「キバナ」
とてつもない熱が襲いかかってくる。まるで砂塵の窪地に吹きつける熱砂だ。目も鼻も口も、肌も、あらゆるところがやけどしてしまいそうになる。からだの芯がじくじくとして苦しい。指先がちりちりし、目の奥が溶けだしている。どうにかして酸素を得ようと喘ぐが、大きな手がそれを許してくれない。
何度も何度も唇が重なって、厚い舌が口内を蹂躙し、劣情を孕んだ瞳が私をがんじがらめにする。激しいほどの獰猛な口づけに、もはや意識が飛んでしまいそうだ。
「っは、ぁ……、きば、な……」
その名を呼んでどうにか押しよせる快感から逃れようとする。だが、かえって彼を求めているような甘い声になってしまった。いや、きっと、求めてしまっていたのだ。竜の交尾のような激しい舌と、それとはうらはらに蜜鳥のたわむれのような唇が私の理性を溶かしていく。
こんなはずじゃなかったのに。こんな、キバナ、知らなかったのに。もはやそれすらもどうでもよくなって、私は夢中で彼の背に手を伸ばす――。
「おはよう」
目が覚めて、まぶしい光が私の目を灼いた。碧く透きとおった海に泳いでいるような心地になり、ぽやぽやと目を閉じる。
「おい、また寝るなよ」
ぴん、と額にやさしい刺激が訪れ、私は、「いったぁ」とぼやきながらしぶしぶ上体を起こした。
「まだ寝る……」
「だめだろ。もう七時だぜ」
「まだだいじょうぶだもん」
「オレさまのスクランブルエッグが大丈夫じゃないの」
いい匂いが漂っていることに気がついた。香ばしくて、まろやかなバターの香り。すん、と息を吸い込んだ私に、声の主が、「ほら、冷めちまう前にいくぞ」とやさしいキスを落としていく。そう、やさしいキス。夢のような、あたたかくて、甘い、とろけるような――キス?
目を開いて私は驚愕した。
「き、キバナ!?」
寝室から出て行きかけていた男が、鷹揚にふり返る。
「おう。はよ」
その爽やかでやさしい笑みに、ゴーン、ゴーン、と厳かな教会の鐘が鳴り響いた。
どこにでもいるような、平凡なOLだった。毎朝同じ時間に起き、トーストとカフェオレをかきこみながらメイクをして会社に向かう。そうしてアーマーガアのごとく忙しなく働き、夜にはへとへとになりながらベッドへダイブする。なんてことのない、そのへんにいるような普通の女、それが私だった。しかし、そんな私にも誇れることが一つだけあった。
それは、なににも代えられないとびきりの親友がいるということだ。食べ物の趣味も、映画の趣味も、それからポケモンの好みも、全部がぴったり合致する。ただ重ならない部分と言えば、お互いの性別だっただろうか。とにかく、唯一無二の大親友、それがキバナだった。
男と女の友情なんて、とよく人は言うが、私たちにはけっして当てはまらない。――と、ずっと思っていた。その日のランチのことで何時間も延々と話せるし、映画だってドラマだって、新しく出たスポーツウェアの話だって、なんでも腹を割って話すことができた。さまざまな場所へ遊びに行ったし、エールが飲みたくなれば電話一本で互いに駆けつけた。
ネイルも、化粧も、髪型や服装だって、どれだけ自分の好きにしたってキバナは、「お、それ似合ってるな」と笑って受け容れてくれた。私も、キバナがキャンプのテントを新調するときやポケモンのために家を改築しようとしたときには、喜んでそれの相談に乗り一緒になって買い物やDIYを手伝った。
キバナは、私にとって大事な友人だった。恋人よりも、下手したら家族よりもわかりあえる、そんな、かけがえのない親友。
――なのに。
「なにやっちゃってんの、私」
んじゃ、オレさまも仕事だから、と会社まで丁寧にフライゴンで送り届けられ、私はようやく自分の置かれた状況に頭を抱えた。
「キバナ、なんでうちに? ていうか、それはときどきあったけど……。でも、キ、キスなんて」
