
「寝る前にマッサージでもいたしましょうか、お嬢さま」
「キバナ、今日はふくらはぎが疲れたの。揉んでちょうだい」
「仰せのままに」
なんて、そんなふうにふざけあったりして。
これからも私たちは日常を重ねていくのだ。
「そういえば、カマスジョーのポアレは大丈夫?」
「やっべ、忘れてたな」
「おなかすいたよお、キバナぁ」
抗うことのできない変化の波が訪れるとも、知らずに。
はたして、この世に永遠に変わらぬものなどあるのだろうか。