甘い甘い蜜のようなキスを思いだして、あああ、とうめき声を上げる。ベッドで寝ぼける私に、彼はお姫様を起こすみたいにキスをした。そして、ダイニングテーブルまでエスコートし、半熟とろとろのスクランブルエッグとトースト、それからミルク二つに砂糖が一つのカフェオレを振る舞ってくれた。
「って、ちがう、そこじゃない、そこじゃないの。問題は夜のことなの」
エントランスで独りしゃがみこみ、ぶつぶつと呪文を唱える私に、同僚たちは怪訝な視線をよこしてすぐそばを通り過ぎていく。
「私、キバナとヤっちゃった、よね?」
そう、問題はそこであった。甘く燃ゆる甘美な記憶と、からだに残るかすかなけだるさを、私はよく知っている。
「キバナと、シちゃったんだよね」
その事実を独り確認して、私はとうとう、うわああ――! と叫んだ。
事の発端は昨晩であった。いつもどおり、仕事終わりに連絡をとり合ってワイルドエリアでお酒を飲みながらキャンプをした。キバナは有名人のため、そうそうお店では飲み明かせない。そういうわけで、ワイルドエリアのあまり人影のないところでテントを立ててしっぽり飲むというのが私たちの定番であった。
飲む、といっても大抵は私が缶を空けていくのだが、昨日もキバナは、フライゴンに乗るから飲酒できない、と頑なにノンアルコールの炭酸水を飲みつつ私の話に耳を傾けていた。
「それでね、最近恋しいのよ。キバナとこうやって楽しく過ごすじゃない、でも、結局、家に帰ると独りだから。なんだか、こう、人肌が恋しくて」
酔っていたから正確な話の前後はよく覚えていない。だが、そんなことを話していたと思う。缶入りのカクテルを煽りながら、私は膝を抱えてキバナの大きなテントの中でひたすらしゃべっていた。
「まあ、わからなくないな」
「でしょう? この歳になると、べつになんでも独りでできるけど、急に独りが寂しくなるっていうか」
酔っ払うと、あれこれと明け透けに自分のことを話してしまうのが私の悪いくせだった。三ヶ月だけ付き合った彼氏と別れてから、ちょうど昨日で二年。それ以来ずっと独り身だった私はその不満をたらたらとお酒とキバナに向けていた。
「だからさぁ、お風呂入って、お気に入りのボディクリーム塗るじゃない? それでベッドに入ると、はあ、だれかにギュッと抱きしめられたまま眠りにつきたい、とか思っちゃうの」
はたから聞けば、馬鹿じゃないのか? という話である。お酒の席で男友達にする話ではない。だが、そんなことまで気兼ねなく話せてしまう仲だったのだ。
ほとんどそのころには酔いが回っていて、キバナにしゃべりかけるのが気持ちよくなっていた。広々とした、天窓のある豪華なテントで上からランプを垂らしながら青々とした夜の匂いを嗅ぐ。そこに、お酒と気の置けない友人がいたら完璧だ。
そういうわけで、失恋二年記念日、かつ、独り身生活二年記念日ということもあり、ヘアバンドを外して、髪をかきあげるキバナに、「そういうことってない?」とダル絡みをしていた。
――そうしたら、だ。
缶の中身がなくなって、「もうなくなっちゃった」と次のお酒を探そうとした手をキバナが掴んでいた。どうしたの? 私は訊ねたが、彼はなにも口にしなかった。ただ、碧い瞳が、遠くホウエンの海原のような深い瞳が私をとらえて、そして、ゆっくりと唇がつながった。
さすがに、テントで最後まではしなかったが、とろけるようなキスで腰を抜かしてしまった私を連れて彼はシュートシティまで飛び、そのまま私の家になだれ込んだ。あとはもう、想像に足ることだろう。
「で、なにがだめなの?」
仕事終わり、魂の抜けた人形と化した私を迎えたのは幼なじみのルリナだった。
彼女とは幼少期からの仲であり、私とキバナの元来の関係を知っている人間の一人でもある。ちなみに、彼女は親友というより、家族に近い存在だ。
「なにがって……」
行きつけの隠れ家的パブで、サングラスをかけたまま瓶入りの炭酸水を傾けたルリナに、私は言葉を詰まらせる。
昨日のこと――つまり、キバナと一線を越えてしまったことをルリナに打ち明けた。昨日の今日でだれかに話すなど最低とは百も承知だが、いてもたってもいられず彼女に助けを求めたのだ。だが、ルリナは驚くわけでもなく、ただ淡々と、「キバナと付き合えばいいんじゃない」と続ける。
「だって、今までずっと友達だったんだよ」
「それなら、昨日のことをなかったことにすれば?」
それもそうだ。顔を合わせづらいために、今日はまだ連絡すら返していないが、「お互い昨日のことはお酒の過ちということで」と和解する手もある。
「でも、きっともう前みたいな関係には戻れない」
握ったカクテルボトルの冷たさが手に刺さる。ルリナは、「でしょうね」とすげなく言った。
男女の関係は難しい。幼少期のころは男女仲良く、だったのに、それがいつしか男女で話しているだけで、「付き合っているんじゃないのか」と、不純異性交遊だ、なんだと揶揄される。成長に従って、おのずと男女間の友情は形を変えていく。昔は互いの家で一緒にゲームをしたりベッドで寝転んでリーグのDVDを見ていたのが、いつしか家にも行かなくなり、外で話さなくなったり。だからこそ、キバナのことは大切だった。
彼とは小さいころから一緒に育ったわけではない。出会ったころから大人で、それなりに恋愛経験を積み重ねていた。だからこそ、互いに打ち解けて節度を持っていい関係を築けていた。と、思っていたのに。
「キバナ、絶対幻滅した。貞操観念狂った女だけど、ぜったい、キバナとはそんなことしないって誓ってたのに」
「狂ってるのは認めるんだ」
「うん……」
私もいい大人だ。いや、けっして良い大人ではないのだが、それなりに年齢を重ねているので、ただれた関係の一つや二つ珍しくもない。キバナも、それは知っていた。知っていたからこそ、絶対的な線引きが私たちの間にはあったのだ。
「キバナは? なんて言ってるの」
「それが、なんにも」
朝起きて、なにごともなかったように彼は接してきた。
――なにごとも、なかったように?
「まあ、キバナに限って、ヤり捨てとかはないと思うけど」
それは私もそう思う。現に、朝食を用意し、自分の職場とは逆方向の私の職場まで送ってくれたのだ。親切すぎるほどである。連絡にしろ、私が返していないだけで彼からのメールは届いていた。
「うん……」
釈然としない様子で首を揺する私に、ルリナはサングラスの下で眉を上げた。
「そんなに、ショック?」
私の気持ちを汲み取ったその言葉に、目の奥がじんと熱くなる。
「うん、すごく」
「一線を越えたことが? それとも、キバナと気まずくなることが?」
「どっちも」
からだの関係を持ってしまったら、きっとどこかで彼と築きあげてきたものが崩れてしまうと思っていた。思っていたからこそ、そうしてこなかったし、そういう雰囲気にならないようにもして、「私たちはそういうんじゃないんだよ」とルリナに堂々と話していた。
お酒に飲まれてあまりにもだらしのない無防備な姿を見せてしまったことと、自分を、彼を裏切ってしまったことと、あとはなんだろう。もやもやと心の中で渦巻く感情をうまく整理できない。キバナと顔を合わせたくない反面、すごく、彼の顔が見たかった。いつもどおり他愛のないことを話して、笑って、サイコソーダとポップコーンを手に好きな映画を見たい。
「じゃあ、キバナと恋人になるのは?」
そこで、ルリナの携帯が鳴った。
「ごめん、明日朝早くから仕事入っちゃったみたい」
「そっか。それならそろそろ出ないとね」
連絡を確認して、すまなそうなルリナに私は勢いよくカクテル瓶を煽る。昨日のお酒が残っているのか、胃の中がぐるぐる気持ち悪かった。
